■目次

はしがき   ピーター・S・リンチ
デービス家の年表
序章
訳者あとがき

目次

はしがき   ピーター・S・リンチ
デービス家の年表
謝辞

序章
第一章 デービス出資者に出会う
第二章 大恐慌からヒトラー危機まで
第三章 バックミラーの向こう
第四章 債券黄金時代のたそがれ
第五章 保険の歴史
第六章 役人から投資家へ
第七章 株高の一九五〇年代
第八章 デービス海外投資に目覚める
第九章 投機に踊るウォール街
第一〇章 ウォール街に歩みだしたシェルビー
第一一章 相続騒動
第一二章 ホットなファンドを操るクールな三人組
第一三章 一九二九年以来最悪の下げ相場
第一四章 デービス ウォール街に戻る
第一五章 シェルビーは銀行を買いデービスは何でも買う
第一六章 孫もゲームに参加
第一七章 一族が一致団結して
第一八章 クリスがベンチャーを引き継ぐ
第一九章 デービス流投資術

 脚注
 訳者あとがき

■はしがき   ピーター・S・リンチ

 ジョン・ロスチャイルドはデービス家のストーリーに投資の話を巧みに織り込み、この偉大な投資家一族を生き生きと描き出した。物語の場面をウォール街とデービス家の間で行き来させることによって、不況、インフレ、相場の上げ下げなどその時々の経済情勢とそれに対して一族がいかに反応したかがよく分かる。また、彼らの長期的な視点は、現代の短期的思考に対する有効な防衛手段となろう。実際、株式市場では強気相場もそして弱気相場もまた、何年も続いてきたのだから。
 人物面では、デービスがいかにして息子(同じくシェルビー・デービス)に倹約精神と株式投資の極意を受け継ぐ準備をさせたかが描かれている(父親の技の一部を応用し、息子はミューチュアルファンドを立ち上げて成功した)。経済面では、デービス家は長期投資家なら将来必ず直面する試練にうまく対応した。ポートフォリオの大小に関係なく、すべての一般投資家にとってこの本はためになるはずだ。
 老シェルビー・デービスには、わたしがフィデリティでマゼラン・ファンドのマネジャーをしていた時代に何度か会ったことがある。会議の席や電話で話したり、彼がわたしのオフィスを訪ねてくれたりしたこともあり、保険株や金融株について意見を交換した。
 わたしが自分の著書で取り上げた多くの格言をデービスも信奉していたことを、わたしは大変誇りに感じている。いや、「わたしが」などと言うのはおこがましい。彼はわたしより二〇年も前からこうした格言を実践していたのだから。彼の息子と孫たちが用いてきた株選びのテクニックは、わたしがマゼランで用いていたものと一部重なっており、投資に関する全般的な考えは共通するところが多い。
 読む者を引きつけるロスチャイルドの知的な語り口で書かれた本書は、性急に富を築こうとあせる気持ちを緩和させる効果があるかもしれない。なにせデービス家は長期投資のタイムフレームを三世代にまで延ばしているのである。良い時代も悪い時代も自分たちのポートフォリオに固執した結果、ついには株価の下落さえ全資産で見れば取るに足らないものになった。しかも、うまく配分された彼らの資金は、庶民の給料をはるかに上回る利益を生んだ。老デービスは保険株を保有することによって、同業界で働く大半の経営者より断然多い収入を得た。
 「株は若者向き、債券は年寄り向き」という間違った一般認識は、ここでは通用しない。株は複利の威力を最大限に得る目的でいつまでも持ち続けることが可能だが、債券が株をしのぐ時期は断続的にしか訪れないからだ。投資を始める時期は早いに越したことはないが、デービスは成功するのに必ずしも若いうちから始める必要はないことも証明した。彼が一九四七年に保険株への投資を本格的に始めたのは三八歳のときだったが、その後九ケタの財産を築いたのである。
 投資の対象については、自分がよく知っているものに絞るのが一番だろう。医者やエンジニアなど専門職だけでなく一般職の人も、この戦術を往々にして見過ごしがちだ。たいていの人は自分の土地の草木が枯れていれば、青々と茂りそうな別の場所に殺到する。ドットコム企業への投機熱がまさにそれだった。一方デービスは、ニューヨーク保険局の自分のデスクに届く情報を活用した。こうした企業報告書の読み方が分かると、彼は自分が「主鉱脈」を偶然発見したことに気づいた。一九四〇年代末には、多くの保険会社が株価にまだ織り込まれていない含み資産を抱えていた。こうした掘り出し物を見つけてただ驚くだけでなく、デービスは千載一遇のチャンスを自分のものにした。彼は安定した収入が約束された仕事を辞め、投資会社を設立したのだ。客をなだめすかして株を買わせるのは無理と分かると、自ら株を買った。投資で大きく成功するには、独立精神と、大衆が嫌う「資産を手に入れる勇気」が必要だ。嫌われるものは当然、値段も安い。
 マゼラン・ファンドを運用するようになって初めのころ、短期間ではあるがわたしはファンド資産の一五%以上を保険株につぎ込んでいた。六カ月後、ファンダメンタルズが悪化するとわたしは心変わりし、保有していた保険株の大半を売却した。それ以来、気に入った保険会社(例えばAFLAC)をたまに見つけることはあるが、特定の企業や業界に特化したことはない。わたしは中小企業に大企業、国内企業に外国企業、成長企業に復活企業と、チャンスがあれば何にでも投資した。この取捨選択アプローチについてはデービス家と異なるが、ひとつの重要な点においては共通するものがある。わたしにとってこれまで最も儲かった投資先のいくつかは、期待が低く収益もさえない低成長業界だったのだ。退屈な業界でも一番元気な会社を探すことで、たくさんの急成長企業(例えばトイザらス、ラキンタ・モーター・イン、タコベルなど)を手ごろな価格で買うことができたのである。
 同様に、デービス父子は保険業界と後に銀行業界において、飛び切り上等の企業の株を人気ハイテク業界の最優良銘柄よりはるかに安く仕入れた。人気セクターは常に競争が激しく、何かのきっかけで業界の運命がいきなり暗転することもある。
 大半の人にとって保険は魅力のない業界に思われている一方で、アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)を一九七〇年代以降今日まで、株主にとって宝の山に変えたハンク・グリーンバーグのような傑出した経営者を何人か引きつけてきた。デービスはAIGのほかにも、大変優秀なリーダーが率いる一〇ほどの会社に投資し、そうしたポジションが彼の儲けの大半を占めた。
 新しいテニスボールなど買おうと思えばいくらでも買えたのに、デービスはぼろぼろのボールを使い続けた。この本では、ほかにもデービスの極端な倹約の例がたくさん紹介されており、読者の中には彼のけちぶりを愚かとか奇妙あるいはうっとうしいと感じる人がいるかもしれない。しかし、そうしたつつましい姿を見て育った彼の子供や孫は、富を築く最も確実な方法は、収入より少ない支出で暮らし、残りを株に投資することであると自然に学んだ。最近はアメリカの貯蓄率が過去最低であるだけに、こうした姿勢を見習えば、国だけでなく個人にも恩恵が及ぶだろう。
 自分の資産を次の世代に相続させることで一族内にとどめておく代わりに、デービスは息子にいつまでも役に立つ贈り物をした。それは複利運用と株選びの基本に関する理解である。空腹な者には魚を与えるよりも釣り方を教えよという格言があるが、これはそのウォール街版である。デービスは自分の支持する大学、財団、シンクタンクなどに魚を与える一方、子孫には漁師になるすべを教えた。
 息子のシェルビーは最終的にはファンドマネジャーになり、一九六九年にニューヨーク・ベンチャー・ファンドの運用担当者に就任した。同じころ、わたしはフィデリティの新入社員だった。わたしたちは冗談を言い合う仲だったが、長話はしなかった。シェルビーについては、魅力的かつ現実的で仕事熱心という印象がある。シェルビーは父親のように保険株一本槍ではなかったが、ほかのセクターにデービス流アプローチを応用した。  またしても、わたしたちのスタイルは違った。わたしは年率一五〜二〇%の増益が見込める小売株や外食株を大量に保有していた。それに対し、シェルビーは小売株を避け、堅実であまり派手さはない年率一〇〜一五%の増益組の中から目ぼしい銘柄を探した。一九七〇年代初めの下げ相場が終わったとき、二人とも徹底的に売り込まれたニフティ・フィフティ(素晴らしい五〇銘柄)をあえて避け、ほかでチャンスを探した。その結果、ともに連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ)株を買い込んでいた。住宅ローン債権の売買や証券化を行うこの会社は、一時は困難に陥った企業だ。わたしたちは、単に株が安いからといって、問題企業を買うことはしなかった。ファニーメイを買ったのは、窮地を脱した証拠をつかんでいたからだ。
 一九八〇年代末の貯蓄貸付組合(S&L)危機の最中、二人とも銀行セクターに好機を見いだした。ある時点で、わたしは多数のS&Lに投資した。株を公開している貯蓄貸付組合なら、ほとんどの銘柄がわたしのポートフォリオに入っていた。シェルビーは、専門家がその存続を危ぶんでいた時期に、シティコープ株を買った。わたしたちは金融機関の実情に精通していたので、最も暗いニュースが出たときが買いという自信があったし、ターゲットの会社について支払い能力とファンダメンタルズの改善を確信していた。
 初代シェルビー・デービスは一九九四年にこの世を去り、二代目はその三年後に運用の第一線から退いた。デービス家の第三世代(シェルビーの息子のクリスとアンドリュー)は現在、ニューヨーク・ベンチャー・ファンドやほかのデービス・ファンドで力を証明する過程にある。祖父と父に有効だった同じアプローチを彼らが使ってうまくいかないとしたら、非常に驚きだ。投資に関して過度に楽観的でも悲観的でもない彼らは、淡々とゲームを続けるはずだ。
 歴史を知らない人は、それを繰り返す運命にあるとよく言われる。しかし、ウォール街では、調整や下げ相場が遅かれ早かれ上げ相場に転じ、歴史は当たり前のように繰り返す。このパターンを知らない投資家は、必ずしも損をするとは限らないが、間違った時期に株を手放して損をする可能性は高い。ロスチャイルドの本にはドラマがあり、行間に賢明な助言がたくさん盛り込まれている。
(フィデリティ・マネジメント・アンド・リサーチ・カンパニー副会長)

■デービス家の年表

一九〇六〜一九〇九年 シェルビー・カロム・デービスが一九〇九年にイリノイ州ペオリアで誕生。地震と火災でサンフランシスコに壊滅的被害。ウォール街はパニックになり、ダウは三二%急落して五三ドルのの安値をつける。当代随一の銀行家、J・P・モルガンが米国銀行システムを救済。 一九二八〜一九三〇年 デービスがプリンストン大学を卒業。将来の妻、キャスリン・ワッサーマンがウエレスレイ大学を卒業。二人とも国際政治学に熱中し、株式市場に関心がなかったおかげで、1929年の株価大暴落に巻き込まれなかった。まだ互いの存在を知らない。 一九三〇〜一九三一年 将来の大投資家(シェルビー・デービス)がフランスの列車で将来の出資者(キャスリン・ワッサーマン)に出会う。ともにコロンビア大学で修士号を取るため、ニューヨークに戻る。大恐慌が始まるが、二人は元気に勉強に励んだ。 一九三二年 勤勉なカップルがニューヨークの市役所で挙式。ダウが四一で株式市場は底入れ。新婚の二人は船で欧州へ。デービスがCBSラジオの仕事を得る。 一九三三年 ハネムーンは終わり、デービスが義兄の投資会社に就職、初めて株に触れる。五年間の見えざる上げ相場は、株を買う金と勇気のある少数の投資家を金持ちにした。この意外な鉱脈はたいてい歴史から省略され、大勢のホームレスと失業者の列ばかりが取り上げられた。 一九三七年 デービスが義兄の会社を退職、フリーランスの作家になる。上げ相場が終わる。ダウが一九四から九八に下げる過程で、息子シェルビーが誕生、その時点では未完成のデービス流投資術の後継者ができる。 一九三八年 娘ダイアナが誕生。デービスの本『一九四〇年代を前にしたアメリカ(America Faces the Forties)』が出版される。それを読んで感心したトーマス・E・デューイ(ニューヨーク州知事で有力大統領候補)がデービスを経済顧問兼スピーチライターとして雇う。 一九四一〜一九四二年 デービスがあまりの安さ(三万三〇〇〇ドル)にニューヨーク証券取引所の会員権を購入。ダウが一九〇六年の高値水準九二まで反落。アメリカが第二次世界大戦に参戦。 一九四四年 顧問としての仕事に報いるため、デューイ知事がデービスを州保険局副局長に抜擢。デービスは自分の主鉱脈である保険会社に出合う。戦時の株高でダウは二一二へ上昇。 一九四七年 デービスが三八歳で州政府の仕事を退職、キャスリンからの元手五万ドルで購入した保険株ポートフォリオの運用に専念。ウォール街の近くで事務所を開業。平時に不安定な展開となり、投資家が「平和はビジネスに悪い」と心配したため、ダウは一六一まで下落。専門家は債券買いを推奨。債券市場は期待を見事に裏切り、三四年に及ぶ債券の弱気相場が始まる。 一九五二年 デービスの含み益が一〇〇万ドルに到達。ダウは二三年かけて一九二九年の高値三八一をついに更新。 一九五七年 息子シェルビーがプリンストン大学を卒業、バンク・オブ・ニューヨークの株式アナリストとしてウォール街にデビュー。株価がどんどん上がり、ダウは一〇〇〇を目指す。 一九六一年 三八〇万ドルの信託基金をめぐるデービスと娘ダイアナの喧嘩がニューヨークのタブロイド紙を連日賑わす。 一九六二年 デービスが日本を訪問、保険会社の株式を購入。彼の人生で最も収穫の多い旅。 一九六三〜一九六五年 シェルビーの妻ウェンディがマンハッタンでアンドリューとクリスを出産、デービス家の投資家第三世代が誕生。シェルビーがバンク・オブ・ニューヨークを退職、二人のパートナーとともに小さな投資会社を設立。 一九六五〜一九六八年 一九二〇年代以来の投信ブーム。ダウは一〇〇〇ドル辺りでもたつき、結局その後一七年はこの壁を破れなかった。専門家は、ハイテク産業が永遠の繁栄をもたらす「新時代」の到来を宣言。三回連続の下げ相場の初回。 一九六九年 デービスがスイス大使に任命され、キャスリンとともにベルンへ。息子シェルビーと相棒のジェレミー・ビッグズがニューヨーク・ベンチャー・ファンドの運用担当者に就任。三部作の下げ相場の二回目が投資家を襲い、有望ハイテク株が急落。 一九七〇年 ベンチャー・ファンドが年間運用成績トップとなり、ビジネス・ウィーク誌で称賛される。運用成績はやがて最下位に転落。 一九七三〜一九七四年 三部作の三番目の下げ相場が到来。一九二九〜三二年以来最大の下げ。ダウは一〇五一から五七七へ四五%急落。人気が高かったニフティ・フィフティ(素晴らしい五〇銘柄)の下げが七〇〜九〇%と特にきつかった。ベンチャー・ファンドの最初からの投資家は五年後に利益がゼロになった。 一九七五年 デービス大使がスイスから帰国、三年前には五〇〇〇万ドルの価値があり今や二〇〇〇万ドルに目減りしたポートフォリオと再会。シェルビーがウェンディと離婚、すぐにゲイル・ランシングと再婚。ベンチャー・ファンドでの成功体験を参考に新たな株式選別手法を採用。 一九八一年 一九七〇年代の猛烈なインフレがようやく終息する。その後二〇年に及ぶ金利低下時代の幕開け。株式は二〇年続く上昇が始まるが、この時点では少数の楽観派しかそれを予想していなかった。 一九八三年 シェルビーの単独運用となり、ベンチャー・ファンドは七年連続S&P五〇〇に勝つ。 一九八七年 株価暴落。世界中がパニックになる中、デービスは猛然と株を買う。 一九八八年 デービスがフォーブス誌の全米長者番付ベスト四〇〇入り。当時、彼のポートフォリオは四億二七〇〇万ドル。シェルビーが信頼できる優秀な投信運用担当者としてフォーブス誌に選ばれる。 一九九〇年 クリスがニューヨークの祖父の事務所に就職。 一九九一年 クリスがデービス・ファイナンシャル・ファンドの運用担当者に就任。ダウが三〇〇〇到達。 一九九三年 アンドリューがデービス転換社債ファンドとデービス不動産ファンド(どちらも彼を想定して設定されたもの)の運用を担当。サンタフェに引っ越す。 一九九四年 デービスが死亡、九億ドル近い信託財産を保守的な目的のために残す。シェルビーとクリスはデービスの持ち株を売却、その代金をベンチャー・ファンドや他のデービス家関連のファンドに投資。デービス家の資産と知力がついに集約される。 一九九五年 クリスがベンチャー・ファンドの共同運用者に任命され、アンドリューはさほど派手ではない役割に満足。ダウが五〇〇〇に到達。 一九九七年 シェルビーが還暦を迎え、ベンチャー・ファンドが二八歳に。クリスがベンチャー・ファンドの単独運用者に任命され、シェルビーは助言役に。シェルビーは自分の財産から四五〇〇万ドルをユナイテッド・ワールド・カレッジの奨学金プログラムに寄付、自分が父親の財産を相続しなかったように、子供たちにも財産を残さないというシグナルを送る。 一九九八〜二〇〇〇年 アンドリューとクリスそしてクリスの新パートナー、ケン・フレイドバーグが疲れた上げ相場に挑む。

■序章

 このプロジェクトは当初、シェルビー・デービスというファンドマネジャーについての本を出版しようという話から始まった。一般にはあまり知られていないが、シェルビーのニューヨーク・ベンチャー・ファンドは投資家に莫大な利益をもたらしてきた。彼が運用を担当してからの二八年間で、同ファンドに投資した一万ドルは三七万九〇〇〇ドルにまで膨らんだ。この間、彼の年間運用成績は二二回も市場平均を上回った。この記録は、フィデリティでマゼラン・ファンドを運用したピーター・リンチに匹敵するものである。彼がいかにしてこれほど素晴らしい成績を残せたのか、わたしは興味をそそられた。
 わたしたちはフロリダのパームビーチにあるシーフードレストランで夕食をとりながら話をした。周りは白髪交じりの頭と青のブレザーでいっぱいだった。シェルビーも青のブレザーを着ていた。細身で少年っぽい顔立ちだ。気さくながらも謙虚な性格で、話を自分自身のことから、ヒューレット・パッカードの最新の四半期決算報告書に向けようとした。彼は、事業環境の良し悪しにかかわらず業績を伸ばしている連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ)のやり方を絶賛した。ウェルズ・ファーゴとノーウェスト間の銀行合併も、彼が話すとフランスの恋愛小説のようにわくわくするものに聞こえた。
 話の続きは後日、ニューヨークの世界貿易センター九七階にある彼のオフィスで行った。会議用のテーブルについた彼は、知られざる投資家の輝かしいキャリアを細かく語ってくれた。彼によると、その卓越した株式投資術に大きな影響を与えたのは、もう一人のシェルビー・デービス、つまり彼の父親だという(老デービスもまたジョージ・ブッシュと同じように、「ジュニア」を付けずに自分の息子に同じ名前を与えたため、話がややこしくなる。以下のページでは混乱を避けるため、父親を「デービス」、息子を「シェルビー」と呼ぶことにする)。「父はわたしより優れた投資家で、五万ドルの元手を九億ドルにしました。それも、ほとんど保険株ばかりで」とシェルビーは言った。その話を聞いて、わたしは彼の父親のほうにも本の題材として興味を持った。  九億ドルという金額は、好奇心を刺激するに十分な数字だった。デービスは元フリーランスの作家で、共和党の選挙参謀やニューヨーク州保険局の副局長も務めた。一九四七年、彼は三八歳のときに公務員を辞め、経営学修士号(MBA)や正式な経済学の訓練もなしに保険業界専門の株式投資家として身を立てる道を選んだ。当時はまだ「中年の危機」という言葉はなかったが、もしあったら、周囲の人々はデービスもそれに陥って気がおかしくなったに違いないと思っただろう。
 それから四五年、デービスは自分のポートフォリオを見事に操り、ウォール街でも屈指の富を築いた。基本的に彼は、景気が良かろうと悪かろうと、世の中にビーバップがはやろうとビートルズがはやろうと、保険株を保有し続けた。アメリカの保険株が高くなりすぎると、日本の保険株を買った。彼が保有する日本の保険株は、一九六〇年代にまるで豆鉄砲を食らった鳩のように空高く舞い上がった。デービスがこの世を去った一九九四年には、投資元金が何と一万八〇〇〇倍にも膨れ上がっていた。  これはそのへんにあるサクセスストーリーではない。デービスの最初の投資金の出所は彼の妻、キャスリン・ワッサーマンだった。彼女はフィラデルフィアで大きなカーペット会社を経営する実業家の娘だった。一九四七年当時、ほとんどのアメリカ人にとって株に五万ドルも投資するなど夢のまた夢だった。だが結果は大成功で、感動的かつ希望に満ちたストーリーとなった。なぜならこの元フリーランス作家は中年になってから投資を始め、一代で億万長者になったのである。それなのに、保険業界以外では、初代シェルビー・デービスは二代目と同じくらい無名に近い存在であった。
 「父は一九八八年にフォーブス誌の全米長者番付に載りました。でも、有名になったのはたった一五秒でした」とシェルビーは言った。フォーブス誌の話が出たことで、わたしは同誌の長者番付にはいわゆる「株式投資家」は登場しないことに気付いた。シリコンバレーの奇才、企業買収家、不動産開発業者、発明家、小売会社や製造業のオーナー、メディアの大物、石油王、銀行家など同リストの常連の中で、他人の会社の株に投資することによってそこに名を連ねたのは、彼以外ではあと一人しか知らない――ウォーレン・バフェットである。  わたしはシェルビーに、彼の父親とバフェットは面識があったか尋ねた。「何度か会っています。二人は知り合いで、共通点がたくさんありました」と彼は答えた。シェルビーの説明によると、どちらも自分の金を何十年間も年率二三〜二四%で増やす抜群の成績を残した。1二人とも保険株で大儲けし、バフェットにいたっては自分で保険会社を二つ所有した。二人の卓越した投資家が、ウォール街のプロたちに「古臭い」「退屈」「報われない」と見捨てられた業界に埋もれていた宝を発見したのは、単なる偶然だろうか。保険に目をつけたという点に強い興味が湧いた。
 どちらも倹約家として知られ、大金を稼いでも質素な暮らしを貫いた。デービスは穴の開いた靴を履き、虫に食われたセーターを着た。テニスをするときでも、ずっと同じ古いボールを使った。バフェットは流行遅れのスーツを着たり、小銭をあくせく貯めたりした。バフェットに関する著書があるロジャー・ローウェンスタインによると、彼にはこんな逸話がある。すでに億万長者になってからのこと、一緒に旅行に行った友人がすぐに空港の公衆電話を使いたいので彼に小銭を求めたところ、バフェットはポケットから二五セント硬貨を見つけ出した(当時は一〇セント硬貨で電話がかけられた)が、急いでいる友達にそれを渡さず、売店で崩すためわざわざ長い通路を歩いていった。バフェットがすでに億万長者になってからの話である。
 財産が七ケタ、八ケタ、九ケタと膨らんでいっても、二人とも一九四〇年代と一九五〇年代にそれぞれ買った質素な家に住み続けた(デービスの家はニューヨーク州タリータウン、バフェットはネブラスカ州オマハ)。バフェットの妻がつつましい家にふさわしくない一万五〇〇〇ドルもする家具を買ったとき、バフェットは「死ぬほど驚いた」という友人の証言が、ローウェンスタインの著書『ビジネスは人なり 投資は価値なり――ウォーレン・バフェット』(総合法令出版)に紹介されている。「それほどの金を二〇年間、複利運用したら一体どれくらい増えるか分かっているのか」と彼は怒った。デービスも、一ドルのホットドッグを孫に買ってやるのを拒んだとき、同じような説教をした。
 財産が一〇億ドルの壁を破ったときはさすがに、庶民的なバフェットもつい気が大きくなって、社用ジェット機を購入している。彼はそのジェット機を「弁解不能号」と呼んだ。デービスはラジコン飛行機すら買わなかった。
 バフェットとデービスは共通点が多いが、対照的な点も結構ある。バフェットはフォーブス誌の長者番付でトップになったこともしばしばある。デービスも長者番付に何度も顔を出したが、ランキング中位であまり目立たなかった。バフェットの功績は高く評価されている一方、デービスは一般的にはほぼ無名である。わたしは、「知られざる最高の投資家」とか「世界で二番目に偉大な株式投資家の秘密」といった文脈で、彼の父親だけについて書くというシェルビーの提案を真剣に考えた。
 デービス本人から細かいことを知る手掛かりはない。彼は莫大な金融資産を残して一九九四年に他界したが、紙の記録はほとんど残さなかった。日誌や日記のたぐいはつけなかったし、自分が発行する週刊の保険ニューズレターもわざわざバックナンバーを保存したりしなかった。「チャブ(保険)を一〇〇株買い」など頭の片隅にある考えについても、メモ帳代を節約するため、古い封筒や切符の半券に走り書きした。そうした走り書きもゴミ箱に捨てられて今はない。
 デービスが投資を始めたころの旧友や相棒は次々とこの世を去った。彼の妻、キャスリン(シェルビーの母であり、最初の五万ドルの出資者)はできるだけ思い出すことを約束してくれたが、この気丈な九〇歳代の夫人も夫の金融活動については何も知らなかった。彼女の世代の亭主は、仕事と家庭は別と考えていたからだ。  デービスに関する一番の情報源は、わたしが最初にその人について書こうと思った、彼と同じ名のファンドマネジャーだった。シェルビーは一九三七年に生まれ、父が会社を分析するのを見て育ち、企業の最高経営責任者(CEO)を訪問する際に同行して、金をどう動かせば「七二の法則」2で決められたように増えていくのか学んだ。その単純な計算式は、かっぷくのいい建国の父、ベン・フランクリンの有名なことわざに面白いひねりを加えた。「一ペニー節約すれば、一ペニー稼いだのと同じ」であるだけでなく、「一ペニーを二五回複利で運用すれば、六七万一〇〇〇ドルになる」。
 宝くじを買う人は、一〇〇万ドル当たる確率が、O・J・シンプソンがDNA鑑定に基づいて無罪になる確率より低いことを知っている。毎週一〇ドルずつ宝くじを買う若者がはかない夢をあきらめ、リターンが年率一〇%(デービスの基準からすれば控え目)の典型的なミューチュアルファンドに毎週一〇ドルずつ投資するとしたら、三〇年で確実に億万長者になれる。デービスが息子に伝えたのは、厳選された企業(彼はそれらを「複利装置」と呼んだ)の株を保有することに対する情熱、最高の複利装置を所有することが思いがけず大きな利益につながるという確信、不必要な消費(投資できる金を無駄にすること)に対する嫌悪、そして仕事中毒症だった。シェルビーは、ファンドマネジャーとしての自分の成功が子供時代の訓練のおかげであることをあっさり認めた。デービスは、半世紀にわたって株式市場の荒波にも負けず好成績を残した常勝ポートフォリオを構築しただけでなく、つつましい仕事人間としてのその姿が、息子に同じくらい強烈な気迫を持ってその伝統を引き継ぐ準備をさせた。
 青年期のシェルビーは、何から何まで父と同じだった。ローレンスビル高校(デービスが出た寮制の私立学校)に通い、(デービスの出身校)プリンストン大学では(デービスと同じく)新聞部に入り、裕福な家庭の娘と結婚した(これもデービスと同じ)。父と同様、シェルビーも歴史を勉強する傍ら、会計学の基礎や貸借対照表の読み方、証券分析のイロハを学んだ。彼もまた父と同じくスプレッドシート上の数字よりも経営者のリーダーシップという目に見えない資産を重視した。統計を重視しすぎて「木を見て、森を見ず」にならないよう心掛けた。
 彼も父と同様、MBAへの道をあえて選ばなかった。デービスは言葉と行動でシェルビーに、ウォール街で最も人気のある学位がばかげたほどの類似性を生むことを納得させた。彼は人と同じことを避けたおかげで大儲けできた。人が右を行けば、デービスは左を行った。人が債券を買いまくっているときには株を買った。保険株についても、だれも見向きもしないときに、彼は買い集めた。シェルビーも父親譲りの独立心を発揮した。父と同様、株式投資の世界に身を投じるため、安定した職(彼の場合は銀行員)を捨てた。
 父親にとって息子が自分と同じ道を歩んでくれるのはうれしいはずだが、デービスとシェルビーの仲は親密とは程遠かった。シェルビーの思い出の中にある父親は、影響力こそ大きいが、ぶっきらぼうでよそよそしく、注意散漫な、何かにつけて競争したがる人物で、よく家を留守にした。お互いうわべだけは心を許し合っている親子を演じながらも、シェルビーが十代のころから二人はずっと反目していた。
 シェルビーは具体例を挙げた。デービスはシェルビーと妹のダイアナのために信託基金を設定した。しかし、自らの運用がうまくいきすぎて妥当と思われる以上の金がダイアナに渡りそうになると、彼女から金を取り上げようとした。また、シェルビーに対しては、年に一回、一切のコメントなしに自分の年間投資成績だけを送りつけた。まるで「勝てるものなら勝ってみろ」と言わんばかりの挑戦状だった。シェルビーは消極的な抵抗でそれに対抗した。デービスは大学生のシェルビーに教訓がましい手紙を出したが、彼は決して返事を書かなかった。また、プリンストン大学の卒業が近づいたとき、デービスは息子を雇いたいことをほのめかしたが、シェルビーはその提案を拒絶した。「あんなにけちな父がまともな給料を払うはずがない」と彼は考えたのだ。シェルビーが自分で資産運用会社を始めたとき、デービスは投資しなかった。同じ遺伝子を持つ二人の才能豊かな投資家が、アイデアや褒め言葉を交わすことはめったになかった。デービスは健康を害するまで、驚異のポートフォリオの中身を決してだれにも教えなかった。
 こうした話を聞いてわたしは最初、家族のドラマや並外れた倹約ぶりが、デービスの驚くべき投資ストーリーを味付けする面白いスパイスになると思った。ところが、よく考えると、二つの話は直接関係していることが分かった。倹約に励むことによって、デービスは最高のリターンを求めて投資するための資金を最大限に確保したのである。彼は家計における余計な支出を認めないのと同じように、企業についても過剰支出を嫌い、経営者が投資家の金を自分の家族の金と同じくらい大切にする企業の株を買う傾向があった。  彼の好きな経営者は、保険大手のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)のモーリス・“ハンク”・グリーンバーグ会長のように、情に流されない倹約精神おう盛な働き者である。デービスがポートフォリオに組み入れたのはAIGを初め保険株だけだった。これらの銘柄は典型的な非保険株に比べて大幅に割安だったし、人気銘柄に比べると異常なまでに割安だったからである。ハイテクなどかつての花形株はやがて人気が冷め、そのうち見向きもされなくなった。何についても余計な金を払わないように心掛けたおかげで、彼はコスト意識の強い企業を破格の値段で買うすべを自然と身につけた。結局、彼が家庭、会社、ウォール街において貫いた哲学が、「成長株ならどんなに高値でも」という危険な流行に踊らされずに、「妥当価格の成長株」だけを買う投資術を可能にしたのである。
 彼が子供たちに倹約の美徳を徹底的に教え込んだおかげで、彼の死後も、複利装置による財産形成の極意は脈々と受け継がれた。デービス家は資産がどんどん膨れ上がっても、家族全員で倹約に励んだ。子供たちは二〇代になるまで、わが家に何百万ドルもの大金があるとは知らなかった。シェルビーとダイアナは子供のころから、まき拾い、落ち葉かき、鶏小屋からの卵集め、雪かきなど、農家のような雑用をしながら育った。レストランでも、ロブスターやフレッシュオレンジジュースは注文しないように教えられた。子供たちが裏庭にプールを作ってほしいと頼んだときデービスは願いに応じたが、条件がひとつつけられた。自分たちで穴を掘るという条件だ。
 彼の目標は、家の財産に頼らず自立できる子供を育てることだった。そうすれば、自分が蓄えた財産は、一番世の中の役に立つことのために残せる。投資というテーマに通じるところがあるせいか、デービスは、自由企業を応援し資本主義への政治干渉に反対するヘリテージ財団のような団体に、自分の財産を残すつもりだった。彼の金は、米国システムにおける過剰な税金や規制をなるべく排除し、資本の効率配分を促すのに役立つだろう。政府が投資家を優遇すれば、国全体が繁栄を極め続けられる。
 投資の世界に身を投じてから最初の二〇年、デービスは保険株だけのポートフォリオで大勝利を収めた。一九五〇年代にはシェルビーも成人した。彼はバンク・オブ・ニューヨークで八年勤めた後、独立して友達二人と投資会社を設立した。しばらくして彼らの小さな会社は、誕生したばかりのニューヨーク・ベンチャー・ファンドの支配権を握った。ファンドマネジャーとしてデビューした年は、大人気のハイテク株への投資がずばり的中して急騰した。しかし、二年目は一九六九年から七〇年にかけての下げ相場に見舞われ、同じ株が大底まで下げた。作家が自分の文体を探すように、シェルビーは自分にふさわしい戦略を模索してポートフォリオを何度も入れ替えた。
 一九七三年から七四年にかけての下げ相場が終わると、彼のベンチャーファンドは上昇気流に乗った。シェルビーは試行錯誤を繰り返しながら、どうにか独自のスタイルを確立した。それは父親のやり方を参考にしたものだったが、単なるまねではなかった。ベンチャー・ファンドのポートフォリオに保険株ばかり詰め込む代わりに、銀行、証券会社や、父親お気に入りの保険会社と共通した特性があるほかの会社にも対象を広げた。彼は「成長企業の株を破格の安値で仕入れ」、ほんの一握りのライバル投信を除いてほかをはるかにしのぐ成績を残した。
 デービスはスイス大使を務めた後、一九七五年にアメリカへ帰国した。彼は前述二回の下げ相場で大損をし、財産を五〇〇〇万ドルから二〇〇〇万ドルに減らしていた。しかし、彼が保有する保険株はそこから反発に転じ、彼のポートフォリオも一九八〇年代半ばまでに急ピッチで膨らんでいった。しばらくすると、短期的に被った三〇〇〇万ドルの損失も、取るに足らないものに見えた。彼はその後一五年で実に七億五〇〇〇万ドルも稼いだのである。
 これまでのところ、デービスが自分の投資術を一人で活用していた時期を「デービス時代」、息子と父が同時にしかし別々に投資をしていた時期を「シェルビー時代」と区分した。その次に来るのは「クリスとアンドリューの時代」である。祖父が投資人生の晩年を迎え、シェルビーが引き続きベンチャー・ファンドに携わっていたとき、彼の二人の息子は祖父デービスの戦略に基づいて自分たちのミューチュアルファンドを運営していた。  一九六〇年代から七〇年代に育ったクリスとアンドリューは、複利運用のマジック、「七二の法則」、そして投資の黄金律を補完する一族の奥義を学んだ。クリスは十代のころ、週末に祖父の事務所でアルバイトした。夏には、メーン州にあるデービス家の別荘でコック兼運転手として働いた。彼は互いに反りが合わないデービスとシェルビーの両方とうまく付き合った。
 ウォール街で働くようになる前、クリスはキューバのカストロ首相に心酔して「資本主義の走狗」を非難したり、(あらゆる動物の言語を理解する)「ドクター・ドリトル」のような獣医になろうとしたり、スコットランド大学で勉強したときは(ネブラスカ州オマハに「少年の家」を創設した)「フラナガン神父」のような聖職者になろうとするなど、いろいろ回り道をした。そこから彼はデービス家の家業である投資の世界へ方向転換し、ボストンの銀行で訓練プログラムを受けた後、ニューヨークの小さな投資会社に就職した。一九八九年に祖父が彼を見習いとして雇った。その三〇年前にシェルビーが「けちな父がまともな給料を払うはずがない」と思って拒んだ職を、クリスは喜んで受け入れた。
 一方、アンドリューはクリスみたいな風変わりな回り道をせず、デービス家の家業にすんなり飛び込んだ。彼はメーン州のコルビー大学で経済学と経営学を専攻した。卒業後、ボストンのショーマット銀行とニューヨークのペインウェバー証券に勤めた後、シェルビーが彼のために立ち上げた二つのファンド(投資対象はそれぞれ不動産と転換社債)の運用を任された。
 家長は病魔に侵されていた。一九九〇年、デービスは八一歳のとき、心臓発作で倒れた。クリスがほぼ一人前になったと確信したシェルビーは、父のところからクリスを呼び寄せ、デービス・ファイナンシャル・ファンドの運用を任せた。これもまた第三世代に力を証明するチャンスを与えるために設立された新しいファンドだった。クリスは自分と父のオフィスをウォール街から五番街に移したが、世界貿易センターのオフィスにいるシェルビーと常に連絡を取り合うことでウォール街での足場を維持した。クリスがシェルビーと祖父を和解させようとしたおかげで、シェルビーは病床の父を見舞うようになり、デービスが一九九四年に息を引き取ったときも手を握ってみとることができた。
 デービスの遺骨はメーン州に埋葬され、彼の資産はいくつかある一族のファンドに分散された。二人の偉大な投資家の成果がついにひとつにまとまった瞬間だった。現在は第三世代がこれらのファンドの運用を任されている。

 この本は長期投資に関するものである。ここでいう長期とは、一五分とか四半期はもちろん、ひとつの景気循環よりはるかに長い時間を指す。最近は株を買ってずっと保有する「バイ・アンド・ホールド」の投資スタイルが注目されているが、デービス家はポートフォリオ運営についてだけでなく、巨額の財産を相続させないことで子供を自立した働き者に育てるすべについても、五〇年に及ぶケーススタディを提供してくれる。子供が家の財産に頼らなければ、その分を投資に回し、一族の資産は複利で増え続ける。これこそ真の長期投資であり、五年や一〇年どころか半永久的なものである。この本で紹介する彼らの型破りな投資活動は、大半のアメリカ人が株を持つことを恐れた一九四〇年代末から、大半のアメリカ人が株を持たないことを恐れた一九九〇年代までのものである。この間、彼らは長期の上げ相場を二回、調整を二五回、大幅な下げを二回、大暴落を一回、緩やかな下げ相場を七回、景気後退を九回、大きな戦争を三回、大統領の暗殺、辞任、弾劾を一回ずつ経験している。その間には、金利上昇の年が三四年、金利低下の年が一八年、長きにわたるインフレとの戦い、株安・債券高と株高・債券安の時期、株も債券も値下がりして金が値上がりした時期、そして株式投資より銀行預金のほうが報われた時期すらあった。デービス家の人たちがこうしたさまざまな局面にどう対処したかを見ると、良い時と悪い時に株がどう動くか分かる。
 ミスター・マーケットの二〇世紀の歴史は、デービス家の家系図を通して、緩慢な回復期をはさんだ三回の大幅上昇期と二回の大幅下落期に凝縮できる。株が値上がりしたのは、一九一〇〜二九年、一九四九〜六九年、一九八二年から現在の三回である。だいたい二〇年続いたこれらの上げ相場はいずれも、経済が活況を呈し、夢の新技術が登場、企業収益が伸び、バリュエーションが急上昇した時期である。消費者には自由に使える金があり、それを支出する傾向があった。
 大幅な下げに見舞われたのは、一九二九〜三二年と一九七〇〜七四年の二回である。一九二一〜二九年と一九四九〜六九年に生み出された株式市場の富は、こうした下げ相場で消えてしまった。一番人気のある業界の一番人気のある銘柄を保有していた場合は、最も傷が深かった。しかも、一般の投資家は上げ相場の終盤から買うことが多いため、大勢の小口投資家は余計に痛い目に遭った。ミューチュアルファンドを通じた投資は株を直接買うより安全と思われていたが、平均的なファンドは平均的な株と同じかそれ以上の値下がりを記録した。  回復局面においては、株式は気迷い商状が続いたり、突然反発したり、いきなり驚くほど下げることがある。相場の回復には一九三二年の底からでは二〇年以上、一九七四年の底からだと八年近くを要した。どちらの回復期にも、大衆は株式に愛想を尽かした。
 マーケットの荒波にも負けず、デービス家はその株選びの極意を駆使して好結果を残し続けている。読者もそれを応用することで、株式投資で利益を上げられるだろう。

訳者あとがき

 “デービス・ダイナスティー”というタイトルを最初に見たとき、石油王ロックフェラーや金融王J・P・モルガンをイメージしたが、読み進むうちに「普通のオヤジ」が株式投資で大成功を収める話と分かり、急に親近感がわいてきた。この本の主人公、デービスが投資の世界に足を踏み入れたのは三八歳になってからである。ニューヨーク州政府の要職という人もうらやむ仕事を捨て、相場の腕だけで食っていこうというのだから、その決意は並大抵のものではない。しかも、第二次世界大戦が終わってからまだ二年後の不景気な時代にである。その意味で、この本は暗い話題ばかりの今の日本に住むわれわれ中年の応援歌として読んでも面白い。
 二つ目のポイントは、著者が「世界で二番目に偉大な株式投資家」と呼ぶデービスの実践的な投資術を学べるところである。ほとんど保険株への投資だけで五万ドルの元手を九億ドルにまで一万八○○○倍に増やした実績は、あのウォーレン・バフェットに迫るものである。実際、二人は知り合いで、投資スタイルなど共通点が多い。これら二人の達人は、株式投資で一攫千金を狙ったわけではなく、自分流の「勝利の方程式」をひたすら信じて実践した結果として、巨万の富を築いたのである。彼らのすごさは、自分の信念にあきれるほど頑固で、自分の力を試すことに純粋な喜びを感じるところにある。キーワードは「自分を信じる力」。すでに投資をしている人にとっても、これから投資を始めようという人にとっても、大いに参考になるだろう。
 三つ目の楽しみ方は、デービスとその一族のドラマとしてである。デービスが子供や孫に伝えたのは、株式投資の極意だけではなく、徹底した倹約精神と独立精神だった。彼の倹約ぶりを物語るエピソードとして、孫に一ドルのホットドッグを買ってくれとねだられたとき、「この一ドルをうまく運用したら、五○年後には一〇〇〇ドルになる」といって拒否した話が紹介されている。しかし、彼はただのケチではない。九億ドルの遺産は慈善団体などへの寄付に回され、まさに「子孫に美田を残さず」を地で行ったのだ。彼は子供や孫に「お前たちはわたしから何ももらえないよ。そうすれば自分で稼ぐ楽しみを奪われないだろう」と常々言っていた。独立精神、それこそデービス王朝の礎である。

 2003年6月
                        高本義治


戻る