■目次
日本語版への序文   マーク・ファーバー                     1
監修者まえがき    足立眞一                               5
謝辞                                                         13
推薦の言葉      ジム・ウォーカー                       15

第1章 変貌する世界                                         19
第2章 将来における主要投資テーマ                           25
第3章 高リターンが期待できる投資に関する警告               61
第4章 新興市場への投資に関するさらなる警告                 73
第5章 新興市場のライフサイクル                             103
第6章 生きている景気循環                                   133
第7章 経済における長期波動                                 155
第8章 新時代とマニアとバブル                               197
第9章 アジアの変革                                         243
エピローグ                                                   263
参考文献                                                     283

■日本語版への序文

 日本の読者のみなさん。

 『トゥモローズゴールド(Tomorrow's Gold)』が日本で出版され、これを手にとっていただいたことは筆者にとって大変光栄なことである。筆者は、ウォール街で働いていた1970年に初めて日本の文化に触れて以来、日本に魅了されている。当時、仕事のかたわら通っていたニューヨーク・インスティチュート・オブ・ファイナンスのクラスに、授業を理解しようと苦戦する日本人がいた。気の毒にクラスのだれとも話をしていない彼に、筆者は声をかけることにした。彼は英語をほとんど話せなかったにもかかわらず、わたしたちはお互いを理解し、共通の関心事が数多くあることも分かった。こうして親しくなったのが、筆者にとって初めての日本人の友人である足立眞一氏だった。それからは、アメリカの投資銀行、ホワイト・ウエルド・アンド・カンパニーの日本進出のため頻繁に日本を訪れるようになった1993年以降や、今回本書を日本で出版するに当たって足立氏には大いに助けられている。また、彼のおかげで日本経済と、勤勉で忍耐強く責任感と忠誠心にあふれた日本人について深く知ることができた。以来、日本には何度も足を運び、1970年代には日本株に多少の投資も行った。当時は日本経済の優位性を確信していたばかりでなく、日本人が1970年代の石油価格急騰に素早く適応したことに感嘆したからである。つまり、日本株のパフォーマンスがアメリカ株を上回り、米ドルに対して円が強くなる以外ないと信じていたのだった。

 ところが、1980年代になると日本の株と不動産は、世代に一度程度の割合で発生するバブル状態を迎え、大崩壊が目前に迫っていた。しかし何人かの金融専門家に日本株がピーク時より50%以上下げると言っても、当時はだれもそれを信じなかった。それどころか日経平均が3万9000円をつけた1989年末には、野村證券でさえ1990年に日経平均は5万5000円を超えるという予想を発表していたのである。筆者の知るかぎり、アジアのエコノミストはみんな流動性の高い日本の株式市場が下がることなどあり得ないし、そのようなことは日本政府が絶対に阻止すると言っていた。

 もちろんそのあと起こったことは周知のとおりである。しかし、ここで13年以上におよぶ日本のベア相場についていくつかの観測を述べておきたい。株式市場の下落によって、日経平均と不動産価格は70%下がった。しかし、この株と不動産の「デフレ」は、債券の歴史的なブル相場をもたらし、長期国債の利率は1990年には7%に達しているのである。ちなみにこれも2003年には0.50%にまで下落している。

 さらにこの時期、住宅や生活費が全般的に下がり、ゴルフ場会員権も手が届く水準に戻ったことから、デフレの最中でも多くの日本人の生活水準は向上している。そして最後に、この13年間日本は非常に困難な時期を経験しながら、企業は多くのセクターで競争力を維持しているばかりか、研究開発を強化して、さらにリードを広げている分野まである。このことは、特許保有数で世界のトップ10企業のうち6社が日本企業であるという事実にも表れている。今後も中国の市場開放や同国の驚異的な競争力を誇る製造業、世界市場で台頭しつつあるインドのサービスセクターなどによって日本の困難はまだまだ続くだろう。しかし、日本のビジネスマンは世界中の経済地図と地政的環境を塗り替えつつある巨大な変革をすでに感じ取っていると思う。日本には1970年の1.70ドルから1980年には50ドルに急騰した1970年代の石油価格に適応してきたように、今回の巨大変化にも適応していく力がある。それどころか、これによってもたらされるチャンスを利用しようと動き出しているのではないかとすら思う。この考えから最近筆者は日本株の買いと、国債の空売りを勧めている。本書では、世界中の中央銀行が資金を過剰に供給したため、インフレが加速して商品価格が大幅に上昇し、ここ何年間かで株式のパフォーマンスが債券を上回るという筆者の予想を詳しく説明している。

 1年前に本書を上梓したあとサーズ(SARS)が蔓延し、最近になって収まってはきたものの将来さらに感染力を増して再発すると思われる。また、アメリカがイラクに侵攻し、いまだにゲリラ戦が続いているが、おそらくアメリカが勝利するよりも、世界中で反米感情が高まる可能性のほうが大きいだろう。そして、最近では世界中で債券の値下がりと、金や商品価格の値上がりが起こっている。これはインフレ率の高騰と金融資産の運用環境の悪化を示唆しているのだと考えられる。しかし、またの名を「ドクター・ドゥーム」(運命論者)と呼ばれている筆者は、今でもアジアの将来を楽観しているのである。アジアを見渡せば、インドネシア、オーストラリア、マレーシア、モンゴル、極東ロシアには天然資源があり、日本、韓国、台湾、そしてこれからの中国には技術がある。ITサービスを誇るインドも忘れてはいけないし、グローバル資本制度を導入し、市場経済に新たに加わりつつあるベトナム、ミャンマー、カンボジアも大きな可能性を秘めている。そして何よりも、アジアには若くて力強く、向学心に燃え、勤勉で意欲的な人々がおり、この才能が集結し、交流することが将来の経済成長の原動力になっていくことだろう。つまり、筆者は21世紀中に西側の経済的な主導権はアジアに移り、ここが経済と政治の中心ブロックになると確信しているのである。日本がこの歴史的な巨大変革において主導的な役割を担うことは間違いない。読者のみなさんと、信じられないような変化がかつてない速さで起こる時代を生きることになるみなさんの子供たちの将来が、幸多いものであるよう祈っている。
2003年7月27日 タイのチェンマイにて
                  マーク・ファーバー

■監修者まえがき

 数えてみると、もう32年の昔になる。われわれはウォール街のニューヨーク・インステイチュート・オブ・ファイナンスで、アメリカの外務員試験の予備校でともに学んでいた。当時はベトナム戦争が泥沼に入り、アメリカの先行きに不安が山積していた。普段は100人のクラスなのに、長期の相場の低迷のため、わずか10人。

 マーク・ファーバーと親しくなるのに時間は要しなかった。「日本の人口に占める黒人は?」、私への挨拶代わりの言葉であったことを、いまでも鮮明に覚えている。彼は名門投資銀行のホワイトウエルド社(後にメリルリンチに買収される)に入社したばかり。ロンドン・オブ・エコノミックスで博士号を取得し、証券界で身を立てるため、ウォール街に出てきた。われわれの趣味が美術品の収集ということも手伝って、親密になるのには時間は要しなかった。

 日本についてのその程度の知識のファーバ博士が、いまやグローバル投資の世界では第一人者にのしあがったのには、敬服のほかない。米バロンズ誌の恒例の投資座談会の11人のメンバーのうち、外国から招待される2人のメンバーでもある。

 私との距離を縮めたのは、第1次のオイルショック後(1978年)に香港に赴任し、そこに永住するようになったからだ。

 マーク・ファーバー博士の名を世界的に有名にした決定打は1987年のウォール街のクラッシュをズバリ予測したことだ。投資家への月刊ニュースレターで、その年の半ばから「暴落が来る」と警鐘を鳴らし続けた。そのとき口の悪い連中が、彼に送ったニックネームが「ドクター・ドゥーム」(運命論者)である。予言がずばり当たった。ニューヨーク株の暴落が世界中に波及し、「大恐慌の到来」のテーマの本が書店に氾濫した。そのとき、彼と、その顧客は大儲けした。彼は評論家でもなく、机上の空論を論じるストラテジストでもない。実践家である。

 クラッシュ後、求められて処女作『相場の波で儲ける法(The Great MoneyIllusion)』(東洋経済新報社刊)を書いたが、見事なのはその本で「次は日本株の暴落の番だ。バブル崩壊で日経平均が8000円まで下がらなければ、下げ相場は終わらない」と予見した。

 1992年には世界初のロシア株専門のヘッジファンド「ファイアーバード・ファンド」を設立した。1990年代半ばには、しばしばヘッジファンドの世界でナンバーワンのパフォーマンスを記録した。ロシアに目をつけたのはジョージ・ソロスよりも早かった。そして再び、わたしを唸らせたのは、1997年末にロシア・ファンドを経営権も含めて売却したことだ。

 1998年のロシアの破綻でLTCM問題、ヘッジファンドの行き詰まりが続出したのは記憶に新しい。

 彼は今年の5月には「日本での13年間の下げ相場は終焉し、世紀の買い場が到来」と日本について180度転換した。心強いかぎりである。本書を読めば、なぜ日本に強気になったかの、判断のプロセスが分かる。

 彼の投資の哲学はいわゆる「コントラリアン」(逆張り)である。自分の運用しているファンドの一つに「偶像破壊ファンド(Iconoclastic Fund)」というのがある。

 本書『トゥモローズゴールド』でも、決してこれからの世界の投資環境に悲観的でなく、むしろ次のゴールドラッシュの世界を求めて、荒野を駆ける男の姿を印象付けられる。

 長年の付き合いから教えられたことは、よく見られる運命論者的なコントラリアンではなく、投資、投機の世界でのリスク管理からきているということだ。

 彼の博学はすごい。経済の専門書だけでなく、社会科学、文化、文学、人類学、歴史など多岐にわたる。古書の収集でも有名でアダム・スミスの古典「国富論」の初版本を自慢にするほどだ。

 香港で夕方、ワインを1本、開けて彼の自宅で食事をした後も、私をバイクの後ろに乗せてホテルへ送り、ご自分はオフイスへ戻る。欧米の市場の動きを追っかけるためである。

 彼との交友の32年間は走馬灯のように回転した。しかし、彼にとってはオンリー・イエスタディ。次のゴールドを発見するための旅は無限に続く。  2003年8月
                      足立眞一

■推薦の言葉

 1990年代後半、ジャーナリストや政治家、そして一部の不謹慎な中央銀行までが米国の景気循環は力尽きたと、(再び)主張し始めた。マイクロプロセッサー革命が経済を円滑なリアルタイムの情報マシンに変えたからだというのがその理由だった。循環(サイクル)とは、情報の流れが遅くて不完全だったオールド・エコノミー時代の残骸だというのである。

 そういう彼らにも、景気循環の最後に付き物の高揚感が、グローバル金融システムの現在の停滞の直接の原因だということは分かっている。大きすぎる信用枠が過剰な投機に火をつけるのがブーム終焉の大きな特徴で、これはいつの時代も変わらない。バブル崩壊は歴史のあちらこちらに散乱しているのである。

 マーク・ファーバー博士は、この現象について数多くの例を挙げている。本書は一言で言えば景気、信用、投資、人々の心理が作る循環と大きなトレンドについて書かれたものだが、これこそが世界経済の本質であり、短いサイクルは長期の波の背景になっている。転換期は産業革命や政変、単なる社会通念の変化によって始まる。ときにはサイクルと波が同時に起こってお互いを強化したり、反発したりすることで投資家や経済関係者にさまざまなシグナルを送ることもある。

 これにぴったりの例が日本である。通常、日本は過去12年間一貫して下降していたと言われているが、1995〜1996年と1999〜2000年にかけて2つの循環的上昇期があった。銀行システムがこの上昇を支えることができなかったため成長はすぐ力尽きているが、どちらの時期も株式市場は30〜40%も上昇していたのである。投資家は長期的なトレンドが変わらないことには気づかないまま短期サイクルに飛びつき、もちろんそれで儲けた抜目ない投資家もいるが、大半は循環的上昇を上昇トレンドへの転換と勘違いして損失をこうむった。これは、すべての投資家にとって教訓となるケースで、トレンドのほうがサイクルに比べて影響力は大きいが、儲ける機会を多く作るという点ではサイクルのほうが勝っている。ただ、残念ながら投資に関する一時的な流行、ファッション、熱狂(マニア)を目の当たりにしているにもかかわらず、投資家が過去の歴史から学ぶことはまれで、結局は同じ過ちを何度となく犯している。

 本書は、投資バブルの警告となる兆候を見つけ、これから走り出そうとしているのに見過ごされている資産を探すための手助けになるよう期待して書かれている。そのために、ファーバー博士はトレンドやサイクルを見極め、現在特に魅力的なアセットクラスとして、アジア(特に中国)と商品相場に注目したのである。CLSAとしてもこの意見にまったく異論はない。

 ファーバー博士のこの結論は、私(ウォーカー博士)や同僚のグローバル・ストラテジスト、クリス・ウッドと相談して出したものではないが、3人とも経済について説明するときオーストリア学派の理論体系を大いに利用する点は共通している。これを使うと堅苦しい数学モデルの代わりに演繹的論理と人間の本質への理解を多用することになる。しかし、これは必ずしも主観的だというわけではなく、経済の中心にいる科学者もどきの連中が好む好まざるにかかわらず、現実なのである。結局投資判断の中心は、ほとんど、もしくはすべて強欲と恐怖で占められているからである。

 この1年ほどを費やした調査の結果、CLSAの経済と戦略チームは国内需要の改善によって、アジアこそ強力な循環的上昇の先端に位置しているという結論に達した。これだけでもアジアの株式市場にとってプラス材料だが、今回はそれが強力な長期トレンドによってさらに強化されている。中国の龍は解き放たれた。この国の成長を支えているのは、プライベート・セクター(富裕層)の活性化である。ファーバー博士も述べているように、中国は遠からず天然資源の主要な消費国、かつ最大数の旅行者輩出国、そしてジョイント・ベンチャーや企業買収の中心地になっていく。そうなると、それ以外のアジアの国々もこの龍に便乗して大きな恩恵を受けることになるだろう。

 われわれはこの長期トレンドを「アジアの10億人ブーム」と名づけた。アジアに関する観測は、その大半が大きな影響力を持つ人口統計に基づいてはいるものの、これは「ベビーブーム」現象とは異なっている。アジアには、金融危機からの復活と、「明日は今日よりもよくなる」という実感がある。自信を取り戻したアジアの国々の消費と投資が拡大するのはそう遠くはないだろう。

 本書は中国をはじめとする新興市場を歴史の一部としてとらえ、これまでの経緯に新たな視点を加えている。ファーバー博士は、かつて人々が投資先という意識を持っていなかったために見過ごしてきた資産を明らかにしたうえで、「これが最も魅力的な時期」だと書いている。アジア地域は今、再び力強い成長を遂げようとしており、商品先物も長い下降相場から抜け出そうとしている。アジアの人々の多くは、まだ物質的に困窮しており、収入の増加にともなって買うのはサービスより物、それも商品先物に集中している。来るべきアジア市場の長期的な好転は、今後の先物価格にとっても生産者にとっても良いニュースといえる。

 アジアに関するファーバー博士の結論を歓迎するが、これはあくまで偶然の一致である。本書は投資と、それをさらにうまくできるようにするための方法について書かれたもので、もし歴史が正しいのであれば、明日の金脈は大部分の読者にとって驚きとなるはずである。そして、この驚きの正体を知るために「明日の金脈」が役に立つだろう。
 2002年11月 香港にて
     ジム・ウォーカー博士(CLSA チーフ・エコノミスト)

■第1章 変貌する世界

唯一の黄金律はいかなる黄金律も存在しないということである。      ――ジョージ・バーナード・ショー(1856〜1950)

 香港にある筆者の会社に、若者がよく訪ねてくる。彼らの多くはアジアでの経験がなく、1973年からこの土地で活動している筆者はなんて幸運なのだろうという。そのころのほうが儲けのチャンスがずっと多かったと思っているからである。もちろん70年代から80年代初期が1997年の金融危機まで続いたアジア大ブームの始まりだったのは間違いないが、儲けるチャンスにおいてある時代が別の時代より劣っているという考えにはまったく賛成できない。いつの時代でも世界中のどこか、あるいは経済セクターのどれかに必ず突破口は開いているのである。

 筆者がアジアに移り住んだころ、共産圏の国々はまだ閉鎖的だったが、日本、香港、台湾、韓国、シンガポールなどが急成長を遂げるのに便乗するチャンスは大いにありそうだった。今日では中国やベトナムの市場も自由化され、このあとカンボジア、ミャンマー、北朝鮮、ラオスが続くのは間違いないだろう。また、インドも孤立した独立独歩の姿勢を断念し、1970年代とは比べものにならないほどの市場志向型経済に変貌した。

 ビジネスチャンスも投資チャンスも、現在のほうが筆者がこの地域に最初に来たころよりむしろ大きいと個人的には思っている。1997年の金融危機以来、株も実物資産もその評価は欧米諸国の同様の資産に比べ、かなりの低レベルに戻っている。しかし重要なことは、今日のほうが30年前とは比べものにならないほど莫大なチャンスがあるということである。もう一度26歳に戻れるのなら、上海かホーチミンかヤンゴンかウランバートルに行って現地の言葉を完璧に学んだうえで、7人の愛人と暮らしながら新しいビジネスを始めたいものである。

             * * *

 本書は経済破たんや巨大ブームを予想するためのものではなく、経済的にも政治的にも社会的にも変化を続け、輸送手段も通信手段も情報入手手段も加速を続ける世界で見つけることができるチャンスにスポットライトを当てることを目的としている。

 共産主義や社会主義が崩壊し、独立独歩の姿勢や孤立主義も終焉した今、15世紀の新大陸発見や19世紀の産業革命以来に匹敵するグローバル経済の劇的な変化をわれわれは目の当たりにしている。中国やインドの市場改革は、アメリカ大陸発見と同じくらい世界経済の範囲を拡大し、冷戦による経済均衡を断ち切って賢い投資家には素晴らしいチャンスを提供しているのである。

 アメリカ大陸発見と、喜望峰経由の貿易ルート開拓は、それまでに確立されていたグローバル体制を急速かつ永続的に変えてしまった。それまで地中海にあった世界経済の中心はヨーロッパの大西洋沿岸に移り、そこから米国や極東へ人と物が投資されるようになった。同様に30億の人口を抱える中国やインドをはじめとするアジア諸国が、経済的にも社会的にも人口バランス的にも、世界に重要な影響を与えていくのは間違いないだろう。もちろんロシアや旧ソ連の国々に関しても似たようなことがいえる。

 現在、最も裕福な都市や人々が、将来もそうである可能性は低い。投資家は現在起こっている変化のスピードを侮ってはいけないのである!

 産業革命は、食物の生産効率が上がったことで世界人口が爆発的に増加したという背景を考えれば、農業改革ともいえる。鉄道整備と合わせて西側工業国の都市化が進み、19世紀の経済環境は大きな変貌を遂げた。瞬時につながるただ同然のコミュニケーション技術のおかげで、世界経済の一部となったインドや中国ではこれまでとは比較にならないスピードで西側の技術や知識を入手できるようになった。しかし、それにともなって競争も激化し、新たに勝者となったものが、従来の繁栄地や新しい経済環境に適応できなかった企業に素早く取って代わるという現象が起こり始めている。

 30年間の眠りに落ちて2002年に目覚めたとしたら、香港、シンガポール、台北、ソウルなどの都市はまったく見覚えがなくなっているだろう。そのうえファックスや携帯電話、パソコン、プリンター、デジタルカメラやブルームバーグの端末も操作できず、運送用コンテナやボーイング747輸送機による世界貿易の拡大や、外為管理規制の撤廃にも驚くだろう。さらに、上海やモスクワに行けば、共産主義が突如崩壊して火山爆発並みの経済発展につながったという想像すらし得なかった状況に、まだ夢を見ていると感じるかもしれない。

 しかし、世界のつながりがさらに密になる次の30年間には、さらに気が遠くなるような変革を覚悟しておいたほうがよいだろう。人と物と情報の動きは飛躍的に増えており、これは投資リターンを考えるうえで大きな意味がある。非常に多くの大企業が消えていく代わりに、恐らく現在はまだ存在すらしないような企業が繁栄することになるなか、世界の政治と経済と社会情勢の継続的かつ急速な変化だけが、将来も変わらないと筆者は考えている。

 そして、もうひとつ変わらないと思うのが、人間の本質である。歴史家のウィル・デュラントは次のように結論づけている。

 歴史を見るかぎり、人々の行いはほとんど変わっていない。プラトンの時代のギリシャ人の行動は、近代フランス人のそれとよく似ており、ローマ人の行動はイギリス人と似ている。手段や手法は変わっても、目的や結果は変わらない。行動するのかしないのか、獲得するのか渡すのか、戦うのか撤退するのか、仲間を探すのかプライバシーを守るのか、仲間になるのか拒否するのか、子育てするのかしないのか。また、社会的な階級は違っても、人間性は変わらない。貧困層の大部分が富裕層と同じ程度の推進力を持っているが、それを発揮する機会と技能が少ないだけなのである。反逆者も、権力の座につけば自分が倒したかつての支配者と同じ方法で判決を下すようになることは、歴史上はっきりしている。   ――ウィル・アンド・エリエル・デュラント著『世界の歴史』              * * *

 この先の章は、歴史上の前例と逆転不可能と思われる現在の経済トレンドに基づいて、これから起こるべき変革に焦点を当てるささやかな試みになっている。ただ、ここで強調しておきたいのは、人間は繰り返し同じ誘惑や感情に惑わされるもので、基本本能に頼ってしまうことが多いということである。人はときとして強欲に身を滅ぼし、過信し、際限なく楽観的になり、伝染し、偉大なものを模倣したり妄想したりする。また、恐怖に駆られ、不安を募らせ、絶望したり悲観的になる者もいる。つまり、歴史とはボルテールの言葉を借りれば「犯罪と愚かさと災難の寄せ集めにすぎない」のである。

 本書では、現在のグローバルな投資環境を観察したうえで、それに筆者の個人的な投資経験と経済史と理論を組み合わせた分析を行っている。しかし、これは完成することのない作業で、さらに掘り下げるべき部分も多く、当然ながらすべての読者の期待に沿うことは難しい。グローバル経済は、男性、女性、子供を問わず、世界中のすべての人間の経済的な判断を総括したもので、極めて複雑で「陰気な」科学であると同時に解釈の余地が大きい学問なのである(訳注 「陰気な学問」は経済学の別称)。

 第2章では、経済と金融の暫定的なトレンドを予想するための長期投資テーマを分析している。第3章と第4章では過剰な期待をいさめるべく、投資家が繰り返し巨大な損失を被って、結局は多くの貧乏人とひとにぎりの金持ちというピラミッドがほとんんど変わっていないことを紹介する。もし、このピラミッドの頂点を目指すのであれば、何か大部分の人とは違う変わったことをする必要があることを理解してほしい。ジャン・ジャック・ルソーの言うとおり、「習慣とは反対の道を行けば、ほとんどの場合うまくいくだろう」。

 第5章から第8章は、その大半を景気と価格と株式市場の循環について費やしている。ここでは経済活動も価格も、幻の均衡点の上下を常に変動しているものだということを理解してほしい。ときには「繁栄の逸脱」がブームになり、価格は天井をはるかに超えて跳ね上がる。また、別のときは「暗闇の逸脱」によって通常以下の成長率、不景気、恐慌に陥って価格もブームのときには考えられなかったような水準まで崩壊する。同様に、高インフレばかりかハイパーインフレ(超インフレ)でさえ、低インフレやデフレと交互に起こる。しかし、今のところこの原因について説明はできても、正確な答えは見つかっていない。それでも投資家にとって循環と変曲点におけるビジネス界や投資家の心理を知っておくことは不可欠だと思う。

 第9章とエピローグでは、結論として筆者が思い描くこの先何年かのアジアや世界の発達について考えていく。筆者は未来学を信奉しているわけではないし、正直言って未来どころか現在や過去についてもそれほど詳しいわけではない。しかし、だからといって将来起こり得る変革について考えをめぐらすことをやめるべきではないと思っている。これから先の道がたとえ岩だらけであったとしても、チャンスを求める人々にとっては常に素晴らしい興奮を味わわせてくれることになるだろう。

 何百もの業種やサービスセクター、そして経済と社会と政治の制度が相互に作用し続ける国や地域によって、現代の経済はますます分業化が進む。そしてその結果、経済と金融トレンドの分析が不完全で表面的なものになってしまうことを許してほしい。ただ、それでも今日の複雑な経済の過程に関するさらなる研究のヒントが、本書のどこかに見つかることを期待したい。

■第7章 経済における長期波動

 われわれの分析によると、不況は自らの力でのみ健全な回復を達成できる。意図的な刺激策だけに頼って復活したとしても、不況が部分的に残りむしろ変化に適応できなった未消化部分を新たに発生させることになる。      ――ジョセフ・A・シュンペーター(1883〜1950)

 長期の経済循環は歴史全般を通して見ることができる。聖書にはヨベルという50年ごとに過去の負債が特赦される年について書かれている。また、中央アメリカのマヤ族は54年ごとに災難を振り払うための祭りを開催し、小麦価格の54年サイクルは13世紀までさかのぼることができる。そしてエドワード・デューイは1947年に発表した『サイクルズ――ザ・サイエンス・オブ・プレディクションズ(Cycles - The Science of Predictions)』のなかで1970年以降の米国卸売価格に見られる54年指標とその将来予想を紹介している(図7.1参照)。このなかで最も注目すべき点は、同書が出版された1947年にデューイが次の卸売価格の高値は1979年(次の安値は2006年)だと予想したことで、このあと市場を観測してきた多くの人たちが経済状況が54年のリズムを持っているというデューイの考えを支持するようになった。ただ、コンドラチェフ循環はこのグループとは別で、これよりずっと複雑なうえ、正確な予想も示していない。

 コンドラチェフの波

 1925年、当時あまり知られていなかったロシアの経済学者が「長期経済循環」という小論文を発表した。それには次のようなことが書かれていた。

 ……反復する資本主義の危機をさらに研究するうちに、ひとつひとつの危機は大きな資本主義循環(上昇スイング、危機、不況で構成されている)の1フェーズであることが明らかになってきた。また、これらの危機を理解するためには循環のすべてのフェーズについて研究する必要があるということも分かってきた。(中略)資本主義社会の力学について研究を進めるうちに、経済情勢の長期循環の存在を仮定しないかぎり説明のつかない現象にぶつかった……
 ――ニコライ・コンドラチェフ『ザ・ロング・ウエーブ・サイクル(The Long Wave Cycle)』

 ここでぜひ強調しておきたいのは、ほかの経済学者(特にシュンペーター)と違ってコンドラチェフの長期波動への関心は理論的なものではなく、経験的なものから来ていたということである。1925年の論文にも書いているとおり、コンドラチェフは長期波動についての理論を打ち立てようとしたのではなく、自らの経験に基づいてその存在を提示したかっただけだった。コンドラチェフは1790〜1920年にかけての商品価格、金利、賃金、外国貿易、生産、石炭消費、個人貯蓄、金の生産、そして政治的な出来事を調べあげ、長期波動が48〜60年の周期で変動しているという結論に至ったのである。

 経済学者のなかには経済活動における長期波動を認めない人たちもいるが、それでも世界が価格の上下サイクルとともに推移している事実は変わらない(図7.2は1200〜1900年の西ヨーロッパの穀物価格で、13世紀に上昇、1500年ごろまでは下降、16世紀に再び上昇、1750年ごろまで下降、ナポレオン戦争まで上昇、1900ごろまで下降という具合に上下している)。また、コンドラチェフ以外にも、アレキサンダー・ヘルファント・ハルブス、J・フォン・ゲルデレン、ジャン・レスキュール、アルベール・アフタリオン、アーサー・シュピートホフ、グスタフ・カッセル、サイモン・クズネッツ、クント・ウィクセル、ウィルヘルム・アベルなどの著名な経済学者も長期波動を観測していたため、シュンペーターもその存在を認めるようになった。

 歴史上知りえるかぎりにおいて、産業という有機体のどの段階のどの出来事をとっても、それがどのようにして起こったのかを考えても、まず気づくのは通常「長期波動」と呼ばれている54〜60年の周期の存在である。これらのサイクルはシュピートホフをはじめとする学者たちによって認識されたり観測されてきたが、コンドラチェフによってさらに詳細に解明されたため、これをコンドラチェフ循環と呼ぶことにする。
     ――ジョセフ・シュンペーター『ザ・アナリシス・オブ・エコノミック・ チェンジ(The Analysis of Economic Change)』、The Review of Economic Statistics、Vol.17、No.4、1935年5月)

 シュンペーターはコンドラチェフの波をさらにいくつかの「9〜10年周期」の循環に分け、それに現代景気循環理論の父と呼ばれ、7〜11年周期を提唱したジュグラーの名をつけた。そして、このジュグラー循環をさらに3つに分けて、約40カ月の「キチン循環」とした(ジョセフ・キチンはビジネスマンで、1923年に1890〜1922年にかけたイギリスと米国のサイクルについての研究を発見した。この研究でキチンは40カ月周期の小循環と7〜11年周期の主要循環を区別して考えることや、トレンドは世界の資金供給の流れによって決まることなどを述べている)。

 コンドラチェフは長期にわたってトレンドやそれ以外のさまざまな価格や生産に関する数値を調べ、観測を行った。

 商品トレンド

 ●第一の上昇(図7.3参照)で商品価格は1789〜1814年の25年間上昇し、1814〜1849年の35年間下降した。第1の波(サイクル)は60年間続いた

 ●商品価格の第2の波は1849〜1873年(24年間)上昇し、1873〜1896年(23年間)下降した。第2の波は47年間続いた

 ●第3の波は1896〜1920年(24年間)上昇した。コンドラチェフは1920年から下降が始まったとしている(訳注 第3の波の終わりの時期については学者の間でも意見が分かれている)

 金利

 コンドラチェフはフランスの家賃やイギリスのコンソル公債(債券)の価格の動きも研究した。金利は1790〜1813年にかけて急上昇した(コンソル国債は1792年には90.04だったのが1813年には58.51に下がっている)あと1844年まで下降を続け、「金利の第一の波」が完成した。一方、債券価格の下降の波(言い換えれば金利上昇の波)の第2波は1840年代半ばからから1870年代初めまで続き、その間、金利は1870年代半ばから再度下がり始め、1897年になると第3波の上昇に転じてそれが1921年まで続いた。「つまり金利変動の長期循環は非常に分かりやすい。また、このサイクルは同時期の商品価格の変動と一致している」といえる。1970年以降の米国金利についても同じような動きを見ることができる(図7.4参照)。

 賃金

 コンドラチェフは1790年以降の賃金のトレンドについても観測し、ピークに達した1805〜1817年が1812〜1817年と重なっていることを発見した。賃金はピークに達すると上昇率が緩やかになり、それが賃金の第1の波である1840年代末から1850年代初めまで続いた。1840年代末になると賃金の上昇は再び加速し始めたが、1873〜1876年になると今後は減速に転じてそれが1888〜1895年の第2波の終わりまで続いた。そして次の加速期はコンドラチェフによれば1920〜1921年まで続いたということになっている。

 石炭生産と消費

 コンドラチェフはイギリスとフランスの石炭消費と価格循環についても詳しく調べている。消費は1840代に下降したあとは1870年代まで急上昇したが、1880年代に入ると上昇は緩やかになった。それに対して消費と生産は1890年代に上昇スイングが再開したため、コンドラチェフは石炭の消費率と生産率が長期波動の存在を裏付けるさらなる証拠になると考えた。

 コンドラチェフはさらにフランスのミネラル資源の消費量やイギリスの鉛、銑鉄の生産高、フランスの銀行預貸率(総貸出額÷総預金)なども分析して次のような結論に達している。

 長期循環が転換する正確な年を決めるのは不可能であるためデータを分析するなかから算出した5〜7年間の誤差を考慮し、循環の範囲として最も可能性の高い時期を選んでいる。

 コンドラチェフは次に長期循環に認められる4つのパターンを検証している。

 1.長期循環の上昇波の前か途中に社会経済状況の深刻な変化が起こる。これは大きな技術の変化(技術的な発見や発明による大きな進展など)、新しい国の世界経済への参入、金の生産や流通通貨の変化などによって明らかになる。

 2.長期循環の上昇波には最大数の社会的な激変(戦争や革命)が発生する。コンドラチェフはそれまでの定説だった戦争や革命が長期の経済的波動の原因になるという説を否定し、「戦争は経済のペースが加速して緊張が高まり、マーケットや素材に関する経済闘争が過熱するときに発生する可能性が高い、社会的なショックは新しい経済の力によるプレッシャーのもとで簡単に起こる」と主張した。

 3.長期循環の下降波は農業の長期大型不況と商品価格の下落を伴う。また1810〜1817年に始まって1844〜1849年に終わった波動や、1870〜1875年に始まって1895〜1898年に終わった波動などで見られるように波動の最中の農業関連価格の落ち込みは工業関連価格の下落より大きい(1930年代の厳しい農業不況がこの観測を裏付けている)。

 4.長期循環の上昇波の間に起こる中間的な資本循環は不況の短さと上昇スイングの強さに特徴がある。長期波動の下降波の形状は、上昇波のちょうど反対になる。 (この4点については、のちほどさらに詳しく見ていく)。

 先にシュンペーターが長期波動を中期のジュグラー循環(7〜11年)と短期のキチン循環(40カ月)に細分化したことを紹介した。コンドラチェフも中間的なサイクルについては認識しており、上昇スイング中の不況は比較的短いことや、長期サイクルの下降期に起こる中間サイクルは特に長く厳しい不況をともない、転換しても上昇は短くて弱いとしている。これを裏付けるため、コンドラチェフはシュピートホフのデータ(表7.2)のなかにある「下降波の途中では不況の年が多い反面、上昇波では上昇スイングが増える」という点を指摘している。

 コンドラチェフの長期波動論はレーニンやレオン・トロツキーなどのボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の多数派)に受け入れられるように、やはり長期波動について研究していたカール・カラツキー、J・フォン・ゲルデレン、サム・デ・ウォルフなどの社会主義者と非常によく似た手法を用いていた。しかし、長期波動をめぐるトロツキーとコンドラチェフの有名な論争では資本主義システムの安定について議論が集中し、トロツキーは「世界的な危機」が資本主義の存続を脅かすという見方を示したのに対し、コンドラチェフ(カラツキーも同じ立場)は危機も安定した資本主義の1フェーズにすぎないと主張した。コンドラチェフの理論では、1929年以降ますます厳しさを増す不況も、マルクス主義者が期待するような「資本主義最後の危機」ではないのだった。だが、この主張はジョセフ・スターリンの怒りをかって1930年にコンドラチェフは逮捕され、シベリアの収容所に送られてそこで亡くなった。

 長期波動の原因

 長期波動に関する分析が経験に基づくものだということを繰り返し強調してきたコンドラチェフは、最終的には長期波動の上昇波が「基本的な資本財の交代と拡大およびその社会の持つ生産力の根本的な再編と変化をともなう」という結論に達した。また、長期波動にコンドラチェフの名前をつけることで、その業績を復活させたシュンペーターは「改革」と「主要セクター」の概念に関する次のような長期波動の統一理論をまとめた。

 自然現象や追加的な経済活動は別として、もし人々が儲けることと貯蓄しかしなければ、世の中の様子はずいぶん違っていただろう。現在の発展はもちろん生産方法や商業に関する希望とたゆまない努力(生産技術の変化、新しい市場の開拓、新しい商品の投入など)の積み重ねによるものである。この歴史的かつ逆戻りはできない手順の変化を「改革」と呼び、これを「生産機能をそれ以上のステップに細分化できない変化」と定義する。郵便車をどれほど連ねたとしても、鉄道の変わりにはならないのである。
     ――ジョセフ・シュンペーター、1935年(前出資料)

 シュンペーターの教えは大きな改革と新「主要セクター」がそれまでの主要産業に代わって新たな上昇波を生むということで、コンドラチェフの上昇波はそれぞれが何らかの技術革新をともなっているということを指摘している。彼はまた、改革を資金的に補足するものとして「信用創造」も重視していた。ただ、金融市場の重要性は認めつつも、「それは資本主義という有機体の心臓ではあっても、頭脳になることはけっしてない」と言っている(『景気循環論』有斐閣)。シュンペーターもコンドラチェフと同様に1787〜1842年を資本主義時代における最初の長期循環だと考え、この時期に運河や道路や橋の建設、銀行の拡大などの新しい発明に工業が適応できるようになったと考えた(産業革命、図7.5参照)。また、第2のコンドラチェフの波(1842〜1897年)は蒸気(鉄道)や鉄鋼の時代と、第3の波(1898〜)は電気、化学、モーターの時代とそれぞれ重なっているとしている(シュンペーターが1939年に『景気循環論』を出版したときにはまだ第3の波の終わりの年は定まっていなかった)。

 シュンペーターによると、改革は経済均衡を崩し、社会を「繁栄から逸脱」させたあとには「不況からの逸脱」が続くとしている(シュンペーターは全体を繁栄、景気後退、不況、復興の4つのフェーズに分けていた)。不況の逸脱が起こるのは、改革が(解体期間を経て)消費財の生産量を順当に増やすだけでなく、コストや価格の新たな水準や、革新者による新たな生産方法を強いるからである。革新者は古い生産方法を排除する強力なライバルで、力のないライバルからその市場を奪い、経済的に抹殺する。つまり、改革(と信用創造)がブームを起こし、それがやがて不況につながっていくのである。そして、不況からの逸脱は、苦痛をともなう改革への適応期間が終わるまで続く。しかし、この調整過程が終わると、社会は新たな均衡点を見つけ、経済は落ち着くのである。

 シュンペーターは、下落は均衡点より下で継続し、負債の構造が正常な状態に戻ったときに初めてまた均衡点に戻るとしている。これは循環の長さを計るときに、ピークから次のピークまで、あるいは谷から次の谷までではなく、均衡から次の均衡で計るべきだということを意味している。シュンペーターがコンドラチェフの波をジュグラー循環とキチン循環に細分化したことは前述したが、さらにこの3つが同時に下降に転じたことで1930年代初めに大不況が起こったとしている(図7.6参照)。

 意図的ではないが、アービング・フィッシャーも長期波動と景気循環の理解を進めるのに一役買っている。「景気循環」を俗説と呼んでいたフィッシャーだが、景気変動を海に揺られて横風にあおられる船の動きになぞらえた発想は面白い。

 波打つ海に浮かぶ揺れ動く船のデッキに置いた揺り椅子を想像してほしい。この揺り椅子はさまざまな動きの影響を受けており、そのリズムは単純ではない。椅子の動きにはリズムが重なるときとまったくないときがあり、リズミカルなときもあればまったくリズムのないときもある。いずれにしてもこれを「揺り椅子循環」と呼ぶ者はいないだろう。
    ――アービング・フィッシャー『ブームズ・アンド・ディプレッションズ (Booms and Depressions)』

 フィッシャーはのちに、経済は負債の貯蓄と清算がもたらす意地の悪い拡大スパイラルと収縮スパイラルによって変動すると認めている(負債デフレ理論)。

 大きな負債による負担は価格の下落でさらに大きくなり、結局デフレ過程を激化させる。するとそれが投げ売りにつながり、さらに価格が下がるというのである。また、「過剰負債」がブーム崩壊の原因になる場合もあり、その原因は新しい発明、産業、資源開発、土地、市場など、投資チャンスだと指摘している(フィッシャーの言う過剰負債とは「ほかの経済的な要因と比較して並外れて大きい負債」を指している)。

 また、フィッシャーは「あぶく銭」が過剰借り入れの大きな原因だと考え、新発明や新発見(カリフォルニアの黄金)や新しいビジネス手法(有料高速道路、蒸気船、農耕具)など投資家を「魅惑する」例を挙げている。そして「負債を増やし、借り入れ前より多い資金をつぎ込んだ投資家は、投資と浪費した分を投資リターンで返済するつもりでいる。このときの投資家の心理は、不幸な人間のそれではない。そのムードは恐れでも憂鬱でも警戒でもなく、熱意と希望にあふれている」(前出資料45ページ)とも書いている。この考えは心理的景気循環論に非常に近い。さらに1830年代初めの恐慌については、現代の投資マニアにも当てはまる観察をしたトーマス・トゥック(『物価史』東洋経済新報社ほか)を引用している。

 小さなリスクで大きな利益を得られる可能性があればそれは抵抗しがたい誘惑で、人間が持つギャンブル好きな性質によって常に行動に移される。だまされやすい人、無知な人、王子、貴族、政治家、愛国者、弁護士、医者、聖職者、哲学者、詩人、あらゆる階級や立場(未婚、既婚、未亡人)の女性などあらゆるタイプの人たちが、名前しか知らないような計画にこぞって資産の一部を投入して、それを危険にさらすのである。

 そのほかの不況の要因も認識しつつ、フィッシャーは過剰負債こそ1929年の崩壊の原因だとしている。

 ブームは信用通貨や負債や世界戦争から始まり、そのブームから不況が生まれる。また、戦争から生じるのは戦争負債だけでなく、それに続く平和負債のほうがむしろ大きい。これ以外にもあらゆるたぐい(長期、短期、公共、民間)の国際債務があって米国のみならずあらゆる方面への支払いが生じる。実際、多くの米国人も外国に金で返済可能な短期債務を抱えている。また、どの債務にもそれに対応する信用がどこかから供与されており、世界中の負債はネットでは常にゼロになる。しかしもし、AがBに100万ドル借りてBがCに100万ドル借りるというように連鎖的に借りていって、それがどこかの時点でAに借りているZにつながるとすれば、Aが破産するとそれがB、Cへと続き、結局は全員が破産することになる。つまりネットではゼロの負債が将棋倒しのごとく2600万ドルもの破産につながるのである。
     ――アービング・フィッシャー『インフレーション?(Inflation?)』

 フィッシャーは、1920年代の負債拡大を引き起こした主犯が、借金による株式投資、外国投資、そして投資銀行の強引なセールスマンだとも言っている。

 1921〜1929年のブームに乗って、企業は社債ではなく株の発行によって資金調達を行うのが金融の新しいトレンドになっていた。この社債の割合を減らす方針にはあるメリットがあった。負債に縛られないため、不況にもかかわらず多くの企業が財務体質を弱めることなくこの時期を乗り切ることができたことである。しかし、企業の負担が軽くなった分以上に株主の負担は重くなった。これらの株を借金で買うということは、負債を企業として共同で負うかわりに個人で抱えることになったからである。(中略)株式投資が債券投資より好まれる理由は、過去の債権からの収入がほぼすべてのケースにおいて普通株分散投資からの収益(あるいは想定利益)を下回っていたことがいくつかの研究で明らかになっているからである。このトレンドは、顧客の資金を早急に株に分散投資させることを目的とした投資信託の設立によってさらに強化された。投資信託はきのこのように突然現れ、すぐに人々を虜にしたが、その多くは借入資本で運営され、残ったのは怪しげな株券だけだった。(中略)このとき投資と投機に熱中していた米国人が国内市場に満足していたわけではけっしてない。ヨーロッパや南米などかつての米国のように意気揚々と再建の苦しみに立ち向かっている国々は資本を求めており、その多くを提供したのが米国人だった。資金は政府、地方自治体、民間企業などに投入された。イギリスのある議員によると、1931年までの60年間にイギリスの投資家はこのような貸付によって100億ドルの損失を出しているということだったが、大戦が終わると米国人投資家は十分な経験もないままこの分野に飛び込んで主導権を握ってしまった。結局、米国は外国にも不健全なブームを持ち込み、悪化させ、そのあとの落ち込みに自分たちばかりか近隣諸国まで巻き込んでいった。[ある情報筋によればフィッシャーは]米国の投資銀行こそこの事態を招いた首謀者だと考えていた。(中略)彼らは債務者の支払い能力、外国の債務者からの返済、債務者の再編や合併などさまざまな懸念材料があることや、その時期に資金の大部分を調達している事実などを無視して、投資先に飢えた人々に新株を割り当てていった。また、それに対する政府の態度も「新株は儲かるのか?」という程度のものだった。
    ――アービング・フィッシャー著『ブームズ・アンド・ディプレッションズ (Booms and Depressions)』

 フィッシャーは「米国が不況に突入したことを示す最初の鮮烈な証拠」を1929年のニューヨーク株式市場の暴落だったとして、その理由を次のように述べている。

 ……もし何らかの理由でみんなが一斉に清算に走ったら、信用通貨は消滅し(デフレに陥り)価格水準が下がることで利益も低下する。そうなるとビジネスはさらに清算され、さらなる価格低下、利益低下、ビジネスの清算を繰り返しながらデフレに向かう。(中略)もし負債が大きくなると清算される企業が増えて負債がさらに大きくなるというパラドックスが起こる。(中略)未払い金は清算によって補填されるよりはるかに速いペースで増え、これこそ大不況の本質だといえる。(中略)事態は価格水準のデフレで悪化するが、そのデフレは清算によって引き起こされる。返済は「実質的な」負債に追いつかず、返しても返しても借りは増える。(中略)実質的な負債は1929年や1932年3月どころか歴史上のどの時期よりも重くなっていた。また、金利、家賃、税金も人々に重くのしかかると同時に、収入や財産は実質的に減っていた。
      ――アービング・フィッシャー著『インフレーション?(Inflation?)』

 ここまで、フィッシャーの言葉を広範囲にわたって引用してきたのは、彼が偉大な経済学者だったということだけでなく、1920年のブームや世界大恐慌の時代に生きた人物ということでその文書や公式声明には時代の感情が反映されているからである。1929年、フィッシャーは「株はそのまま上昇し続け米国は新たな繁栄の高原に達する」と宣言した。フィッシャーの株に対する考えは『アメリカ株式恐慌と其後の発展』(同文館)を書いた1929年の大暴落のすぐあとも変わっていない。このなかには大暴落が「普通株に途方もない痛手を与えた」にもかかわらず、投資信託が普通株への投資をこれまでより安全なものにしたと書かれており、最後は「少なくとも直近の見通しは明るい」と結ばれている。

 しかし、フィッシャーもそれ以外の人々も1933年(『インフレーション?(Inflation?)』)になると過剰投資や負債の蓄積によって1920年代末ごろから金融市場が行きすぎの状態に陥っており、それが本格的なデフレ不況につながっていったことを認識するようになった。第5章でも述べたとおり、ベア相場や不況の初期には経済的なファンダメンタルも好調で、上向きムードが残っていることがここでもはっきりと分かる。

 1920年代のFRBの政策に関するフィッシャーの考えは、元委員のポール・ウォーバーグの発言に対するコメントに表れているが、まずはその発言から見ていこう。ウォーバーグは「FRBが金融緩和政策で金利を下げる代わりに、米国の投資機会不足に同情して金利を上げていればパニックは回避できたかもしれない」と指摘したり、金利改革の影響に関する次のような言葉を残している。

 もし大量の新発明が今の金利以上に儲かるチャンスにつながるのであれば、みんなそれに投資しようとするため負債が増える。このとき多くの投資家は株を買うのだが、このような時期にはコストに対して高リターンを提供すべく金利も高くなっている。しかし、投資の期待リターンと借り入れるための金利の間に大きなギャップがあれば、借金はどんどん増えていく。
    ――アービング・フィッシャー著『アメリカ株式恐慌と其後の発展』(同文館)に引用されているポール・ウォーバーグ著『ザ・セオリー・オブ・イントレスト(The Theory of Interest)』

 フィッシャーは戦争のあと「金利は投機を促すため意図的に低く抑えられている」ため「2年前(1927年)に公定歩合を思い切って急上昇させたときにはビジネスにある程度打撃を与えたかもしれないが、代わりにその先の市場崩壊を阻止できた可能性はある」と書いている。

 さらに付け加えるとすれば、1929年に安値を付けたあと株価は大きく反発したが(図7.7参照)1930年4月以降は1932年6月までずるずると下げていった。このとき指標の多くが1929年11月13日に付けた安値からさらに80%も下げており、ピーク時には純資産価値を100%以上上回るプレミアムが付いていた投資信託のほとんどが破産したり、保有銘柄が99%も値下がりしていた。ところがこの株の大暴落が、財界人や政治家の楽観主義と自信の続くなかで起きていたということは驚くに値する。ハーバード・エコノミック・ソサエティも1929年にマイナス予想を出していたにもかかわらず、暴落直前にそれをプラスに変更し、明るい見通しは1930〜1931年にかけても変わっていなかった(1930年1月18日には「不況の最も深刻なフェーズは終わったことを示す兆候」、1930年5月17日には「今月か来月には好転し、第3四半期には本格的な復興、年末には平均を大きく超えるだろう」、1930年11月15日には「今回の不況はそろそろ力尽きた」などとコメントしている)。1930年5月にはフーバー大統領が自信たっぷりに「最悪の時期は過ぎ」、秋までには通常レベルに戻るだろうと宣言していることからもフィッシャーの1929年の楽観姿勢が当時のムードとかけ離れたものではなかったことが分かる。そこで、このあとの不況と悲惨なベア相場が人々を大いに驚かせることになった。

 1920年代と1990年代には、注目すべき共通点が数多くある。企業合併熱、高レバレッジ、金融緩和政策、外国ファンドの存在、人員削減(かつてはフォード方式)、良好な労働条件、価格安定、商品相場の下落、ミューチュアルファンドや銀行の投資部門(かつては投資信託)、パソコン(かつてはラジオ)、ソフトウエア(かつては映画会社)、インターネット(かつては電力会社)、記録的な特許申請件数、株や投資を勧める本、楽観的な予想家、スター扱いされるウォール街の著名人、途切れることのない政治家や財界人の楽観的な発言、米国経済は回復しているという信念などほかにもいろいろある(訳注 フォード方式は流れ作業を基本とする低コスト大量生産方式のこと)。

 現在は長期循環のどのフェーズなのか?

 現在、われわれが景気循環のどこにいるのかを判断する前に、歴史、地理、進化論のデータに基づいた現在位置を見ておこう。この地球が宇宙のどこに位置するのか、ほかにも文明が存在したのか、などまだ分かっていないことは数多くある。言い換えれば「未知のもの」という観点から見ると、分かっていることは本当に少なく、これは経済についてもいえる。われわれの「経済的な位置」を1930年代の不況や1974年のベア相場の底、1980年の商品相場のピーク、2000年の米国株式市場のピークと比較することはできるが、資本主義の歴史全体として見たときの現在位置はよく分からないのである。

 果たしてわれわれは現在、資本主義発展の初期段階にいるのだろうか、それともラビ・バトラをはじめとする一部の経済学者が言うように資本主義時代は終わりかけているのだろうか(学会では真剣に取り上げられてはいないが、社会が労働者の時代、武人の時代、知識人の時代、富裕者の時代と推移していくというバトラの社会循環論は非常に興味深い。いずれにしても、バトラが1970年代末に発表した共産主義の崩壊はこの理論に基づいていた)。つまり、長期や中期サイクルのどこにいるのかということは、あくまで暫定的な観測にしかすぎないのである(図7.5参照)。

 これまで見てきたとおり、コンドラチェフやシュンペーターによると、コンドラチェフの第3の波は1914〜1920年がピークになっている。そして、それに続く商品相場の下落、農業不況、金利低下と大恐慌によって下降波動が1930年代末から1940年代初めまで続いたことが分かる。

 商品相場は1930年代に、金利は1940年代半ばに底を脱したことから(図7.4参照)コンドラチェフの第4の上昇波は1940年代のどこかで始まっていると考えるべきだろう。これは第3の波が1890年代半ばに始まって48〜60年続いたことを考えると、終わるのは1943〜1955年になることとも一致する。そしてコンドラチェフの第4の波の高原状態が1970〜1980年に当たることもひとり当たりの収入増加率を裏付けている(表7.3参照)。1950〜1973年にかけてGDPは2.9%上昇したのに対し、1973〜1995年は1.11%しか伸びなかったのである(この率はアジアや南米など新興市場の危機やそれ以外の地域の景気低迷によって最近さらに下がっている)。

 ここで、一部の経済学者が過去2〜3年でコンドラチェフの波はすでに上昇に転じたと主張していることも紹介しておかなければならない。MIT(マサチューセッツ工科大学)システム・ダイナミックス・グループのJ・フォレスターは、第4の波は1970年代がピークで1990年代半ばには「経済システムの不均衡を淘汰する」景気下降によって底を打ったとしている。「バンククレジット・アナリスト」(著名な調査リポート)の1995年6月号も「米国の景気は20世紀に入って3度目になる長期波動を展開している」とし、ロンバート・ストリート・リサーチのブライアン・リーディングも「1993〜2013年にかけた世界的大ブーム」について語っている。

 つまり、一部の経済学者が言うように、もしコンドラチェフの第4の波が1970年代にピークを迎えてそのあとの底もすでに終わっているのであれば、世界的な経済成長が始まるはずなのである。

 しかし、コンドラチェフの波が上昇に転じたとする説にはいくつかの疑問点もある。ひとつはシュンペーターの「サイクルは均衡点より下(ここが重要)でも下がり続け、負債の構造が平常に戻ったとき初めて均衡点に戻る」という説である。現在、負債構造が平常だという者はいないだろう。実際、ほとんどの先進工業国では負債の増加率が経済成長を上回っており、米国経済も住宅と連鎖的な消費者金融の伸びに支えられているなど、むしろ日々悪化していると言ってよい。

 前述したとおり、1930年代の不況の要因のひとつは1920年代に世界経済の中心セクターだった農業を担う農民の購買力が落ちたことだったが、当時の米国における農業人口の割合こそ今日の世界経済における新興市場だった。先進国で製造された製品価格は下降気味だが、彼らがほかの先進国から輸入した製品価格は横ばいか上昇している。そして、その結果多くの発展途上国が貿易赤字を増やし、1997年のアジア危機やこれらの国々のひとり当たりの収入の大幅な低下をもたらした。筆者は、裕福な先進工業国と発展途上国の富の不均衡が現在の世界的な成長率低下を長引かせ、過少消費や過剰生産による経済の厳しい縮小を招いていると考えている(エピローグ参照)。1997年以降のアジアや最近の南米におけるひとり当たりの収入の実質的な崩壊、構造的な高失業率が続くヨーロッパや不況の日本、そしてここ何年かの設備投資と経済成長を支えてきたハイテクセクターの世界的な崩壊を見るかぎり、とても上昇する第5の波に乗っているとは思えない。むしろシュンペーターの言う下降波か、よくても底に向かいつつある状態に近いように思える。

 経済トレンド以外にも、世界経済が下降波に乗っていると考える理由はある。コンドラチェフが経験に基づいて発見した長期波動の4つのパターンを思い出してみよう。

 1.長期波動の上昇波の前(あるいは始まってすぐ)には社会の経済状況に大きな変化が生じる。これらの変化は大きな発明、世界経済が新しい国との関係を築く、金の生産や流通通貨の変化などによって明らかになる。コンドラチェフによると、上昇の10年ほど前に技術革新の動きが活気づき、それが上昇期の初めに実用化されるという。下降波の時期に入ると景気の悪化を反映してコスト削減に関する研究が活発になるため、大きな発明や改革が行われる。企業にとってもこの時期はマーケットも価格力も停滞するため、コスト削減と効率化、あるいはライバルをなくすために大型合併や事業統合に関心が向く。逆に上昇波に乗ってビジネスに活気があるときというのは、当然ながら停滞期に比べてコストがさほど問題視されることはない。つまり、最近の記録的な吸収合併件数は下降波がまだ終わっていないということを意味しているとも考えられるのである。

 同様に、多くの経済学者やストラテジストが共産主義崩壊以降、グローバル経済に新しい国や地域が参入してきたことで第5の波が始まるのではないかと指摘している。しかし、資本主義体制下で先進工業国が新たな市場を強く求めている時期こそ新しい地域は開拓される。19世紀には安い原材料を求めて次々と新しい地域が開発され、最近では安い労働力と未開拓のマーケットを求めてさまざまな国との新しい関係が広がっている。まだはっきりとしたパターンを見つけるには至っていないが、先進工業国が新たな市場の開拓に特に熱心になるのは余剰設備で過剰生産した製品を抱えて新しい市場を必要としているとき、つまり自国のマーケットは停滞して下降波に向かっている時期なのではないだろうか。

 そう考えると1990年代にグローバル化が加速したのは、単なる一時的な動きではないことになる。裕福な西側諸国は自国の消費財市場が飽和状態に達して低迷していたため、余った製品を発展途上国に売り込むべくWTO(世界貿易機関)を通じて新興市場の輸入税を撤廃させるよう圧力をかけた。つまり、新しい国を開拓することで上昇波が始まるわけではないが(最近のような米国保護貿易主義的な対策が採られないかぎり)グローバル貿易が活発化することは下降波が何年か先に迎える底入れの時期に影響を与える可能性はある。

 2.コンドラチェフは2つ目の経験的観測として、下降期に比べて上昇期は社会的に大きな出来事、あるいは根本的な変動(戦争、革命など)が頻繁に起こると言っている。世界経済に参入した新たな国々が先進国の資金によって拡大してくると、政治的および経済的主導権をめぐって国政的な政治関係が悪化し、軍事衝突も増えていく。同時に新たな生産力が急拡大することで台頭する社会階級と、すたれて進歩や発展の障害になる社会経済機関との間にも軋轢が生じてくる。

 その意味ではフランス革命、ナポレオン戦争、1948年のヨーロッパ革命、クリミア戦争、米国の南北戦争、普仏戦争、1904年の日露戦争、第一次世界大戦、ロシアの2月革命がすべて長期循環の上昇波の期間中に起こっていることは非常に興味深い。ただし、例外は第二次世界大戦で、これは第3循環下降期最後から第4の波の先頭にかけて起こっている。それでも第4の波の上昇期には植民地の独立運動(1838〜1849年ごろから1973〜1980年ごろまで)、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして上昇波後期には1978年に中国の開放政策発表によって共産主義崩壊の最初の兆候が現れた。

 しかし、1980年になると下降波が始まったため、目先の問題(中東やユーゴスラビアなど世界経済にはさほど影響を与えない件)にしか対処できなくなった。次ミレニアムの初めごろに下降波が底入れするか長期波動が上昇に転じるとき、最近のテロとの戦いが社会や国際間の緊張の高まりにつながっていくのかどうかは分からない。しかし、中国の経済力と政治力の強さやプーチン大統領によるロシアの復興の意義を考えると、世界の地理的および政治的緊張が高まっていくのは間違いないだろう。

 3.コンドラチェフの3つ目の経験則は、下降波が常に長期で深刻な農業不況をともなうということである。特に前述のとおり農産品のほうが工業製品より値下がりが大きいため、転換点直後(下降波が始まってすぐ)、つまり下降波の第1段階で最も苦しいのは農業セクターということになる。

 しかし、農産品価格の下落は銀行、工業、貿易にとっては好環境になることを覚えておいてほしい。また、農産品価格の下落は金利低下にもつながる。1920年代や1980年代のように下降波の最初の段階で金融市場ブームが起こるのは珍しいことではないのである。

 4.コンドラチェフの4つ目の経験則は、経済、社会、政治におけるトレンドの歴史を分析することによって景気循環論の発展に多大な貢献をしたアーサー・シュピートホフの研究に基づいた中期循環(7〜12年周期のジュグラー循環)が上昇波、下降波の両方で起こるという観測である。しかし、上昇波のなかで中期循環の下降がもたらす不況はまれなうえ、あっても短くて景気に大きな影響を与えるようなものではない。その反面、下降波のなかの中期循環は特に長く深刻な不況で、反転しても短く弱いのが特徴になっている。そしてこのことからシュンペーターは前述の1930年代の不況が長期波動の下降波にジュグラー循環とキチン循環が重なったためだという説を考えたのである。

 さらに、第4の波(1938〜1949年ごろから1973〜1980年ごろまで)の上昇波を見ると、不況が比較的短くまれであることが分かる。実際、最初の深刻な不況は1973〜1974年に起こっており、そのあと下降波の動きとともに厳しい不況と弱い反発が繰り返されていった。1981年以降は1980年代後半まで続いた南米の不況(実際には高インフレと不況の組み合わせ)、1982年の深刻なグローバル不況、1990年以降に始まって現在も続いている日本経済の低迷、共産主義政権後の東ヨーロッパとロシアの経済破たん、1991年の不況以降伸び悩むヨーロッパ、そして最近ではアジアの極めて深刻な景気低迷と2001年に記録した過去30年間で最も低い世界経済成長率と続いている。

 これらの要素に、商品相場や金利の下降トレンドと実質賃金の伸びが1980年代初め以降低迷していることを考え合わせると、長期波動はいまだ下降しているといえるが、下降波が工業社会や脱工業化社会に与えるマイナス影響はかつての農業社会とは違う。つまり、長期循環が続いても、かつてのように農業相場の変動が上昇波や下降波における景気状況を知る手掛かりにはならないのである。いずれにしても、コンドラチェフの研究は農業生産が中心で地方の人口が都市部を上回っていた19世紀の経済統計を基にしたものであり、彼自身、新しいサイクルは新しい歴史と発展や、生産力の新しい水準のうえに成り立っているため、前サイクルの繰り返しにはなり得ないと書いている。

 そこで、資本主義社会の力学を分析するときには、20世紀後半に起こった変化を考慮して調整していくことが必要になってくる。19世紀には小麦、トウモロコシ、綿が最も重要な商品だったが、現在の工業社会における原油のほうが価値としても、コスト要因としても、地政学的に見たとしてもはるかに重要な地位を占めている。賃金にしても19世紀には農業製品の価格がそのまま反映される場合が多く、農業が栄えれば農業賃金が上がり、農産物の価格が下がればその逆になっていた。しかし、今日の工業社会に農業セクターの雇用状況を当てはめることはできず、農産物の多くが下がって農業セクターに不況が起こったとしてもそれが経済全体の実質賃金の増加率に影響を及ぼすわけではない。しかし、偶然かどうか分からないが、1970年代以降の世界のひとり当たりの収入の増加は、1950〜1970年にかけた資本主義の黄金時代を下回っている(表7.3参照)。

 経済活動に与える下降波の影響を減らすもうひとつの要因に、工業社会にともなう移転支出や赤字財政を含む財政支出の重要性が増したことが挙げられる。慣性と硬直性によって政府の関与が増えることが下降波を長引かせたり激化させたりするのかどうかには議論の余地がある。しかし、自由市場の経済学者は政府の介入が経済の法則によってできた流れをせき止め、景気循環の変動にも影響を及ぼすと主張している。1990年代のヨーロッパは経済に対する財政赤字の割合が特に大きく、高失業率が続いていた。日本の場合も政府の経済政策が不景気を長引かせていることに疑問の余地はなく、1990年代に実施された巨額の財政赤字に対する政策がなければ現状はもっとましだったはずである。また、もし公共セクターが下降波の安定剤になり得るという説が本当ならば、上昇波では経済活動の緊張を和らげることもできるはずである。

 最後に、可能性は低いが金融市場が長期循環をかなり陳腐化させてしまったということも考えられる。ただ、主要株式市場ブームがすべて下降波の間に発生していることは興味深い事実であり、もちろん偶然ではない。1834〜1837年の運河株や銀行株ブーム、1868〜1873年の鉄道株ブーム、1921〜1929年や1982〜2000年のブル相場はすべて下降波の間に起こっており、そう考えると最近の株式ブームも多少長くて強力だったこと以外は特に珍しくない。コンドラチェフによると工業製品価格に対する農産品価格の値下がりは、下降波の間に起こるという。農産品やほかの原料(特に石油)価格の下落と金利低下の恩恵に実質賃金の伸び率低迷が加わって、企業利益は最初のうち急増する。さらに、商品相場も下がって金利も下降すると債権や株には好環境になる。そこで、これまで下降波の最初のフェーズでは金利低下と企業増益も加わって株式市場が力強く上昇することが多かった。また、繰り返しになるが上昇波のベア相場は短く、経済に与える影響も少ないことが多い反面、下降波のそれはずっと厳しく経済に与える影響も大きい。1873年と1929〜1932年の大暴落や1989年以降の日本、そして最近のアジアがその好例といえる。そうなるとわれわれが今、コンドラチェフの下降波にいるのか、それともすでに上昇波に入っているのかは最も最近のグローバルベア相場が経済にどのくらい悪影響を与えたかによって判断できるのかもしれない。

 上昇シナリオのもうひとつの反論は投機サイクルに関するもので、過剰投機やバブル(不動産、商品、チューリップ、運河、鉄道、株など)はすべて景気循環のピーク(底ではない)と重なっていることである。景気循環のピークが近づくと、投機先が素早く別のマーケット(不動産、収集品、日本株、新興市場、円、米国株など)に移り、その動きは世界中に広がる。長期波動の底では反対に投資家やビジネスマンはリスクを嫌ってピグーの言う「悲観的な誤り」を犯す。つまり、世界中を巻き込んだTMTセクターや史上最高の出来高、あらゆるたぐいの金融商品やレバレッジの拡大、リスク回避、一般投資家、新規公開株の初日の高騰などはコンドラチェフの言う経済活動の底というよりも、行きすぎた投機の兆候と言ったほうがよいのである。

 長期波動理論にはもうひとつ注目点がある。コンドラチェフは当時、経済における役割が現在よりずっと大きかった商品市場の動きをもとに分析を行っていた。19世紀後半の工業発展にもかかわらず、1900年当時の農業は雇用の40%を占め、製造業よりはるかに多い労働者を抱えていた。しかし今日、西側先進国で農業が占める雇用の割合はわずか3%にすぎず、逆にサービスセクターや公務員は80%を超えている。つまり、以前は商品相場、特に農産物の価格が上がると賃金、ひいては経済全体に好影響を与えたが、先進工業国においてもはやそれは当てはまらないのである。

 それでは世界全体として見た農業はどうだろう。石油がかつての農産物に変わって最も重要な工業商品の地位についていることは前述した。実はこれは部分的には正しいが、世界にはまだ石油セクターより農業セクターの労働人口のほうがはるかに上回っている発展途上国も数多くある。アフリカやアジアでは人口の60%以上が農業を主な収入源としており、もしこれと原油、天然ガス、材木、ゴム、ココア、コーヒー、コカイン、アヘン、鉱業まで含めるのであれば世界人口の3分の2が直接もしくは間接的に商品価格の上昇によって潤い、下落によって打撃を受けることになる。

 現在仮に世界のGDPの3分の2が世界人口の25%に当たる先進工業国によるものだとしても、貧しい国の購買力が急上昇しないかぎりグローバル経済の急成長は望めない。そして、このことも西側の多国籍企業は儲かって新興国は繰り返し厳しい通貨の下落にあえいでいた1990年代とは違っている。ちなみに、中国を除く大部分の新興国では、ひとり当たりの収入が激しい通貨切り下げにもかかわらず米ドルに換算するとほとんど変わっていなかった。さらに、19世紀には(運河や鉄道などの交通手段が発達したため)新しい領土が開拓されたことで農産品価格への圧力が強まり、農業セクターは何度か厳しい不況に見舞われているが、今日では人口の多い中国、インド、ブラジル、メキシコなどが(現代の通信手段やコンテナ、ボーイング747などによる交通手段によって)工業化されると、製品価格が下がるまで供給量は増えていく。そして19世紀に農産品価格の下落が農民の賃金を悪化させたように、今日の製品価格の下落が世界中の単純労働者の賃金を下げることになる。

 長期循環が新たな社会的、政治的、経済的状況の下で進行していく以上、前回の繰り返しにはなり得ないものの、長期波動の上昇波や下降波を動かす力はやはり存在するように思える。そこで、筆者のような長期波動論者は現在の景気下降のきつさ(緩さ)やそのあとに続く復活の勢いに特に注目しているのである。

 世界が変われば変わるほど、変わらずに残るものもまた多くなる。社会は上昇と下降を繰り返し、産業も新しく生まれ、消えていく。富は蓄積されてもいずれは崩壊し、人は長生きしても病が長引けば苦しむことになる。大軍同士が面と向かって戦う戦争はもうないが、テロや禁輸措置、供給調整(石油カルテル)、海外債務の不履行、没収、コンピューターウイルスなどを通じた戦いは続いている。また、19世紀の西側諸国は銃の力で植民地を獲得したが、現在はマクドナルド、コカコーラ、ハーゲンダッツ、スターバックス、ハリウッド、CNN、高利資金、新市場開発は必ず繁栄につながるという信念などが銃の代わりになっている。しかし、1990年代にグローバルな自由市場経済に限られた資金で参入した国々が、世界を相手にできるだけの競争力をつけることはできたのだろうか。

 景気低迷を懸念する中央銀行の介入や政策によってこの状況を先送りすることはできてもこれを完全になくすことはできない。つまりコンドラチェフの(主に農業)循環の性質が多少変わったことは認めるとしても20世紀のデータを見るかぎり循環がまったく健在であることは間違いないのである。

 金融市場――それ自体の終わり

 もしすべての商品を分析の対象にするのであれば、巨大なグローバル金融市場こそ1990年代の世界の主要商品であることは間違いない。19世紀に最重要市場としての農業が長期波動を起こしたように、ここ何年かの間に金融緩和と株価上昇によってさらに拡大している金融市場がグローバル経済に与える影響は、今日極めて大きくなっている。1980年代以降、金融市場は実態経済と比較しても桁違いに大きくなり、かつての実態経済が市場を引っ張る構図は逆転してしまった。19世紀に農産物の価格が経済を活性化したのと同様に今日では金融市場の上昇がグローバル経済に恩恵をもたらし、トレンドを上回る成長を促す反面、下落すれば1990年代の日本や最近の新興地域のように景気低迷をもたらすことになる。つまり最近の世界的なベア相場もいつか(金融緩和政策の効果がなくなったとき)悲惨な状態に突入することは想像に難くない。

 さらに付け加えると、過去の例では下降波半ばの不況が特に厳しかった。これは新しい発明と金利低下によって投資ブームが起こったあと、商品相場が崩壊したことによる。しかし、1990年代のケースでも見られたように、今日では投資ブームが起こったあと負債の増加と金融緩和政策によって下降期が先送りされるため、経済が最も大きな打撃を受けるのは長期下降波の一番最後になる。この仮説は過剰投資の原理とも、過剰投資や過剰負債が経済の破たんを招くとするフィッシャーの負債デフレ理論とも一致する。

 先に、景気循環論を批判するフィッシャーの言葉(波と風に揺られる船の上の揺り椅子の例)を引用したが、たしかに動きにはリズムがあるときもあればないときもある。また、シュンペーター(図7.6)の長期波動とジュグラー循環とキチン循環の下降期が重なったことで大恐慌が起こったという主張も学んだ。そこでこれらの考えから過去20年ほどに起こっていたことを推測すると、次のようになる。1974年の厳しい不況を皮切りに、ジュグラー循環が1982年の不況まで8年間続いた。1982年からは次の力強いジュグラーの上昇波が始まって1990年半ばの不況まで8年間続いたが、この原因は増加する米国の財政赤字と貿易赤字によって成長が日本や新興市場にシフトしたためだった。そして次のジュグラー上昇波は(日本が厳しい不況下にあるため)前回ほど活発ではないが2000〜2003年のどこかの時点であると考えられる。

 1990年代初めに力強い成長を遂げた新興市場も1997年の危機以降はグローバル成長を支えきれず、TMTセクターのブームで沸いた米国経済も1998年以降のグローバル経済をけん引し続けられるかは疑わしい。2001年と2002年は負債の急増によって現状を維持しているだけの状態だからである。そこでこう考えてはどうだろう。大量の在庫が清算されたことによってキチン循環は2001年のどこかの時点で下降に転じる。ジュグラー循環もハイテクバブル崩壊で2000年以降の株価が弱含んでいるため、まだ下降期にある。もし今、本当に下降波にいるのであれば、これらの出来事のすべては長期の厳しい経済縮小につながっていき、それこそ典型的な長期波動の下降局面ができあがるのである。

 景気循環論が極めて複雑であることはこれまでも繰り返し述べてきた。筆者もすべての答えを持っているわけではないが、すでに次のコンドラチェフの上昇波に突入したのか(短くて軽い不況になる)、あるいはいまだ下降波が続いているのか(不況は壊滅的なものになる可能性が大きい)を知る手掛かりは現在の不況の厳しさと長さだけだということは確信している。その答えは、すでに1990年の不況以降始まった景気拡大がはっきりと終わりを告げている以上、ほどなくして分かるだろう。

 そこでもう一度、コンドラチェフが長期波動の仮定を打ち立てたのではなく、価格、賃金、生産、貿易などの実際のトレンドを長期間にわたって観察することで経済には長期循環が存在する可能性が高いということを発見したということを強調しておきたい。また、コンドラチェフは景気変動の長期波動を説明するにおいて、景気循環論には説明が「かなり難しい」部分のあることを認めている。

 しかし、だからといって一部の学者が言うように工業化および脱工業化社会において経済の長期波動が時代遅れだという主張は間違っていると思う。歴史家のアーノルド・トインビーは「経済の長期波動は妄想ではないかもしれないが、イギリスの産業革命が起こる300年以上前から近代西側諸国は政治情勢を反映した順調な経済を維持してきたなどという考えはそうかもしれない」と書いている。トインビーは「社会的遺産の伝達から見た世代循環」に続く戦争・平和循環について述べるなかで繰り返し起こる経済の長期波動にも当てはまる最も説得力のある説明を行っている。

 戦争時代を過ごした世代の生き残りは、この悲惨な経験を自分や自分の子供が繰り返してはいけないと終生思い続ける。(中略)そのため平和を乱す動きには心理的な抵抗があり、(中略)これは次世代にも強く受け継がれる。(中略)しかし、次世代が成長するころには戦争の記憶は薄れ始め、戦争世代が平和な時代に育った世代に入れ替わると、彼らはいとも簡単に戦争に突入していく。
   ――アーノルド・トインビー『歴史の研究』(社会思想社)

 金融市場にもこれと同じ「世代循環」が存在する。1929年の大暴落やそのあとの不況で大金を失った投資家は、恐らく二度と株に手を出したり家を抵当に入れたりせず、終生保守的な生活を貫くことになる。反対に、今日の投資家の大部分は長くて厳しいベア市場や不況の苦しみを経験していないため、リスクを避けようとはしない。

 現在、長期波動がすでに上昇に転じたかという質問に対する満足な答えは出ていないが、ここまで述べてきたようにこれに反する経済状況はいくつもある。ただし、これが今後2〜3年の間に上昇に転じる可能性は高いと思う。また、そうなれば上昇波の下で商品相場は上がり、インフレ加速と金利上昇によってこれまでの投資ルールは完全に変わってしまう。そのため、投資家はまず、上昇期には株のパフォーマンスを常に下回る債権を清算する必要がある。また、長期波動が上昇するときには、株と商品が連動して投資環境はまったく新しくなる。例えば、資源の豊富な新興市場のパフォーマンスが西側先進国市場を大きく上回ることなどが考えられる。

 コンドラチェフとシュンペーターが観察し、分析した19世紀の価格変動と景気循環についてはあとひとつ述べておきたいことがある。図7.3(商品先物指数)と図7.4(1790年以降の金利トレンド)からも分かるとおり、19世紀は激しいデフレ状態だった。1800〜1900年にかけて米国の人口が400万〜8000万人に増え、実質経済成長率は年率4%に達して世界最大の工業国に浮上したにもかかわらず、商品指数は1800年の140(1910〜1914年を100とする)から1896年には70に下がっていた。価格水準の全般的な下落は長期金利の動きからも見てとれる。連邦政府が発行する新発債の利回りは、1800年の8%から1900年には2%に下がっている。19世紀に価格が下落した原因は農産品だけではない。1872〜1898年にかけてベッセマー鋼の価格も約80%下落した。しかし、価格は下げても経済の急成長に大きく貢献した要因が2つあった。ひとつは農地面積を数倍に広げた草原地帯の開拓、もうひとつは(新発明や改革による)農業と工業の生産率の飛躍的な向上と北米に建設された大規模な鉄道による輸送費の下落である。これによって例えば1850年と1914年の鉄鋼労働者ひとり当たりの生産高は30倍以上に跳ね上がった。

 商品価格の下落が特に激しかったことから「デフレブーム」と呼ばれることもある1873〜1900年だが、これが国民にとって繁栄の黄金時代だったわけではない。イギリスの「農業革命」やロシアを含むヨーロッパ全域に広がる農業不安、さらには米国の人民党の活動などを含む政府の方針で農民、特にヨーロッパの穀物生産者は困難に陥っていた。農地からのリターン(不動産としても、家賃としても)は下落する反面、農業と工業の「有意義な生産性向上」によって実質賃金はどこでも19世紀の第1から第3四半期にかけた上昇率を上回る速さで急騰した(図7.8参照)。そのため、ヨーロッパの地主階級は地代や農産物の値下がりと実質賃金の上昇によってさらに損失を拡大していった。しかし、新しい地域の経済が開発されたことと輸送コストの低下(1869年に開通したスエズ運河)でミシシッピー州の綿、アルゼンチンの牛肉、オーストラリアの小麦、ニュージーランドのマトン、アフリカの鉱石、カナダの材木がグローバル市場の主要商品に成長し、世界貿易の拡大とスケールメリットをもたらしたことも忘れてはいけない。つまり、地主は別として、新しい技術や発明によるデフレショックがアメリカ大陸やそのほかの地域の発展を促し、米国を世界一の工業国に押し上げたことを考えればデフレショックというよりむしろデフレブームといえるのである!

 さらにヨーロッパでは農地を所有する地主たちがパフォーマンス低迷にあえいでいた反面、都市部では急速な都市化を受けて1873〜1878年の不況以降、不動産価格は再び上昇に転じていた。特に米国では南カリフォルニアの不動産価格が1886年まで急騰し続けた。デフレの現在、不動産に魅力はないが(特に金融街の高値地域な ど)、1995年末以降50%以上も資本価値が低下している上海や北京などいくつかの厳選した市場であればかなりのパフォーマンスが期待できる可能性はある。

 1873〜1900年の期間は債権保有者がデフレによって大きな恩恵を受けていた。イギリスのコンソル債の利回りは1866年に付けた3.41%から1897年には2.21%まで下がり、米国でも質の高い鉄道債が1861年の6.49%から1899年には3.07%まで下がってしまった。デフレが企業利益にとって望ましくないことは明らかで、1876年以降債権は株のパフォーマンスを上回ることになった。

 結局19世紀は全体としてはデフレトレンドだったにもかかわらず、人口が大幅に増加したことで経済は大きく進展した。つまり、基本的にはデフレを恐れる必要はないのである。多くの経済学者がデフレを恐れるのは、本当にデフレが破たんを招いた1930年代の惨状だけを見るからで、もし1929年以降の破たんにつながった原因を分析していれば、不況は単に1920年代の投機的な信用ブームが行きすぎた結果だということが分かるはずである。

 景気循環や価格の長期波動の分析は、投資マニアの現象を抜きにしては完成しない。景気拡大や株、商品、不動産などの資産価格の上昇トレンドが長引くと、投資マニアの熱も上がる可能性が高くなる。次章では、このマニアの特質について見ていくことにする。


戻る