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ウィザードブックシリーズ Vol.49

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私は株で200万ドル儲けた

ISBN 4-7759-7010-0 C2033

著者 ニコラス・ダーバス
訳者 長尾慎太郎/飯田恒夫

こちらの書籍は、文庫『私は株で200万ドル儲けた』に改訂いたしました




How I Made $2,000,000 in the Stock Market


ドイツ語版:『Die Darvas Methode.


著者紹介

ニコラス・ダーバス(Nicolas Darvas)
ショービジネスの世界で最もギャラの高いペア・ダンサー。幾多の苦労の末、マーケットの上昇や下落に関係なく通用するボックス理論を構築し、株式市場で200万ドル以上の利益を上げ、資産家になる。


訳者紹介

長尾慎太郎(ながお・しんたろう)
東京大学工学部原子力工学科卒。米系銀行でのオルタナティ ブ投資業務、および金スワップ取引、CTA(商品投資顧問)での資金運用を経て、現在は株式ファンドマネージャーとしてオルタナティブ運用をおこなう。マーケットに関連した時系列データを基にしたシステム・トレードを専門とする。

飯田恒夫(いいだ・つねお)
1938年芦屋市生れ。1961年大阪大学法学部卒業後、丸紅飯田に入社。主に鉄鋼貿易業務に従事し、この間米国、トルコ等14年間の海外駐在を経験。1996年丸紅を退職、同年現地鉄鋼商社のアドバイザーとしてタイ国に渡る。2000年タイより帰国、以後翻訳活動に入る。訳書(共訳)にフィリップ・コトラーおよびゲイリー・アームストロング共著『マーケット原理』がある。

ウォール街が度肝を抜かれた伝説の「ボックス理論」!
一介のダンサーがわずかな元手をもとに、200万ドルの資産を築いた手法!
だれも信じなかった「ボックス投資法」とは

全米トップトレーダー トニ・ターナー女史もオススメ!

 本書の著者であるニコラス・ダーバスがウォール街について下した結論は、そこは巨大なカジノ以外の何ものでもないということだった。これがディーラーや証券会社、情報屋たちを怒らせた。そして、その事実は、非常に好評を得た彼の2冊目の著書『ウォール街(Wall Street : The Other Las Vegas)』のなかにも書かれている。

 本書は、驚くべき書物である。これは株式市場の歴史における最も異例な成功物語のひとつである。

 ダーバスは、内部情報をもとに売買を行う株式市場の専門家ではない。彼はショービジネスの世界で最もギャラの高いペア・ダンサーのひとりなのだ。しかし、彼は独自の投資手法を悪戦苦闘の末に開発し、百万長者の数倍の資産家になることができた。彼の手法がシステムと称するほかの方法と異なる点は、マーケットの上昇、下落に関係なく通用することだった。

 ダーバスが風変わりな投資法で素晴らしい利益を上げているというニュースがもれて、『タイム』が彼の特集記事を組んだ。その後に説得されて本書を執筆したが、これはたちまちのうちにベストセラーになり、8週間で20万部近くも売れた。

 本書に記載された会社のなかには存在しなくなったものも多い。また、取引されなくなった銘柄も少なくない。それでも、本書に書かれた基本原則の信頼性にはいささかの揺るぎはない!



目次

出版者の緒言
著者による序文

第1部 ギャンブラー
 第1章 カナダ株の時代

第2部 ファンダメンタリスト
 第2章 ウォール街に乗り出す
 第3章 最初の危機

第3部 テクニカル分析者
 第4章 ボックス理論の開発
 第5章 地球を駆けめぐる電報

第4部 テクノ・ファンダメンタリスト
 第6章 小型のベアマーケット
 第7章 効力を発揮しはじめた投資理論
 第8章 最初の50万ドル
 第9章 2度目の危機
 第10章 200万ドル

タイム誌とのインタビュー 補遺
 電報
 チャート
 株式索引
 質疑応答

出版者によるまえがき

 本書は、アメリカにおける株式市場関連の古典的著作である。

 株式市場の古典と呼ばれる書籍の多くは50〜75年前に書かれたものだが、本書は4半世紀後の今日でもほとんどの記述がそのまま通用する。

 ダーバスは独創的な人物だった。彼はクロスワードパズルを作ったり、卓球ではチャンピオン級のプレーヤーであったり、社交ダンス界にあっては世界最高のプロダンサーであったりと、あらゆることに秀でていた。

 彼は他人と異なる人間であることを恐れなかった。その鋭敏な頭脳は休むことを知らなかった。ニューヨークのプラザホテルのバーでわたしに質問をしておいて、2週間後にパリのホテル・ジョルジュ・サンクで会って一杯飲んだときにその答えを教えてくれるような人だった。その4週間後にモンテカルロのオテル・ド・パリで会うと、以前の答えをさらに掘り下げて解説し、またその半年後にはリオデジャネイロのレメパレス・ホテル前に広がるコパカバーナの砂浜で日光浴をしながら同じ話題に触れたりした。

 チェコスロバキア(当時)のプラハで、いかにもこの街にふさわしい「一流」にしてはみすぼらしいホテルの一室で、作詞家のディック・マニング夫妻と一緒にわたしと妻がくつろいでいたときに、電話が鳴ったことを思い出す。わたしの秘書も含めてだれもわれわれの居場所を知らないはずだった。しかし、ダーバスは探し当てたのだ。

 何か緊急の用件か? だが、実際はダーバスが近々出版する予定の彼の著書『ウォールストリート――ジ・アザー・ラスベガス(Wall Street : The Other Las Vegas)』の表紙の色について、自分の考えをわたしに聞いてもらいたかっただけだった。

 根強い要望に応えて本書を復刊することができたことをわたしはうれしく思っている。本書は率直にまた衝撃的に株式市場を紹介しているので、ウォール街という巨大なカジノで「勝負」しようとする人にとっては間違いなく必読の書である。

 ここで、読者の皆さんにちょっとした面白い情報をお教えしよう。本書が成功裏に出版されたあと、バロンズ誌の発行部数は倍増した。バロンズは大いにダーバスから恩恵を被ったのだ。しかし、バロンズは謝意を表すのに実に奇怪な方法をとった! その他多くの金融関連誌や新聞とともに、バロンズも『ウォールストリート――ジ・アザー・ラスベガス』の広告掲載を即座に断ったのである。その理由は、彼らにとって長年の忠実な広告主であるブローカーや相場の予想屋の正体を暴露したから、というものだった。この書籍の有料広告を受け付けないばかりか、ニュース欄や書評欄ですら、この本に触れることを一切拒否したのだ!

 「わたしはパンをくれる人の歌を歌う」ということわざを知ったのは、わたしがまだ駆け出しの新聞記者だったころだ。

 記事の差し止めはほとんどのメディアに及んだ。ニューズウィーク誌は予定していた書評を取り消した。タイム誌は記事に添える写真まで要求してきたのに、その記事はあいまいな表現でこの本のテーマに話が及ぶのを巧みに避けていた。

 『ウォールストリート――ジ・アザー・ラスベガス』は、ウォール街のうわべだけのいかがわしい幻影の多くを打ち砕いた。この著作を読んだ人はだれしも、株券やブローカー、または金融関連ニュースレターについて以前と異なる見方をするようになっただろう。もし本書の復刻が成功すれば、この書籍も刊行するつもりである。

 読者が手にされた本書は、個人ブローカーや証券会社に対する投資家の認識を劇的に変化させた最初の書物であった。

 お読みになればその理由が分かるだろう。内容をしっかりと身につければ、あなたの将来の株式投資活動は実り多いものになるだろう。

 1986年3月 ニュージャージー州フォートリー
                   ライル・スチュアート


 著者による序文

 わたしはケネディ国際空港の電話ボックスの中にいた。その1メートルほど離れたところには、チャーリー・スタインが美しい女性を連れていた。

 チャーリーはロードハードウィック・コーポレーションの社長で、彼のそばにはいつもきれいな女性がいた。彼は女性にわたしを紹介するのが、そしてわたしを知っていることで、「自分」がどれほど偉い人物かをその女性に悟らせる口ぶりでわたしのことを褒めそやすのが、特にうれしいようだった。

 この機先を制する彼のやり方に応じてやっても、いつもは何の見返りもなかったが、この日だけは特別だった。だれにも見えなかったのだが、もうひとり別の美しい女性がいたからだ。彼女は人の目には映ることがなかったが、わたしのすぐそばにいた。彼女の名前は幸福の天使、または幸運の女神という。

 このときは、わたしを利用したつもりのチャーリーが、初めてわたしの役に立ったのである。というのは、これが本書の復刻版出版を早めるきっかけになったからだ。

 わたしは電話でパリのガールフレンドをつかまえようとしていたのだが、どうやら浮気の相手と外出中のようだったのであきらめようとしたとき、チャーリーがいつもの調子でニコラス・ダーバスを自己アピールに利用しようと歩み寄ってきた。彼は持ち前の大声でわたしの名を連呼した。すると隣の電話ボックスにいた見知らぬ男性が飛び出してきて、彼に尋ねた。「この人は本物のダーバスですか? わたしは彼の本を化学の教科書かなんかのように研究したんですよ。それで、信じてもらえるかどうか分かりませんが、ダーバス氏が書いたとおりにやって10万ドル以上儲けたんです!」

 わたしがボックスから足を踏み出すと、その男性はわたしのほうに振り向いた。

 「いったいどうしてあの本は絶版になってしまったのですか?」

 彼はわたしの答えを待たずに言った。「わたしは10冊以上買ったんですよ。しかし、今ではどんな大金を積んでも1冊だって買えやしない。手元に残った1冊だって次から次へと借りていくやつがいるんです。それでそいつから拝み倒して返してもらわなければならないんです。しぶしぶ返してくれましたがね。でも、もうその本はぼろぼろですよ」

 その見知らぬ男性は手を差し出した。「あなたにお礼が言いたかったんです。間もなく出発便の時間がきてしまいます。そうでなければ、夕食にお招きするか、一杯お誘いしたいところです。ひとこと言わせてください。あなたは株では200万ドル儲けたかもしれないけれど、出版業をやっていたら2セントすら儲けられなかったでしょう!」

 そう言うと、わたしの手を握り、あわてて向きを変えて搭乗口のほうへ走り去っていった。

 わたしは衝撃を受けた。しばらく言葉も出なかった。10年たった今でも、わたしへ送られてくるこの著書についての手紙が途絶えることはない。読者から再三にわたって説明を求められる個所がいくつもある。質問の大半は同じような趣旨のものだ。それなのに本は絶版になっている!

 時間がたてば物事はうまく収まるものだ。そして、わたしの株式市場への投資方法も、時とともにその正しさが証明された。わたしの著書も今や古典の部類に入って、「絶版書」マーケットでは1冊20ドルで売買されることもある。

 わたしは並外れた幸運に恵まれたのだろうか? 愚か者でも間違えようのない、急上昇を続ける強気相場のモメンタム(勢い)に乗っかっただけなのだろうか? あるいは、わたしの手法はマーケットがどんな状態にあっても通用するほど、その信頼性が高いものなのだろうか?
 事実が示しているのは、本書が時間という厳しい審査にも耐え抜いたということである。

 わたしは空港からパークアベニュー・サウスにあるライル・スチュアートの事務所へと急いだ。わたしの2冊目の著書である『ウォールストリート――ジ・アザー・ラスベガス』の出版元だ。彼はガッツのある男で、ギャンブルにも尻込みはしなかった。しかし、わたしが本書復刻の可能性に触れると、復刻はギャンブルでもなんでもないと彼は断言した。少し意見を交わして、わたしたちは内容を一言も変えることなく、元のままで復刻することを決めた。なんといってもこれは古典なのだ。書き換える必要はない。すでに100万人がこの本を読んだと推測される。そのために影響力は相当大きく、ひとつの取引所、すなわちアメリカン証券取引所がストップロス・オーダー(逆指値注文)の規則を変えざるを得なくなったほどだった。また、この本に非常に立腹した「当局のお偉方」に説き伏せられたニューヨーク州の検事総長が、本書に関する何やらバカげた告発を行った。のちに検事総長はこっそりと告発を撤回する羽目に陥ったが(大々的に行われた告発も、取り下げるときにはその声がほとんど聞き取れなかった!)。

 よろしい、最初に出版したときとそっくりそのままにしておこう。しかし、読者から出された無数の質問のなかでいくつかを取り上げて、わたしが答えることにしよう。この質疑応答は本書の末尾に追加してある。

 もちろん、わたしが答えたのは最も頻繁に寄せられた質問に限定している。しかし、まったく質問らしいものがない手紙をここで1通だけ紹介しておきたい。それはむしろ詰問状ような内容だった。

 その読者は、データが掲載されたページを挙げて、わたしが「宝の山を逃した」と指摘していた。その人は、わたしが専従の助手を2人雇って、2年間わたしのシステムどおりに運用を続けていたら、18カ月で225万ドルどころか、最初の元手(3万6000ドル)の3000倍、つまり1億ドルの収益を上げていたはずだ、と力説していた。

 この読者によれば、わたしの落ち度は素早い株価の動きと信用取引をうまく利用していないことだそうだ。また、利益の再投資をしていないことも間違いだという。

 もちろん、これはすべて後知恵である。手紙には過ちを立証する詳細なチャートが同封されていた。18カ月で140倍にすることができただろうか? 200倍は? あるいは1000倍は可能だったろうか?

 おそらく可能だっただろう。しかし、わたしは自分がやり遂げたことを不満だと思ったことはない。早まって売ってしまうことがないように冷静に判断したこと、またその一方で唯一の武器、すなわちトレイリング・ストップ(価格の上下に合わせて断続的に手仕舞い価格を変更する逆指値注文)を使って、多くの株を売り抜け、難を免れたことで財産を築いたのだ。
 わたしには、損失を免れることができるパラダイスは見つけられなかった。しかし、わたしは大した危険にも遭わずに損失を限定することができたし、それもできるかぎり10%以下で済ませることができた。利益と時間は相関関係にあるが、取得後3週間以上利益が乗らないような株式を持ち続けるにはよほどの根拠が必要だろう。

 ストップロスは2つの効果をもたらした。間違った株からわたしを引き離し、正しい株に導いてくれたのだ。しかもそのスピードは速い。わたしの方法がだれにでも通用するとは限らない。しかし、わたしには効果を十二分に発揮した。本書でわたしの活動を研究し、その結果が読者にとって有益かつ利益をもたらす投資になることを祈っている。

 1971年2月 パリにて
                   ニコラス・ダーバス


第1部 ギャンブラー THE GAMBLER

第1章 カナダ株の時代

 それは1952年11月のことだった。ニューヨーク、マンハッタンの「ラテンクオーター」に出演している最中に、エージェントが電話をかけてきた。トロントのナイトクラブからダンスパートナーであるジュリアとわたしに出演の依頼があったという知らせだった。そのクラブのオーナーはスミス兄弟で、アルとハリーという名の双子だったが、非常に風変わりな条件を出してきた。出演料をお金ではなく株式で支払うというのである。ショーの仕事をしていると奇妙な経験をすることがあるが、株でギャラを支払うというは初めてのことだった。

 条件についてさらに問い合わせた結果、ブリランドという会社の6000株をくれるということが分かった。これは兄弟が関係しているカナダの鉱山会社で、当時その株式には50セントという価格がついていた。

 株は上がったり下がったりするものだという程度のことは知っていたが、それが私が持っている株の知識のすべてだった。そこでスミス兄弟に、もし株価が50セント以下になったら、その差額を補償してほしいと申し入れた。6カ月以内のことなら補償するという返事だった。

 結局、わたしのほうの都合でトロントでの出演は実現しなかった。兄弟の期待に背く結果となって、済まないと思ったので、お詫びにその株式を買い取ろうと申し出た。スミス兄弟に3000ドルの小切手を送り、ブリランド株を6000株受け取った。

 その後、この株のことは忘れていたが、2カ月後のある日なにげなしに新聞の株式欄を見て、椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。わたしの買ったブリランドの株に1ドル90セントという価格がついていたのだ。すぐに売って、8000ドルに近い儲けを手にした。

 最初のうちはこれが現実の出来事とは信じられなかった。なにか魔法にかかったような気がした。生まれて初めて競馬場に出かけ、ビギナーズラックで賭けた馬という馬が次から次へと勝ったような気持ちだった。配当金を受け取りながら、「いつまでこんなことが続くのだろう」とつぶやいているかのような心境だった。

 これまでの人生でどうしてこんなに素晴らしいことを見逃していたのかと後悔し、ともかく株式市場に首を突っ込んでみようと決意した。その後、この決心を翻したことはなかったが、当時はこの未知のジャングルでどんな問題にぶつかるのか見当すらついていなかった。

 株式市場についてはまったく無知だった。例えば、ニューヨークに株式取引所があることすら知らなかった。耳に入ってくるのはただカナダの株式、それも特に鉱山株の話だけだった。カナダの鉱山株でおいしい思いをしたので、このままこの路線に乗っていくのが賢明だと思ったのだ。

 しかし、どんな具合に始めたらよいのだろうか。どの株式を買えばよいのだろうか。行き当たりばったりで選ぶわけにもいかない。何か情報が必要だ。どうすれば情報が手に入るのか、それがわたしにとっては大きな問題だった。今のわたしなら、一般人が実際に情報を手に入れるのがいかに難しいかということをよく分かっているが、当時のわたしは大勢の人に聞いて回れば相当の秘密が簡単に見つかると考えていた。根気よく探せば内情に詳しい人物に出くわすだろうと。そこで、人と顔を合わせるたびに株について何か情報がないかと聞いてみた。ナイトクラブで働いている関係で金持ちに会う機会は多い。金持ちなら知っているはずだ。

 それで金持ち連中に聞いてみた。口にする質問はいつも同じだった。

 「良い株をご存知ありませんか」

 不思議なことには、だれもが情報を持っているようだった。これにはびっくりした。どうやらじかに仕入れた独自の株式情報を持っていないのは、アメリカ中でわたし一人だけのようだった。わたしは熱心に情報に耳を傾け、疑いもせず秘密情報に従った。買えと言われればどんな株でも買った。この方法が“絶対に”儲からないと気づくまでには、相当の時間がかかった。

 わたしは株式市場で売買を繰り返している楽天的で無知な小口投資家の典型だった。名前の発音すらできないような会社の株式を買ったこともあった。その会社の事業内容や社歴についてまったく知らなかった。だれかがほかの人から聞いた話を受け売りで聞いた。まったくわたしほど頭のおかしい、物知らずの投資家はいなかっただろう。知っていることといえば、この前まで出演していたナイトクラブのチーフウエーターがあの銘柄は良い、と話していたというようなことばかりだった。

 1953年の初め、わたしは仕事でトロントにいた。ブリランド社の株で初めて8000ドルを儲けるという破格の幸運に恵まれたわたしは、投資家にとってカナダはパラダイスのような地だと思っていたので、「信頼できる秘密情報」を探すには絶好の場所だと考えた。何人かの人に信頼のおける良いブローカーを知らないかと尋ねてみたところ、最終的にあるブローカーを勧められた。

 そのブローカーの事務所を見つけたときには正直なところ一瞬たじろぎ、そして落胆した。そこは狭苦しく、薄汚れていて、まるで監獄のような部屋で、おまけにそこらじゅう本だらけで、壁には奇妙な殴り書きがされた紙が張られていた。それが「チャート」と呼ぶものだと分かったのは、あとになってからだ。その部屋には、およそ成功だとか、能率の香りは漂っていなかった。事務机の前には小さな男が座っていて、せわしげに統計や本をのぞき込んでいた。何か良い株式はないかと尋ねると、そのブローカーは即座に反応した。

 にっこり笑ってケル・アディソンという有名な鉱山開発会社が振り出した配当小切手をポケットから取り出したのだ。

 彼は立ち上がって言った。「お客さん、よく見てください。これは配当の小切手なんですがね。配当額はうちのおやじが最初にこの株を買ったときの株価の5倍ですよ。みんなが探しているのはこういう株なんです」

 株価の5倍の配当! だれでもそうだろうが、わたしも胸がときめいた。配当が1株当たり80セントということは、彼の父親はたったの16セントでこの株式を買ったことになる。素晴らしい話ではないか。彼の父親がこの株を買ったのはおそらく35年も前のことだろう、などとは疑ってもみなかった。

 男は、この種の株式を見つけるために長年探求し続けてきた方法を語った。父親の例から、成功の秘密は金鉱にあると考えていて、やっと目当ての株式を見つけたのだという。それは、イースタン・マラーティクという銘柄だった。採掘量の実績と予想、財務情報を分析した結果、彼の計算ではこの金鉱から現在の2倍の量が採掘できるので、今この会社の株式に5ドル投資すればすぐに10ドルになると言うのだ。この科学的な知識に裏付けられた情報を頼りに、わたしはすぐさまイースタン・マラーティク株を1株当たり290セントで1000株買った。心配しながら株価を見ていると、270セントに下がり、それから260セントにまで落ち込んだ。数週間のうちにさらに241セントまで下がったので、わたしは急いでこの株を売った。この勤勉で統計好きのブローカーは金持ちになる方法を知らない、というのがわたしの結論だった。

 しかし、わたしは相変わらず株式に関するあらゆることに魅せられていた。依然として秘密情報には、それが例えどんなものでもでも従っていたが、それで儲けたことはほとんどなかった。儲けた場合でも、次にはすぐに損を出してその儲けを帳消しにしてしまった。

 わたしはブローカーの手数料や譲渡税についてすら理解していなかったほどの初心者だった。例えば、1953年1月にケイランド・マインズの株を10セントで1万株買った。猫のように注意深く市場の動きに注目していたが、翌日になってケイランドの株価が11セントになったので、ブローカーに電話で売ってくれと指示した。わたしの計算では24時間で100ドル儲けたことになり、少額だが素早く利益を出したので、われながら手際が良いと思っていた。

 「どうして損を出そうと決めたのですか」。2度目に電話をしたとき、ブローカーから尋ねられた。損だって? 100ドル稼いだではないか! 彼は穏やかに、1万株の買い付け手数料が50ドルで、翌日の売却手数料がさらに50ドルだと説明してくれた。その上、売却の際には譲渡税がかかると言う。

 当時、わたしは一風変わった銘柄をかなり持っていたが、ケイランドもそのひとつだった。ほかにも、モーグル・マインズ、コンソリデーテッド・サドベリーベイスン・マインズ、ケベック・スメルティング、レックススパー、ジェイ・エクスプロレーションなどの銘柄を持っていた。これらの銘柄で儲けたことはなかった。

 けれども、1年間はカナダ株の売買で幸せに浸っていた。成功した実業家か、大物の株式投資家になったつもりだった。まるでバッタのようにピョンピョンと市場への出入りを繰り返していた。2ポイントも稼げれば有頂天になった。すべてが小口だが、同時に25〜30銘柄を保有することがよくあった。

 そのなかには、特に愛着を感じるようになったものがある。それにはいろいろな理由があった。あるものは親しい友人から譲られたからであり、またあるものは利益が乗り出したからだった。そうした株には親しみを感じるようになり、そのうち自分でも無意識のうちに「ペット」銘柄を飼い始めた。

 こういう銘柄には、家族と同じように自分と一体なのだという意識を持った。明けても暮れても、その長所を数え上げていた。子供のことを話すようにペット銘柄の話をした。だれかがこのペットについてほかの銘柄と違った特別な長所があるとは思えないと言っても、気にはならなかった。この心理状態は、やがてペット銘柄の損が最も甚大だと気づくまで続いた。

 数カ月のうちに、わたしの取引記録はちょっとした証券取引所並みの規模になった。それでも、自分のやり方が間違っているとは思わなかった。利益が出ていると思っていた。もし計算書を丹念に調べていれば、それほど幸せな気分ではいられなかっただろう。競馬狂のようにわずかの勝ちにも舞い上がって興奮するあまり、損を出していることには気づかなかった。購入価格から相当下落して、当分そのままで動きそうもない銘柄が多い事実も見逃していた。

 これは、自分なりの投資の方法論を見いだす努力もしないで、無謀でバカげたギャンブルをしていた時期だった。ただ「直感」に頼っていただけだ。ひらめきを感じた社名や、ウランを発掘したとか油井を掘り当てたといううわさなど、他人から聞いた話に基づいて行動した。絶えず損をしていたが、たまにわずかでも儲けると希望がわいてきた。まるで鼻先にニンジンをぶら下げられたロバのようだった。

 その後7カ月ほど売買を繰り返し、ある日、帳簿をたまたま見た。持っている不良株式の時価を合計してみると、3000ドル近く損をしていることが分かった。

 その日、自分の金儲けのやり方には何か問題があるのでないかと初めて疑問を抱いた。もうひとりの自分が、実はお前は自分でも何をしているのか分かってはいないではないか、とささやき始めたのだ。

 だが、まだ利益は残っていた。最初にブリランドを買ったときの3000ドルはそのまま手をつけずにいたし、その取引で稼いだ利益のうち約5000ドルはまだ残っているんだと自分を慰めた。しかし、この調子で続けていたら、あとどれくらいそれはもつだろうか。
 わたしの損益計算記録のごく一部を紹介しよう。哀れな敗北の縮図である。

 オールドスモーキー・ガス・アンド・オイルズ
  買い 19セント
  売り 10セント

 ケイランド・マインズ
  買い 12セント
  売り 8セント

 レックススパー
  買い 130セント
  売り 110セント

 ケベック・スメルティング・アンド・リファイニング
  買い 22セント
  売り 14セント

 鼻先のニンジンばかりを追いかけていたわたしは、平均すると週に100ドル損していることに気づいていなかった。

 このときに、株式投資における最初のジレンマを経験した。その後の6年間にはより深刻な難局がいくつも待ち構えていたのだが、ある意味ではこのときが最悪の状況だった。株式投資を続けるかどうかは、この時点での決断次第だった。

 そしてわたしはこのまま続けてもう一度がんばってみようと決心した。

 そこで、問題はどうしたらよいかだった。もっと違ったやり方があるはずだ。投資の仕方を改善できないだろうか。ナイトクラブのお客やチーフウエーター、舞台の裏方の言うことを聞いていたのが間違いだったことはすでに証明済みだ。彼らもしょせん素人にすぎず、どんなに自信たっぷりに秘密情報を耳打ちしてくれても、その知識はわたしと変わるところがなかったのだ。

 わたしはブローカーから送られてきた計算書を一枚一枚じっくりと眺めた。90セントで買い、82セントで売り……65セントで買い、48セントで売り……。

 株式投資の秘訣はどうしたら手に入るのか? わたしはカナダの金融関連の刊行物やカナダ株式の価格表を読みだした。トロント証券取引所上場銘柄に関する情報を掲載している投資情報誌にも、今まで以上に熱心に目を通しだした。

 もし続けるのなら専門家の手を借りようと決めていたので、投資に関する情報・助言サービス誌をいくつか購読した。結局、こうした投資顧問が専門家なのだと考えていたのだ。専門家の意見に従おう、そして素性の知れない人やわたしと同じ素人の投資愛好家から聞いた秘密情報で株を買うのはやめようと思った。経験を積み思慮に富んだ専門家の教えに従えば、成功は間違いない。

 試読用として1ドルで4回分の情報誌を送ってくれる投資顧問業者が何社かあった。貴重な情報を買おうと真剣に考えている人に、試しに読んでみてほしいという好意的な措置なのだろう。

 わたしは12ドルほど支払って試読を申し込み、送られてきたニュースレターを熱心に読んだ。

 ニューヨークには信頼できる金融情報サービス業者もいるが、わたしが試読を申し込んだのはカナダの業者ばかりで、いずれも純然たるカモ相手の商売を目的としたニュースレターだった。当時のわたしがそんなことを知るすべもない。投資サービスレターに大喜びし、胸を弾ませた。その種のレターを読むと、株式市場での投機はいとも簡単で、即座にやるべきことのように思えた。
 大見出しのタイトルは、例えばこうだ。

 「この株を買うなら今すぐ、機会を逃すな!」
 「資産を総動員して買え!」
 「この投資に反対するブローカーは切れ!」
 「この株は100%以上あがる!」

 こうした文句は、もちろんわたしには本物で最新の情報のように思えた。レストランで聞いた怪しげな秘密情報に比べるとはるかに信頼性が高いものだと。

 わたしは販売促進用のニュースレターを熱心に読んだ。レターの内容はいつも非常に利他的で、親身さがあふれていた。例えば、あるレターには次のように書かれていた。

 「この輝かしい新規開発事業に有利な立場で参加できる夢のような機会を、カナダの金融史上初めて資力の乏しい方々に提供します!」

 「ウォール街の富豪たちがわが社の全株式を取得しようとしています。こういう旧式で有害な動きを断固阻止するために、当社の関心はもっぱら中産階級の投資家、つまりあなたのような方に参加を求めることにあります」

 これはわたしのことではないか。この人たちはまさしくわたしの立場を理解している。ウォール街の富豪たちに邪魔者扱いされているという点で、わたしは哀れな資力のない人間だ。だが実際に哀れむべきだったのは、当時のわたしのバカさ加減だった。

 勧められた株を買おうと、よく急いで電話をした。買った株は必ず値下がりした。それがなぜだか分からなかったが、わたしは心配していなかった。ニュースレターの発行者は、自分たちの記事に「絶対的な」自信を持っているのだ。次に買う株は値上がりするはずだ。しかし、めったに値上がりすることはなかった。

 自分では気づかなかったが、わたしはすでに小口投資家が陥る大きな落とし穴――つまり、「いつ」の段階で取引に参加すべきかという解決不可能に近い問題にぶつかっていたのだ。買った直後に株価が下落するのというのは、素人が最も戸惑いを感じることのひとつだ。金融界の予想屋が特定銘柄の買いを小口投資家に推奨するのは、彼らのような玄人筋がもっと早い時期に内部情報に基づいて買った株を売る場合だという事実に気づいたのは、何年もたってからのことだった。

 内部情報に明るい連中がお金を引き上げる時期に合わせて、カモたちの細々としたお金が入ってくる。カモたちは一番乗りで最も多額の投資をすることはあり得ず、一番あとに最も少額の投資をする。小口投資家の取引参加はあまりに遅すぎるうえ、その投資金額がいつもあまりに少額なので、いったんプロが撤退してしまうと実体のない高値を支えることができなくなる。

 今ではこの仕組みを理解しているが、当時のわたしにはなぜ株価がこういう動きをするのか皆目見当がつかなかった。自分が買ったあとで下落するのは、単に不運に見舞われたのだと思っていた。あとから考えてみると、この時期のわたしは一文なしへの道を突き進んでいたのだ。

 100ドル投資すれば、ほとんどいつも瞬く間に20〜30ドルを失った。しかし、数は少ないがなかには値上がりするものもあったので、わたしはまだましだった。

 ニューヨークに行かなければならないときでも、わざわざトロントのブローカーに注文を出していた。

 ニューヨークのブローカー経由でもカナダ株の取引ができることすら知らなかったのだ。トロントのブローカーたちは秘密情報があるといってよく電話をしてきたが、わたしはいつもブローカーやカナダの投資顧問業者の推奨する株式を買った。行き当たりばったりの小口投資家の例に漏れず、わたしも損をしたときは運が悪いせいにした。いつかは幸運がめぐってくると思っていた――いや確信していた。常に失敗していたわけではない。ある意味ではいつも失敗していたほうがかえって良かったのかもしれない。時にはほんの数ドル儲けることがあった。それはいつもまったく偶然のなせる業だった。

 こんな例があった。カナダ株の株価表がわたしにとって手放せない読み物になっていたある日、株価表を隅から隅まで読んでいると、カルダー・ブスケットという銘柄が目に入った。いまだにどういう会社だったのか、何を作っていたのかは知らない。しかし、なかなかしゃれた名前ではないか。その名前の響きが気に入ったので、5000株を18セント、合計900ドルで買った。

 そのころ、ダンス公演の契約でマドリッドまで飛ばなければならなくなった。1カ月後に戻って新聞を広げ、例の株式の名前を探した。36セントまで値上がりしていた。買った値段の倍だ。売って、900ドル儲けた。まったくの行き当たりばったりで幸運を引き当てたのだ。

 二重に運が良かったのは、訳の分からないまま値上がりしたことに加えて、もしスペインに仕事で行かなかったなら、間違いなく22セントになったところで売っていただろうからである。スペイン滞在中はカナダの株式相場を見ることができなかったので、株価動向を知らずにいたのが幸いして時期尚早な売り方をしないですんだのだ。

 当時は未熟であったし、のぼせ上がっていた時期だったが、それは今だから言えることだ。当時、自分では実際に一流の投資家への道を歩みだしたと感じていた。以前のようにチーフウエーターからとか、楽屋内で仕入れた情報に比べて、より知的な秘密情報に従って投資していることが誇らしかった。カナダのブローカーからの電話や投資顧問業者からのアドバイスもあり、彼らから秘密情報を得ると、それは信頼すべき筋から手に入れたもののように思えた。わたしはカクテルラウンジで出会う裕福な実業家たちとの交際を次第に深めていったが、この人たちは埋蔵量の豊かな油田を掘り当てようとしている石油会社などの話をしてくれた。また、アラスカのウラニウムの埋蔵場所や、ケベック州で大々的な開発事業があるという打ち明け話をしてくれたりした。もし今その会社の株をうまく手に入れさえすれば、将来ひと財産作れること間違いなしという話ばかりだった。こういう話にはすぐ乗ったが、金儲けにつながったものはなかった。

 1953年の末にニューヨークに戻ったころ、わたしの1万1000ドルは5800ドルにまで目減りしていた。もう一度自分の置かれた状況をよく考えてみなければならなかった。実業家たちの秘密情報は、彼らが約束したはずの黄金郷に導いてはくれなかった。投資顧問業者は株式市場で金儲けにつながるような情報をくれなかった。彼らの推奨した銘柄は値上がりするよりも値下がりすることのほうがはるかに多かった。わたしの保有するカナダ株の一部はニューヨークの新聞では株価が網羅されていなかったが、株式相場そのものに非常に興味があったので、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、ウォール・ストリート・ジャーナルなどの金融欄を読むようになった。ニューヨーク証券取引所の上場株には手を出さなかったが、名前の響きがきれいな銘柄があって感心したり、「店頭取引」というような謎めいた言葉に魅力を感じたりしたことを今でも覚えている。

 金融欄を読めば読むほど、ニューヨークの株式市場に興味を持つようになった。カナダの株は、オールドスモーキー・ガス・アンド・オイルを除いてすべて売り払うことにした。スモーキー株を残すことにしたのは、そもそもこの株を譲ってくれた人がそのうちにとんでもなく大化けするよと忠告してくれたからだ。例によって大化けすることはなかったので、ニューヨークに戻ってから5カ月目に無駄な抵抗はやめることにした。19セントで買ったこの最後のカナダ株は10セントでしか売れなかった。一方、わたしの本拠により近く、より巨大なジャングル、すなわちニューヨーク証券取引所はけっして攻めやすい相手でないことは覚悟の上だった。そこで、ニューヨークで劇場関係のエージェントをしている友人のエディ・エルコートに電話をして、ニューヨークのブローカーを知らないかと尋ねた。彼に紹介された一人の男の名を以下ではルー・ケラーと呼ぶことにしよう。


『タイム』とのインタビュー

 それは1959年5月のことだった。スミス兄弟からブリランドというカナダ株で出演料を支払うという申し出があってから6年半たっていた。あたかも車輪がちょうど1回転したようだった。というのも、あのときと同じようにわたしはニューヨークの「ラテンクオーター」に再び出演していたからだ。

 わたしの株式市場での取引ぶりが、どういうわけかウォール街で人のうわさに上るようになった。わたしが成功したという話がもれて、次第に広がった。

 ある日、驚いたことにタイムの経済部から電話がかかってきた。株式市場でわたしが成功したことを小耳にはさんだが、インタビューのために記者を送ってよいかという話だった。

 翌日、記者がやってきたので、わたしは財産づくりの一部始終を語った。記者に帳簿や取引明細書、電報を見せてやった。彼はその資料を入念に調べたうえで、わたしの話に非常に感心したと言って帰っていった。

 その翌日、記者がまた戻ってきて、スタッフの経済専門家が非常に懐疑的で、わたしの話が本当であるわけはないと主張していると言う。

 そう聞いても特に驚かなかったので、記者にもう一度事実を示す書類や数字を見せた。彼は5、6時間かけて調べ、帰っていくときにはすべての資料が正確だと納得したようだった。

 やがて分かったのだが、これはタイム社内での論戦のほんの幕開けだった。翌朝、その記者が昼食を一緒にしないかと誘いの電話をかけてきた。約束の30分前に再び彼から電話があって、編集主任が同席するという。主任が自分の耳でわたしの話の真偽をチェックしたいそうだ。

 2人は1時に昼食の席に現れた。もう一度、わたしは投資の経緯を逐一説明した。主任は熱心に耳を傾けるあまり、テーブルの上の食事に手をつけないままだった。

 午後4時を回り、話をすべて聞き終わったあと、やっと彼はサンドイッチをほおばった。5時になると、彼は記者と一緒に帰っていった。何も言わなかったが、明らかに彼も感心したようだった。あれだけ人の話に興味を示す人物に会ったのは初めてだった。

 その日の夕方6時に、また電話があった。今度はタイムのウォール街専門記者だった。彼の話では、3人の編集スタッフがわたしにインタビューしたうえで、すべての事実をチェックして、全員がそろって検証したあとでなければ、編集局長がわたしの記事の掲載を認めないと言っているそうだ。非常に驚いたことに、局長はわたしのダンス公演をぜひ見ろと言ったという。

 どうやら、局長はわたしの株式市場での成功を疑問視しただけでなく、何とダンスだってろくに踊れないだろうと思っているようだった!

 午後7時、3人目の専門記者が尋ねてきた。最初、彼はわたしが話したことすべてが、そして投資活動に関してわたしがそろえたすべての証拠書類が信じられないというように首を振っていた。彼はあらゆることを疑ってかかろうと決めていたようだ。

 ジュリアとわたしが舞台で演じると、彼はわたしたちのダンスに感心したようだった。少なくとも、これで関門はひとつ越えた! もうこれで3日間にわたって反対尋問を受けてきたので、いささか神経が参っていた。そのために自分の踊りが絶好調ではないことに気づいており、舞台の最後のほうでパートナーを持ち上げる力仕事の最中に右腕の筋肉をひどく痛めてしまった。だが、何とか舞台を終えることができた。
 ウォール街の専門記者と向かい合って投資に関するこまごまとした厳しい質問を受けている間も、腕はひどく痛んだ。

 質問は延々と――数時間も続いた。彼の質問はいつも同じところに戻ってきた。それは、なぜわたしが株式投資についてこれほど包み隠しせずにしゃべるのかということだった。

 自分のやり遂げたことを誇りに思うからだ、とわたしは答えた。何も隠すことはないと思った。

 もう真夜中を過ぎていたが、それまで長時間を費やしたにもかかわらず、尋問官は一切の飲み物を断った。彼は、わたしのシステムや記録に何か欠点がないか探し出すために頭を冴えた状態にしておきたいのだ、と正直に認めた。

 午前2時、彼はボールペンを投げ出した。

 「一杯やりましょう」彼は言った。最後の疑問も氷解し、彼は納得した。記者はグラスを高く上げて、わたしの株式市場での成功に乾杯してくれた。

 彼は午前4時に帰っていったが、その前にわたしにアドバイスを求めた。わたしは、株価が39 3/4ドルになったらという条件つきで、ある銘柄の買いを勧めた。そして、ストップロスを38 1/2ドルに置くように忠告した。この銘柄は結局39 3/4ドルまで値上がりしなかった。彼はわたしの付けた条件を無視して、もっと安い価格で買うようなことをしなかっただろうか? そうでないことをわたしは願った。この株は22ドルまで値下がりしたのだ!

 翌週、わたしの記事がタイムに掲載された。言うまでもなく、同誌は非常に影響力の大きい読者層を持っており、特に金融界ではそうだった。その結果、わたしは正統派ではないにしても、株式市場で非常に成功した投資家として、大方の――無論すべてではない――金融界の専門家たちに認められた。それでこの本を書くことになったのだ。

 もうひとつの結末は、筋肉をひどく痛めたことだった。ある医者は、ダンス公演を完全に断念しなければならないだろうと診断した。その医者は、わたしが二度とパートナーを持ち上げることができるかどうか疑問だと考えたのだ。

 2週間後、わたしは舞台に立っていつものとおり公演をした。その後もずっと同じ公演を続けている。ウォール街の専門家と同じく、専門医でも時には間違いを犯すのだということを実証するかのように。



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