日本語版への序文──日本語版読者だけに贈る四三番目の金言 訳者まえがき 序文 謝辞 プロローグ 第一章 トレードの予測 トレードでの不幸な出来事 サダム・フセインの失敗したトレード 第二章 世界で最も大きなマーケット ビル・リップシュッツ 八年間負け知らずで五億ドルを稼いだ「通貨の帝王」 第三章 先物取引──バラエティに富んだマーケット 先物──基本を理解するために ランディ・マッケイ 毎年、前年以上の収益を達成し続けている「ベテラン・トレーダー」 ウィリアム・エックハート 驚異的な勝ち組「タートルズ」を生み、年間収益率六〇%を誇る「実践的数学者」 沈黙するタートルズ 学んでトレーディングの才能を開花させた成功者たちの横顔 モンロー・トラウト コンピューターの指示に相場観を加味して、最高のリターンを叩き出す「ポジション・トレーダー」 アル・ウェイス 四年をかけて一五〇年分のデータを分析し尽くした「チャートの生き字引」 第四章 ファンド・マネジャーと投信タイマー スタンレー・ドラッケンミラー ソロスの元で、柔軟さと多様性を身に付けた「売りの名人」 リチャード・ドライハウス 「高値で買い、さらに高い値で売る」極意で年率三〇%を誇る「買いの名人」 ギル・ブレイク 損失補填まで保証し、年利益率二〇%以下に落としたことがない「堅実性の覇者」 ビクター・スペランディオ マーケットの年齢と確率を計算し、年平均七二%を一八年続ける「究極の職人」 第五章 マルチマーケットのプレーヤーたち トム・バッソ どんな事態にも冷静沈着に対応する精神を持つ「トレーダーのかがみ」 リンダ・ブラッドフォード・ラシュキ 音符を読むように価格変動を予測する「ナンバーワン短期トレーダー」 第六章 カネ儲けマシーン CTR 機械のように淡々と稼ぐ頭脳的な「チーム・ワーク集団」 マーク・リッチー 膨大な収益をアマゾン・インディアン救済のために使う「ピットに降りてきた神様」 ジョー・リッチー 高等数学の行間を読み取り、世界一のトレディング・オペレーションを構築した「直感的な理論家」 ブレアー・ハル 有利なオプションを組み合わせて、六年半で一三七倍の収益を上げた「元ギャンブラー」 ジェフ・ヤス 相手の取引技術や知識によって自在に見方を変える「オプションの戦略家」 第七章 トレーディングの心理学 匿名トレーダー 「トレードしているのではなく、トレードさせられ」て稼ぎ続ける「直感トレーダー」 チャールス・フォルクナー 時間と経験を積んで、一つのシステムを極める者だけが成功する ロバート・クラウス 「勝利に値する人間である」ことを潜在意識に認識させることが、成功への第一歩になる 第八章 クロージング・ベル 魔術師たちの金言集四二カ条 書き終えて 付録──オプションの基礎を理解するために 用語集
金融市場の改革を含む大胆な規制緩和政策を日本政府が推進している今、この本が日本語訳されることはまさにタイムリーである。より自由なマーケットはより効率的なマーケットであり、より効率的なマーケットは国民経済的に有益だからである。
この本は、多様な金融市場で素晴らしい成功を収めた人たちについて書かれたものである。そして、彼らの成功から学ぶことのできるマーケットについての洞察や教訓は、時間を超越したものである。その意味で、書かれた当時と同様、この本の内容は今日でも生きている。実際、インタビューから導かれたポイントをまとめ、私の個人的な経験を加えて最終章に「魔術師たちの金言集」として掲げた四二の教訓を見ると、そのすべてがいまだに適切なものである。
この本を出版してからずっと、私はこの四二の他に加えるべき教訓はないかと思いを巡らせてきた。あった、一つだけ。 偉大なトレーダーに師事したいという人たちから、私はよく電話や手紙をいただく。この人たちが理解していないのは、偉大なトレーダーは自分の力で成功を築いたのだ、ということである。トレード上の秘訣を、懇切丁寧に解き明かしてもらったから成功した訳ではない。そこで四三番目の教訓として、「マーケットの魔術師を探すことではなく、自らがマーケットの魔術師となるべく、エネルギーを集中しろ」を、この機会に加えることにする。
一九九八年一一月
ジャック・シュワッガー
杉田玄白の昔から、翻訳という作業は使命感を原動力としている。 一九九五年の夏、ニューヨークの世界貿易センタービルの地下にある本屋で、山積みにされた『新マーケットの魔術師』のペーパーバックを手に取ったとき、私にその使命感は芽生えていなかった。仕事柄、機関投資家、ローカル、そして個人などのトレーダーと会う機会は多いし、実際、前著のインタビューも含めて、このシリーズで取り上げられているスーパー・トレーダーたちの何人かとは面識があり、彼らが何を考えているか把握しているつもりでいたのである。それに、トレーディングとは極めて業界的な行為で、その心理・信条を語った本が一般の読者に受け入れられるとは考えていなかったのである。 このとき私が見落としていたのは、個人投資家層のマーケットへの回帰が現実のものになっている、という認識であった。インフレの収束に終始した一九八〇年代が終焉を迎え、低成長・低金利の九〇年代が幕を開けると、八七年のブラック・マンデーで壊滅的な状態となっていた個人投資家層は、株式市場を中心に、台頭し始めるのである。 九五年一一月、大阪証券取引所の主催で行われていた証券デリバティブのセミナーに参加していた私は、宿舎から会場へ向かう車に入ったシカゴからの電話で、ニューヨーク市場のダウ平均が五〇〇〇ドルを超えて取引終了したことを知らされる。ご存じのように、その後、ダウ平均は昨今の九〇〇〇ドル台まで、ほぼ直線的な上昇を続けたのである。翌九六年一一月、証券取引審議会のデリバティブ部会で個別株オプションに関する報告を行ったとき、私はCBOE(シカゴ・オプション取引所)がその時点で年間売買高一億六〇〇〇万枚に及ぶビジネスを行っており、この数字は、売買高の七〇%、額面ベースで五〇%が個人投資家を主体とするものであることを指摘することになる。この動きに合わせて、九七年、CME(シカゴ・マーカンタイル商業取引所)のS&Pは掛け目を五〇〇ドルから二五〇ドルに引き下げ、さらに、掛け目一〇ドルのミニ版S&Pまで上場する。それを追って、株価指数では最後の大型商品といわれるダウ工業株平均の先物・先物オプションをCBOT(シカゴ商品取引所)が上場する。急上昇を続けるポートフォリオの価値を守るため立ち上がった個人投資家層は、彼らに標準を合わせたマーケットを取引所に迫る結果となり、最終的に、ヘッジ、トレーディングの機会を補完したのである。 投資家のニーズに対応しようとするマーケットの動きは、決して米国だけに特異な現象ではない。本来、電波・通信などと同様、マーケットは広く国民的な財産なのである。著者のシュワッガーが日本語版への序文で述べているように、ビックバンという規制緩和パッケージのもと、金融市場・業界改革が日本では進行中である。リスクを民主化し、投資機会の均等を図ろうとするこの動きは、プロ独占的な感のあった日本のマーケットが開放されるときなのである。貯蓄から運用へ、個人資産の管理手法が大変革を迎えようとしているときなのである。直接、または投信などを通じて、間接的にマーケットとのかかわりを持つことが不可避的になろうとしている日本で、そこに驚くべきパフォーマンスを残しているスーパー・トレーダーたちの吐息を感じさせるこの本が翻訳されることに、私は使命感を覚えるに至った。
この本の翻訳作業を進めるうちに、そんな感情を共有してくれる友人たちに出会うことができたのは幸運であった。初期の段階では、お茶の水女子大文教育学部の居城衣織里君、中央大学経済学部の若色宣明君。中盤から最終段階までは、賀来康一(農林水産省畜産試験場栄養部中小家畜栄養管理研究室主任研究官)、松本英昭 (東京フォレックス)、増沢和美(マス・ホールディングス)、長尾慎太郎(オカトーインベストメント)、野村光紀(パンローリング)、林知之(ジーク証券営業部渋谷支店ヴァイス・プレジデント)、岩本郁(サーブ・コープ)、柳谷雅之(パンローリング・アナリスト)、柳谷真由美。そして、頻繁な質問に最後までタイムリーな対応をしてくれた原作者、ジャック・シュワッガー。最後に、著作権の交渉から完成まで、この使命感を具現化するために一緒に戦い、編集を担当した阿部達郎(アクセス・ドリーム)、総合プロデュースを担当した後藤康徳(パンローリング)(順不同、敬称略)。お疲れさまでした。 多くの素晴らしい協力があって、この本は完成したのである。しかし、もし作業上の誤りが掲載されているとしたら、それは訳者としての私の責任であり、ご指摘・ご叱責をいただければ幸いである。
この本は、決して順序通りに読み進む必要はない。翻訳をしたわれわれがそうであったように、自分の好きなトレーダー、関心のあるトレード手法から読み始めていただいて結構である。まだ漠然としている読者には、掲載されている一七人のスーパー・トレーダーたちが、洞察に富んだ示唆で、探しているものを見つける手助けをしてくれることであろう。
一九九九年一月
清水昭男
私の信条とは、
一 マーケットは、予測不能(ランダム)ではない。効率的な市場を前提に論じた学者を並べたら、地球と月を往復する距離になったとしても、である。彼らは、単に、間違った前提で論じているに過ぎない。
二 マーケットは、予測不能ではない。なぜなら、マーケットは人間の行動を反映するものだからである。そして、人間の、特に集団としての人間の行動は、過去、また未来においても、決して予測不能ではないから。
三 マーケットには神秘性や、一般的な秘密というようなものは存在しない。しかし、収益に結び付く多くのパターンは存在する。
四 マーケットには、儲ける方法が数多くある。皮肉なのは、それらの方法を発見することが非常に難しいことである。
五 マーケットは、常に、変化しながらも不変である。
六 マーケットで成功する秘訣は、他人が思いも付かなかった指標や、凝った理論による手法を発見することにあるのではなく、成功した人々、その一人一人の内にある。
七 トレーディングで人より優るためには、才能と、(驚くべきことではあるが!)努力の組み合わせが必要である。これは、どの分野でも同じことである。ディ―リングで成功するために、最新の極秘情報や、三〇〇ドル、または、その一〇倍のカネを払って購入したトレーディング・ソフトに従う人たちは、決してこのことが理解できないであろう。彼らは、問題が何なのかを理解していないからである。
八 トーディングでの成功は、価値のある目標である。しかし、それが人生の幸福を伴っていなければ、何の意味もない(ここでの「成功」とは、金額的な意味とは無関係である)。
この本、そして前著『マーケットの魔術師』のインタビューを通じて、私は、マーケットで勝つために必要なのは幸運などではなく、技術や自分を管理する方法であることを知らされた。 私がインタビューした人々の勝ち幅とその確率は、偶然などではない。 前著『マーケットの魔術師』は、マーケットで勝つためにはどうあらねばならないか、を示したと信じている。一瞬にして富を築こう、と思っている人は失望することになるはずである。 この『新マーケットの魔術師』で、私は二種類の読者に語りかけるように努力した。まず、マーケットでのトレーディングを職業としている人々、または、それを研究の対象としている人々。そして、金融市場に興味があり、多くの人々が損をする中にあって、勝ち続けている人々に興味を持っている人々である。 普通の人々にもこの本が読めるように、いたずらに高尚な話題は避けたつもりだし、必要と思われる部分には解説を加えた。すべての基本的な考え方を押さえつつ、マーケットを理解している人々のために、意味深い情報も取りこぼすことのないように配慮したつもりである。したがって、普通の人にもプロのトレーダーにも、この本は意義深いものであると確信している。なぜなら、ディーリングで成功を収めるための要素は、ほとんどすべての分野で成功すること、つまり意味のあるゴールを達成するための要素と同じだからである。
まず、この本のために快くインタビューに応じ、自身の考えや経験を自由奔放に語り、また、最終稿のチェックで、その内容をいささかも変更しなかった方々に感謝の意を表したい(すべての方々がそうだった訳ではなく、内容を変更したインタビューは収録しなかった)。
多くの場合、トレーダーたちはこのインタビューによって金銭的に得るものは何もなかった。彼らの運用するファンドは公募をしていないし、追加投資の予定もないからである。彼らの協力に、特に感謝する。
そして、妻のジョアンに。オリジナル原稿を読み、適切な提案をしてくれた。彼女の提案はすべて、採用した。また、「本書きの未亡人」として一年間耐えてくれ、徹夜で執筆した翌朝などは、子供たちを静かにさせていてくれた。お陰で、そんな朝も眠ることができたのである。
私の三人の子供たちにも感謝しなければならない。ダニエル、ザッカリーとサマンサの子供たちは、この本の執筆やそれ以前の取材で、私たちが一緒に過ごす時間が潰れてしまったことついて、八歳、七歳、三歳の子供たちに期待できないほどの理解を示してくれた。
最後に、インタビューをすべきトレーダーたちに関して、アドバイスや提案をしてくれた友人たち、ノーム・サデー、オードリー・ゲイル、ダグラス・メイクピース、スタンレー・アングリスト、トニー・サリバ、そしてジェフ・グレーベルに深く感謝の意を表しておきたい。
ある冬の寒い日に、雪道を五マイルも歩いてやって来た若者が、ひすい細工職人の家のドアを叩いた。
ほうきを持った職人がドアを開いて、
「何の用だ」
若者は、「ひすいのことを学びたいのです」
「よろしい。寒いだろう、中に入りなさい」
二人は暖炉のそばに座り、熱いお茶を飲んだ。
そして、職人は緑色の石を若者の手に強く押し当てると、カエルのことを話し始めた。若者は、すぐに口をはさんで、
「失礼ですが、カエルではなく、私はひすいのことを学びたいのです」
職人は緑色の石を若者の手から取り、一週間後また来るよう、彼に告げた。
次の週、若者は再びやって来た。ひすい細工職人は、前とは違う緑色の石を若者の手に当て、カエルの話の続きを始めた。若者はまた口をはさむ。そして、職人は再び彼を帰らせる。
何週間も過ぎた。若者は、次第に口をはさまなくなる。そして、お茶を入れ、台所をかたずけ、床を掃除するようになる。
春になった。
ある日、緑色の石を見つめて、若者はつぶやく。
「これは、本物のひすいではない」
私は椅子に深く座り、この物語をしている。すると、学生の一人が口をはさむ。
「分かりました。いい話です。しかし、マーケットで勝つこととどんな関係があるのですか。私は、マーケットのことを学びに先生のところに来たのです。マーケットの強気/弱気、商品、株式、債券、それにオプションなんかですよ。私は大儲けがしたいのに、ひすいの空物語とは……、どういうことですか?」
「ここまでにしておこう。価格チャートをテーブルの上に置いておくこと。また来週」
何カ月も過ぎた。学生はしだいに口をはさまなくなり、私は「トレーダーの窓」の物語を続けた。
『トレーダーの窓』より、エド・スィコータ
前著(『マーケットの魔術師』)を書き終えて講演旅行をしていたとき、いくつかの疑問が定期的に私の中に沸いてきた。その一つは、「世界で最高のトレーダーを何人もインタビューしたのだから、それによって、私のトレーディングは向上したのだろうか?」と言う疑問だった。私のトレーディングは向上する余地が多くあったが、この疑問に対する私の答えは及び腰であった。
「どうだろう。今はトレードしていないしなぁ」 『マーケットの魔術師』の著者がトレードしていないのは何か妙ではあったが、私には正当な理由があった。トレーディングに関して基本的なルールがあるとすれば、その一つは「損を出せないときは、トレードしてはいけない」というルールである(べきだ)。損をしてはいけない資金でのトレードは、勝つことよりも負けることの方が多い。資金が重要すぎると、いくつかの決定的な間違いを犯すことになりやすい。最高の取引機会は、リスクもまた高いことから、これを逃すことになりやすい。また、完全に良好なポジションを作っていながら、市場がちょっと反対に動き始めると、最終的にマーケットが自分の思っていた方向に動き出す前に、つまり時期尚早な段階で、手仕舞いしてしまったりする。 マーケットに貴重な資金を持って行かれてしまうのを怖がるあまりに、最初にちょっとでも含み益が発生すると、すぐにポジションを閉じてしまう。皮肉にも、損をすることに対する過剰な配慮は、その恐怖心が決断能力を低下させ、車のヘッドライトに驚いて動けなくなってしまう鹿のように、損を出しているポジションに適応することができず、必要以上に持ち続けることになる。要するに、「怖がりなカネ」でトレードすることは、決断力を低下させ、必ず失敗させる方向へと人を導くのである。 前書の完成は、私が家を建てたのと同時期だった。この国のどこかには、最初に自分が予想したとおりの金額で家を建てた人がいるのかもしれない。しかし、私にはそれが疑わしく思える。家の見積もりを作っているとき、何度も言うフレーズがある。「たかがもう二〇〇〇ドル」。ここで二〇〇〇ドル、ここでも二〇〇〇ドル、そしてもっと大きな金額が最終的に加算されてくる。わが家の贅沢の一つは、屋内プールだった。このプールのために、私は取引口座を閉じたのである。このとき、私はマーケット・リスクにさらすことのできるそれなりの資金ができるまで、トレードはしないつもりでいた。そして、終わりのない周辺工事などで、トレードを再開する日はどんどん先に追いやられて行った。また、フルタイムの仕事を持ち、同時に本を出版するのは、なかなか骨の折れる作業であった。トレーディングにはエネルギーが必要だし、私としては、負担を増すことなく疲れを癒す時間が必要だった。 チャートを見ていて、英ポンドが下落寸前なのを確信したのは、そんなある日の午後だった。その前の二週間、ポンドは調整もなく直線的に下落していた。 そして直前の一週間、ポンドは狭い値幅の中を神経質に上下しているだけだった。私の経験からすると、この一連の価格の動きは、多くの場合、再び価格が下落することを示していた。多くのマーケットは、多くのトレーダーたちを惑わせる行動を示す。この英ポンドの場合、買い持ちであったトレーダーたちは、最初の戻りを待って、英ポンドを損切りたいと思っている。反対に、売りたかったトレーダーたちは、トレンドに乗り遅れたと思っている。そして、どんな戻りであろうと、そこで新たに売り建てる機会を狙っている。簡単に言えば、価格が大きく下落した後は特に、トレーダーたちは直前の安値で売ることに耐えられないでいるのである。そして結果的には、皆が最初の戻りで売ろうと狙っているとき、マーケットが戻ることはないのである。 いずれにせよ、チャートを一目見て、私は、英ポンドの価格が頭をもたげることなく値下がりする状況であることを確信した。強く確信すればするほど、売ってみたい衝動にかられた。しかし、トレーディングを再開する時ではない、とも感じていた。 時計を見ると、マーケットの終了までに一〇分あった。そして、ぐずぐずしている間に、マーケットは終了してしまった。 その夜、オフィスを出るとき、私は間違っていた、と思った。 たとえトレードを再開したくなかったとしても、価格が下がることを確信していたのなら、売るべきだったのではないかと思ったのだ。そこで、夜間取引デスクへ行き、英ポンドの売り注文を出したのである。次の朝、英ポンドは、寄り付きで前日終値比二〇〇ポイント以上、下落していた。 私は少額の資金を取引口座に入金し、同時に、私の売り値レベルでストップ・オーダーを入れておいた。含み益で取引しているのであり、マーケットが私の売り値に戻れば手仕舞うのだから、損を出せない資金ではトレードをしないという考えには反していない、というように気持ちの整理をしていた。いずれにしろ、気持ちに反して、私はトレードを再開していた。 この英ポンドの取引は、前著に書いたトレード上の原則の一つを示すいい例である。成功するためには忍耐が大切な要素であることを、何人ものスーパー・トレーダーたちが力説していた。ジム・ロジャースは、その中でも、このことを最もはっきり語ったトレーダーであった。 「そこにカネがたまるまで、私は単に待ちます。その後、そこまで行って拾い上げるだけです。それまでは、何もしないことですね」 要するに、トレードをしなかったことにより、私は待つことを学習していたのであり、やり過ごすことのできない状況まで待つことによって、私がそのトレードで勝つ可能性は非常に向上したのである。 次の数カ月間、トレードに関する私の決断は当たり続けた。私はトレードを続け、取引口座の資産も少しずつ増えていった。 口座残高は、ゼロから(最初に二〇〇〇ドル入金したが、含み益が証拠金以上に発生した段階でそれも引き出した)、二万五〇〇〇ドル超までになっていた。節目は、このときに起ったのである。私は出張中であった。そしてほとんどすべてのポジションが、同時に損失を出し始めたのだ。会議の合間に、急いで決断したトレードのすべてが間違っていたのである。一週間で三分の一の資金を失った。 通常ある一定の損失を出したとき、私はブレーキをかけることにしている。トレードを必要最小限に押さえるとか、全く止めてしまうとかである。本能的に、この原則に従っていたのかもしれない。私はポジションを最小限に押さえた。 こんなとき、友人のハービー(仮名)から電話をもらった。彼はエリオット波動に基づいたトレードをしている男だった。ハービーは、よく私の意見を求めて電話をしてきた。しかし、同時に、自分自身の意見も言わずにはいられないようだった。個別のトレードについて、人の意見を聞くのは間違いだと私は思っていたが、ハービーが幾つものいい決断をしたことがあるのも知っていた。そして、その日に限って、私は彼の意見を求めてしまったのである。 「ジャック、ポンドを売らなきゃだめだよ」と、ハービー。 このとき、英ポンドは四カ月間直線的に買われ続けていて、一年半ぶりの高値に近づいていた。 「私としてはね、マーケットは最高値から数セントというレベルだと思うんだけど、こんな一時的な買い上げでは売れないと思うんだ。高値を達成した、というサインがあるまではね」 ハービーは言い返してきた。 「そんなサインは出ていないね。いいかい、これは第五波の五波なんだよ」(これはエリオティシャンが言うところの価格波の構造についての話で、エリオット波動に関して詳しくない読者には、説明することによって難解になってしまうので解説を割愛する。私を信じていただきたい) 「マーケットは、ここで最後の息継ぎをしているのさ。月曜日の寄り付きは今日の終値よりもずっと安くなるね。それからは、振り返ることのない直滑降さ」 この会話は、その週の高値圏で英ポンドが推移していた金曜の午後のことだった。 「絶対。自信があるんだ」と、ハービー。 私は考えていた。損を出していたし、ハービーの市場分析はいつもなかなかのものだった。そして、今回の英ポンドの件について、彼は特に自信があるようだった。彼の話に乗ってみようか。もしハービーが正しければ、私は損失を取り戻すことができる。 そして、私は(今でも思い出すと身をすくめてしまうが)、 「分かったよ、ハービー。そうしてみよう。人の意見でトレードするのは悲惨な結果になることが多いから、このポジションの処理は君に従うことにするよ。君が反対売買を行うとき、私もポジションを閉じる。もし君のマーケットに対する意見が変わったら、必ず、連絡してくれ」 ハービーは同意し、マーケット終了の三〇分前に私は売り持ちになり、その週の高値でマーケットが引けるまで、英ポンドが少しずつ値を上げていくのを見つめていた。 次の月曜日、英ポンドは先週末より二二〇ポイント高値で取引を始めた。私のルールの一つに、建ててすぐに窓を開けて逆行するポジションを持ってはいけない、というのがある(窓とは、寄り付きが直近の終値からかけ放れている状態のこと)。 金曜日に建てたポジションは、間違っているように思えた。本能的に、反対売買を行い、損を出し、ポジションを手仕舞うべきだ、と私には思えた。しかし、ポジションはハービーの市場分析に基づくものであり、それに矛盾しないことが重要に思えた。 ハービーに電話した。 「ポンドの売りポジションはどうも良くないようだけど、市場分析をミックスするのは良くないから、反対取引については君に従うつもりでいるんだけど、どうかな?」 彼は、言った。 「思っていたよりも高値になっているね。だけど、これは、まあ、波の延長なんだよ。ストップするまでもうすぐだと思う。このまま売り持ちだな」 その週、マーケットは少しずつだが上がり続けた。金曜日、英ポンドにとって売り材料になるニュースが発表され、午前中に少し値を下げたが、午後になると高値近辺に戻ってしまった。マーケットがニュースに反応しなかったことに、私は警戒を感じていた。再び、本能的に反対売買をして、ポジションを手仕舞いたかった。しかし、同時に、この段階でゲーム・プランを変えたくはなかった。 私は再度、ハービーに電話をした。思ったとおり、波はまだ延長されていて、ハービーは今まで以上にマーケットに対して弱気であった。私は、売りのままでいた。 次の週の月曜日、マーケットが数百ポイント上にあったことは、それほど驚くに値しなかった。次の日、マーケットはまだ少しずつ値を上げていた。そして、ハービーから電話があった。彼の自信は揺らぐことなく、勝利に満ちていた。 「いい知らせだ。分析をやり直してみたんだ。トップに近いよ」 私は感情を押し殺した。まだ起きていないことに対する彼のこの自信に、私はなぜか不吉なものを感じていた。同時に、この売りポジションに対する私の自信は、反比例して乏しいものになっていた。 思い出したくもない細部の話は別にして、一週間後、ハービーがどうしようと、私はポジションを閉じることにした。そして、マーケットは、その七カ月後も高値を更新していた。 トレード上の一つの間違いが、次々に他の間違いにつながっていくのは驚くばかりである。人のトレードに従って、簡単に損を取り戻したいという欲から始まった話である。このとき私が取った行動は、他人のマーケット動向に対する意見に左右されるのは愚かなことある、という私が強く信じている信条に反していた。 このトレードで犯した間違いは、ポジションを閉じるのを促した幾つかのマーケットからの強烈なサインを、私に無視させることになった。最終的な決断を他人任せにしてしまった私には、ポジションのリスクを調整する方法がなかった。 言いたいのは、他人の当たらないアドバイスでトレードをして損をした、ということではない。そうではなくて、マーケットは、間違いを犯した者に対して無慈悲であり、必ず相当の罰金を科してくるということである。損をした責任は、ハービーにではなく、私にある(もちろん、多くのトレーダーに有効的に利用されているエリオット波動のせいでもない)。 その後、軽くトレードしていたが、一カ月後、私の取引口座の残高が以前の損を取り戻したとき、取引を止めてしまった。 短期間で儲けたり、損をしたりしたが、最終的には、マーケットでの経験以外、特に得たものはなかった。 数カ月後、講演することがほとんどないエド・スィコータが出演することになっているセミナーで、私も講演する機会があった。エドは、私が前著でインタビューした偉大な先物トレーダーの一人であった。彼のマーケットに対する見解は、科学的分析、心理学、そしてユーモアがミックスされた特殊なものだった。 エドの講演は、会場から観客を一人ステージに迎えることから始まった。彼が用意していた数枚のチャートと雑誌の表紙に記載された特集記事を、エドはその観客にマッチさせたのである。 最初に、一九八〇年代初頭の特集記事「金利は二〇%になるのか?」、そしてこの記事が掲載されていた雑誌の発行日と、債券市場が底値を付けていた時期は呼応していた。 エドが取り上げた次の雑誌の表紙は、焼け付く太陽の下で枯れてひび割れている畑の不吉な写真であった。この雑誌の発行日は、一九八八年の日照りで穀物市場が高値を付けた時期と呼応していた。それから彼は、最近の雑誌から「オイル価格はどこまで行くか?」と書かれた記事を取り上げた。この記事はイラクのクウェート侵攻以来数カ月、高値を続けていた原油についての特集だった。 「価格は、おそらく最高値を付けてしまった、と私は思います」 と、彼は言い、またそれは正しかった。 「皆さんも、市場の推移に関する重要な情報を、ニュースや経済雑誌からいかに収集するかということが、お分かりになったと思います。記事の内容はどうでもいいのです。表紙を見ましょう」 典型的なエド・スィコータの講演だった。 私は自分のトレードに関する経験を、彼に話したくて仕方がなかった。そうすることによって、エドの洞察にあふれる言葉の一部にでも接したかったのである。不幸にも、セミナーの休憩時間には、私も彼も観客に囲まれてしまった。 ただ、われわれはサンフランシスコの小さな同じホテルに宿泊していたので、ホテルに帰った後、私は、どこか静かに話せるところに行かないかと、彼を誘ってみた。エドは疲れていたようだったが、同意してくれた。 静かに話せるバーかカフェを探して歩き始めてはみたものの、この小さなホテルの周りには、大きなホテルしかなく、結局、仕方なくその一つに入ることにした。 そのホテルのラウンジでは、大音響のバンドをバックに最悪な歌手がなんと「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌い上げていた(もし私たちがニューヨークにいたとしたら、「霧のサンフランシスコ」を歌ってくれたに違いない)。 私の助言者になってくれるかもしれない人物と静かな会話をするには、このラウンジは適切とはいえなかった。 BGMが問題ではあったが、私たちはそのホテルのロビーに座ることにした。最悪の環境だった。 腹を割った話がしたい、という私の希望はかなえられそうにもなかった。意思に反してトレードを始めてしまったこと、何年も前に悟ったと思われる過ちの数々を例の英ポンドのトレードで犯してしまったこと。そして、皮肉なことに、英ポンドのトレードをする前、私の取引口座は二万ドルの収益を上げており、その金額に相当する新車を物色していたことなど。家の建築でカネを使い果たしてしまった私は、新車を買うために取引口座を閉じようとしていたのである。 魅力的なアイデアだった。新車は数カ月の間に収益をもたらしてくれたトレードに対する物理的な証だったし、そのために私自身の資金を使ってはいなかったのである。 「ではなぜ口座を閉じなかったんだ」 エドが聞いた。 「だって、できなかったんだよ」 私は答えるしかなかった。 幾度か数千ドルを一〇万ドルにまでしたことがあったが、その時点でいつも私はその先に進むことができなかった。私には、このレベルを超えて、もっと大きな資金に育てていくことができなかったのである。 もし勝ちカネで何かを買ったとしたら、そのときトレードの目的を達したのだ、と私は思うのだろうか。もちろん、後から考えれば、収益を確定してしまった方がはるかに良かった。しかし、私は、トレードの機会を見逃すことができなかったのである。こんなようなことを、私はエドに極力、理性的に説明した。 「言ってみれば、君は損をしなければトレードを止められない、そういうことかな?」 もうそれ以上、彼は何も言う必要がなかった。私は、前著でのエドのインタビューを思い出していた。もっとも印象に残った彼の言葉は、 「すべての人が、マーケットから、それぞれ欲しているものを得る」 であった。 私はトレードをしたくなかったのだし、まさに、トレードをしなくなったのである。 ここでの教訓は、常にトレードをしていなくてもいいのであり、どんな理由にしろ気分が乗らないときはトレードをするべきではない、ということである。 マーケットで勝つためには、自信と同じくらいトレードする意欲が必要なのである。 この二つは、優秀なトレーダーであったとしても、ごくまれにしか同時に訪れることがない。 私の場合、当初、トレードに対しての自信はあった、しかし、意欲がなかった。そして最終的には、そのいずれも残らなかった。次に、トレードを再開するときには、両方を持っていたいと思っている。
トレードに関する正しい決断、間違った決断の要素は、多くの点で一般的な決断と非常によく似ている。この本の仕事を始めたのは、湾岸戦争に発展する直前の出来事が発生したのと同じ時期だった。私は、イラクのサダム・フセインの行動(もっと正確に言うと、彼が行動を起こさなかったこと)と、自滅してしまいそうな初心者のトレーダーの反応との間に、ある共通点を見出していた。 フセインのトレードとは、クウェートへの侵攻のことである。このトレードに関して、明確で原理主義的な理由をフセインは当初持っていた(もちろん原理主義者としての理由は、後にフセインが、便宜上、宗教上の理由を持ち出したことによって発生したのである)。 クウェートへ侵攻することによって、フセインはOPEC(石油輸出国機構)の枠を超えて原油を生産していた国を排除し、市場を混乱させ、原油価格をイラクのために高値誘導することができた。そして、彼には、クウェートにある一部、またはすべての油田を獲得し、ペルシャ湾への陸路を確保できる可能性もあった。そして、侵攻は、フセインの誇大妄想狂的な野心を満足させる絶好の機会だった。 この「収益」の可能性に対して、フセインが甘受したリスクは限られたものだった。多くの人は、アメリカが最終的に示した強い決断の陰で忘れてしまったが、イラクによるクウェート侵攻を示唆した宣言や行動に対して、米国務省の最初の反応は端的に言って、「アメリカにはかかわりがない」というものだったのである。 フセインとの交渉で、このような主体性のないアメリカのスタンスは、イラク軍戦車のために赤い絨毯を敷いてやるに等しいものだった。 したがって、フセインのクウェート侵攻は、最初は大きな可能性と限られたリスクに裏打ちされた、「賢いトレード」だったのである。 しかし、よくそういうことが起こるように、マーケットは変わってしまった。 ブッシュ米大統領は、サウジアラビアを守るために軍を派遣し、クウェートからフセインを撤退させるため、国連決議採択に尽力し始める。この時点で、フセインは素早く「含み益」を現実のものとすることができた。クウェートから撤退する代わりに、領土問題で優位に立つことや、港湾権について交渉することができたのである。しかし、ポジションが悪化しているのに、フセインは何もしなかった。 次にブッシュは、派遣された国連軍の数を倍の四〇万人にして、フセインに強いシグナルを送った。これは、アメリカがサウジアラビアを守るためだけではなく、武力によってクウェートを解放できるに足る能力を用意していることを示す行為だった。マーケットは、明らかに変わったのである。それでも、フセインはマーケットからのサインを無視して、何もしなかった。 ブッシュ大統領は次に、国連決議に基づくイラクのクウェートからの撤退を一月一五日とした。フセインのポジションは、さらに悪化したのである。この時点で、このトレードでの収益の可能性は失われた、と考えていい。しかし、まだフセインは、クウェートから撤退し、トレードをブレーク・イーブンにすることはできた。しかし、またしても彼はポジションを放置して何もしなかった。 一月一五日の期限が過ぎて、アメリカと連合軍がイラクに対する空爆を開始した時点で、フセインのポジションは損失の領域に入ったと考えていい。そして、マーケットは大きく下がり続け、決断を一日延ばすごとに、イラクはさらに破壊されていった。しかしこんな大損をした後で、フセインにあきらめがつくはずがなかった。まるで、悪化しているポジションに捕まってうろたえているトレーダーのようなものである。フセインは起死回生の大穴に賭けるしかなかった。「待っていれば、多分、死者の数がアメリカを恐れさせ、やつらは譲歩する」と。 トレンドはポジションをさらに悪化させ、アメリカは別の期限付き最後通牒を迫ってきた。今度はイラクに対する陸上戦である。この段階で、フセインはソ連の和平提案の条件に同意する用意があった。しかし、それも以前は満足できる内容であったかもしれないが、この時点では不満の残る内容であった。 フセインの行動は、下落を続けるマーケットで買いのポジションを持っているトレーダーにそっくりで、 「買い値に戻ったら、ポジションを閉じよう」と思っている間に、この買い持ちポジションに対するマーケットの環境はさらに悪化し、 「直近の高値になったら損切ろう」と思っていると、時間とともに直近の高値はどんどん下落していく。最終的に、陸上戦は始まってしまい、軍のほとんどを失ってフセインは降伏した。取引口座が破壊されるまで、損を出しているポジションを抱え続け、絶望的な状況で、 「反対売買をしてくれ。値段はいくらでもいい。早く解放してくれ」 と、ブローカーに叫んでいるトレーダーに、フセインは似ている。
<教訓>
小さな損をすることができなければ、遅かれ早かれ、丸損を経験することになる。