『ヘッジファンドの帝王』目次

謝辞………2
第一章 ある電話………7
第二章 ベンソンハースト………23
第三章 四七丁目の大物………49
第四章 アイビーリーグ、兵役、ウォール街………75
第五章 ウォール街で一番もてはやされたアナリスト………105
第六章 スタインハルト・ファイン・バーコビッツ社………127
第七章 ジュディ………147
第八章 独創的な発想………173
第九章 引退そして復帰………195
第一〇章 動物園と映画………219
第一一章 一九八七年の大暴落………245
第一二章 スタインハルト流………267
第一三章 政治とのかかわり………305
第一四章 人生最悪の年………323
第一五章 スタインハルト退任!………345
第一六章 父の死………365
第一七章 二つの河………381
訳者あとがき………413

謝辞

 この自叙伝は、カレン・クック女史の断固とした決意がなければ決して書き上 げることは出来なかったであろう。女史はわたしの投資活動に鋭い目を注いでい たのみならず、わたしを責め立て、おだて上げ、機嫌を取り、多くの場合、脅迫 してこの本を書き上げさせてくれたのだ。女史の疲れを知らぬ活力と忍耐力に対 し、また何よりもこの本がようやく完成したことに対し、心から女史に感謝す る。

 わたしはまた、ウイリー社の方々、とりわけ編集人のパメラ・ヴァン・ギッセ ン女史に謝意を表したい。著作権代理人を勤めてくれたスコット・メレディス社 のアーサー・クレバノフ氏は、このプロジェクトを離陸させ軌道に乗せるのに大 いに助けになった。さらに、ポール・アレクサンダー氏が与えてくれた初期の段 階でのインスピレーションと指針に感謝申し上げたい。

 最後に、わたしの家族、友人たち、同僚たちに対して、その忍耐と洞察力なら びに、ときには、わたしが無視してしまった数々の批評にも感謝したい。

                         マイケル・スタインハル ト


第一章 ある電話

 40代はじめのある時期、秋になるとしばしば落ち込んでしまうのが何故なの か、わたしにはよく分からなかった。しばらくして、この季節はわたしにとっ て、一年の初めでもあり終わりでもあることに気がついた。この時期には、学校 で新学期が始まる。そして、ユダヤの新年であるロッシュ・ハシャナがそれに続 き、新しい希望とすべてが新しく変わったとの思いが沸き上がる。内国歳入庁が 資産運用者たちのルールを変更し、会計年度を暦年と同じにしてしまうまでは、 わたしの会社の年度は九月に終わっていた。ヘッジ・ファンドの運用者であるわ たしにとって人生の重大事は運用成績であり、そのインパクトはその年度の運用 期間が終わりに近づくと特に強烈になっていく。だから、毎年9月30日が過ぎ て年度が終わると、わたしはこれで終わったという想い、劇の一幕が終わったよ うな想いになるのだ。良い演劇にはすべて、序幕、中盤、そして終幕つまりフィ ナーレがある。わたしのフィナーレは9月30日だった。

 幸いヘッジ・ファンド運用者としてのわたしの経歴はまず成功の部類に入って いたので、この九月三0日は一般に良い日だった。この日はお祝い、興奮そして 喜びで満ちあふれていた。顧客である投資家たち、パートナー、従業員も幸せだ った。ときには運用成績がずば抜けて良く、ウオール街で一番の成績になった年 も何年かあったが、こんな時は、皆が儲かりすぎるほど儲かったものだった。

 しかし、十月になるとすべてが初めからやり直しとなる。不安と不安定さが再 び襲ってくる。もちろん、はじまりであるから、そのときにはまだ良い運用実績 は実現していない。結局、毎年新しい年度の初めには、まったくゼロから出発す ることになる。わたしが、いや、資産運用者は皆そうだが、過去にやり遂げたこ となどはアッという間に「大昔の話」になってしまう。“だれが次に何をするか”を皆が注目している。きびしい競争に明け暮れるヘッジ・ファンドの世界の 底には、「今年はどのくらい儲けさせてくれたかね?」という不変の質問が潜ん でいるためだ。ときにはこの質問が、「今月の儲けはいくらかね?、今週はどう だった?」になることさえある。だから、毎年10月になると、わたしは運用を 再出発させなければならないことへの不安を特に感じるようになったのだ。

 しかしその一方で、この新しいときと古いときの間にあるつかの間は、短いバ ケーションのチャンスでもあった。そしてこの年、1981年の秋も、状況はい つもと変わることはなかったのだ。  イスラエルに短期間滞在してから、わたしと妻のジュディはフランス南部へ飛 んだ。そこではお気に入りのホテルのひとつ、ラ・リザーブ・デ・ビューリュー に宿泊する計画だった。このホテルが気に入っているのは、その料理の素晴らし さ故である。食べるということは、わたしにとって人生最高の喜びのひとつだっ た。コート・ダジュールへ着く何日も前から、過去に楽しんだ料理を夢想した。 ガーリック・アロマの香り豊かな素晴らしいプロバンス風クルマエビ、デリケー トな味わいのフォアグラ、それから、フェンネルを添えたループ・デ・メールだ が、これはもう魚というものを天空まで昇華させたとしか思えないものだった。 この地方は、その風景(ご婦人の服装が作り出す、またはそれをつけていないこ とが作り出す風景)の素晴らしさが人を引きつけるのだが、わたしにとってもっ とも興奮すべき要素はメニューだった。ジュディが腹を立てたとき、いつも指摘す ることがある。わたしは生活上での大事なことは細かく覚えておくことができな いくせに、メニューになると素晴らしい記憶力を発揮するようなのだ。

 わたしたちは午後遅くビューリュー・スル・メールに着いたが、それは運良く 夕食に間に合う時間であった。ニューヨークで言えば、昼間の時間だった。飛行 機旅行で消耗したので、わたしたちは期待していた食の探検を始める前に横にな ることにした。ベッドの上で体を伸ばし、心地よい十月の夕方のひとときを楽し もうとした。その時、電話が鳴った。ホテルの交換手は、電話はニューヨークの わたしのオフィスからで、掛けているのはアシスタントのサマンサだと言った。

 電話に出るとサム(わたしはサマンサをいつもこう呼んでいたが)はFBIの 捜査官から電話があったと言って、その番号を教えてくれた。捜査官はわたしが できるだけ早く彼に電話をかけるようサムに依頼したとのことだった。そしてサ ムにもその内容は分からないとのことだった。どうやら急用のようである。「こ の電話を切ったらすぐ掛けるよ」と言ったが、切る前にわたしはパートナーの一 人、ジョン・レヴィンにつないでもらった。ところが、電話に出るなり、ハロー とも言わずいきなり彼が言い出したことに、わたしは驚かされた。「おめでと う! 債券が大きく動いたよ。ファンドの価格は年率60%の値上がりだ」。新 年度は始まっていたのだ!

 わたしは債券市場が動き出したのは知っていたが、その動きの大きさと、それ がわたしたちのポートフォリオに与えた影響の大きさに唖然となった。ベッドの 端に腰を下ろして、わたしは自分が正しかったことと、わたしにとってまったく 新しい投資分野、つまり債券についての判断が正しかったことに深い満足を覚え た。それまでのわたしは、ただ株式のみに焦点を絞ってきたのだ。13歳からこ こまで、株式は魔術のような魅力でわたしを引きつけてきた。素人投資家からプ ロの投資家になり、アナリストから出発してトレーダーさらにポートフォリオの 運用責任者を経験してきたが、わたしの専門は一貫して株式だった。しかし、1 980年代初期の投資環境は、株式を含むどんな投資対象より、債券が有利とい う特別な状況になっていた。

 1980年の初頭、スパイラル・インフレーションとその抑制措置がアメリカ 経済をむしばんでいた。合衆国政府は国民総生産の2.5%にも達する、およそ 800億ドルという巨額の赤字を抱えていた。長期国債の利回りは1980年の 10%から、1981年の9月にはほぼ16%まで上昇した。短期金利もまた1 7%まで上がった。連邦準備制度理事長のポール・ボルカーは、金融政策つまり 金利圧力で、インフレを抑制しようとしたのだが、そのときに到るまであまり成 功していなかった。

 同じころ、ソロモン・ブラザースの主任エコノミストで、愛情を込めて「ドク ター終末論」と呼ばれていたヘンリー・カウフマンは、記録的な高金利と抑えの 効かないインフレがやがて来るという恐怖の予言を行い、債券の恐怖をさらに声 高に唱えていた。ウオール街のエコノミストのほとんども、ヘンリー・カウフマ ンと同じように債券には弱気で、債券のことを「没収証書」とまで呼ぶ有様だっ た。短期的にも長期的にもインフレは続くと思っていたのだ。原油価格は高く、 さらに上昇すると予想されていた。

 だが、わたしは違う見方をしていた。
 そこで、春も遅くなってから、金利の急騰を目の当たりにしつつも、わたしは 債券市場への進撃を開始した。経済は予想以上に早く鈍化し、この結果、金利の 健全な低下をもたらす。この前提の下、わたしは債券を買い始めた。正直に言お う。実は、単に債券を買っただけではなかった。わたしはレバレッジを効かせ て、つまり資金を借り入れ、リスクを増幅させながら買ったのだ。資金はかなり 大量に借りられた。株式の場合は、FRB(連邦準備制度理事会)の信用取引規 制によって投資資金の借入額に制限があるが、国債を買う場合は、証券会社や銀 行の貸出限度額まで借り入れが可能だからだ。一般的には、保有債券時価の95 〜99%までの借り入れが可能だった。過去に経験しなかったほどの大きなリス クを取ったのは、投資資金の大部分を借り入れて投資を行っても大きな利益の機 会があると感じていたからだった。

 1980年代の初期、わたしはふたつのヘッジ・ファンド、主要ファンドのス タインハルト・パートナーズとオフショア・ファンドのSPインターナショナル を運用していたが、その合計金額は七五00万ドルだった。本能の命じるところ にしたがい、わたしはファンドの資金五000万ドルと借り入れた資金2億ドル を投じて、二億五000万ドル相当の十年物中期財務省証券を買った。どんな基 準から見ても、新参の債券投資家としてはまったく大胆な賭けをしたものであ る。だが、過去の卓越した運用実績と、一般に市場より一枚上手である自分の能 力からして、わたしには自分が正しいとの確信があった。



 結局、わたしの債券保有額は非常に大きなものとなった。投資家への月次報告 書で主要銘柄を書き抜いてみると、長期保有証券のなかで最大の銘柄は財務省証 券という始末だった。例え市場が目先わたしの思惑と反対に動いても、わたしに は自分が正しいとの確信があった。だが、顧客である投資家の反応については、 うかつにも過小評価していたようだ。

 このときまで、わたしのウオール街での全経歴が株式だけだったから、この賭 けを見た顧客の投資家たちが不快感を抱いたのがすぐにはっきりした。

「債券について、君が何を知っているというのだ?」と投資家たちは不平を漏ら した。
「わたしは株を買うために君に金を預けたのであって、債券を買うためではない んだよ」

この言葉を、わたしは繰り返し聞かされたものだ。
 心配のあまり、解約可能期間が始まると、解約通知を送りつけてくる投資家も いた。経営コンサルタントのマッキンゼー社もそんな顧客のひとりだった。債券 投資を詳しく説明したわたしの月次報告書を見るや否や、「同社の投資委員会と のミーティングを持って欲しい」とわたしに依頼した。同社の上級幹部から選ば れてきただけあって、委員たちはいずれも強い印象を与える人たちだった。はっ きりした考えを持っている人たちだった。同社の成功が、他社幹部に社員の明敏 さを印象づけた結果であるのはもっともだった。

 わたしはどうして債券投資が魅力的かを説明したが、こてんぱんにやっつけら れた。
「君は株式が専門じゃないか」と委員たちは口々に言い続けた。「わたしたちは 君に株式運用者として資金を配分したんだ。債券を買われては困るんだよ」。ミ ーテイング終了後、同社はすぐに投資資金を引き揚げてしまった。
 あるカナダの投資家などは、この債券の保有のことで、「告訴するぞ」と脅か した。彼はある日電話をかけてきた。「あなたは債券について何か知っているの かね?」と喚いたのが挨拶だった。「あなたは株の投資家なんだよ。株式市場に 集中していると皆思っているんだ。だからわたしは法外な手数料を払ったんだ ぞ!」。

 確かにポイントをついていた。わたしは債券市場についての経験はほとんどな く、そこで使われる技術や専門用語さえ知らず、それなのに、金利は上昇し債券 価格は下落するだろうという全員一致の見解に逆らって賭けをしていたのだか ら。方針の大転換を迫る圧力と、わたしの自信がもっとも揺らぎやすいポイント への顧客からの不満が重なって、この時期は感情的な動揺が絶えないときだっ た。状況はしばらくの間、カナダの投資家のほうが正しいように見えた。
 株式市場でのわたしの過去の成功を、そのまま債券市場での成功に移し替えら れるものなのだろうか? わたしの顧客が尋ね続けたのはこのことだった。わた しの債券保有額は最初からかなりの額に昇ったが、状況をさらに悪化させたの は、月を追ってその保有を大きく増やしたのに市況が向かい風であったことだ。 ある時点で、ファンドは1000万ドルの評価損を抱えていた。



 市場をはるかに上回る過去の運用実績と、厳しい闘争を厭わないわたしの性格 をもってしても、1981年の春は混乱に支配された人生だった。この時期、金 融市場でのわたしの運は上がったり下がったりだった。下がるほうが上がるほう より多かったのだが、それでも債券を買い続けた。債券は資本の何倍もの額とな ってわたしのポートフォリオを支配し始めていた。1カ月でも調子の悪い月があ ったら、顧客の投資家たちは、債券市場におけるわたしの立場を終わりにしてく れたことだろう。もちろん、こんなに大きなポジションを持つ理由を説明し続け てはいたが、顧客の尋問はとにかく神経を疲れさせた。さらに、借入資金による ディーリングと、金利変動のタイミングを計ることは、わたしにとってまったく 新しい経験で、結果として眠られない夜が続いた。

 毎週、わたしは金曜日の午後に出されるFRBの通貨供給量とくにM1とM2 の発表を待ちこがれた。わたしのように債券に強気な投資家は通貨供給量の成長 がストップするのを待ち望んでいたのだ。これこそ経済がスローダウンし、おそ らくは景気後退にむかう指標、つまり債券の投資家にはグッドなニュースになる のだ。わたしは社内および広く金融界の情報源を動員して、企業活動にいささか でも変化があればそれを突き止めようとした。経済鈍化の兆候を求めて不確かな 裏づけに至るまで大量にかき集めた。タクシー乗車率をパーセントで示す独自の ニューヨーク・タクシー指数を作って、タクシー需要の減少を示す利用可能車両 数が増えていることを期待したりもした。

 1981年9月30日に終わる年度では、この巨大な債券のポジションが与え る影響は圧倒的だった。スタンダード&プアーズ(S&P)の実績が3.5%の 損失であったのに対して、わたしたちの実績は10%の利益だったのだが、それ でも日単位、週単位、月単位の変動率は恐ろしいほど高かった。年度が終わった とき、わたしは本当に救われたという思いだった。ジュディと一緒に何日間か逃 げ出す日が待ちきれないほどだった。

 だから、その日の午後、ジョン・レビンとの電話で債券市場の反転を聞き、ポ ートフォリオが直ちに60%上昇したことを聞いたとき、深い満足感を覚えたの だ。この反転をわたしは1年かけて待ち続け、今、それが一夜のうちに起こった のだ。金利は急落し始め、債券の価格は急騰し、わたしたちの運用実績もまた急 上昇した。わたしの金融界におけるもっとも満足すべき一瞬だった。なぜなら、 本能で起こると直感したことに資金を投じ、現実にそれが起こったのだから。ま だ10月が終わらないというのに、今年の仕事は出来上がってしまった。債券投 資額2億5000万ドルのうち自社ファンドが5000万ドル、残りは借入金だ ったが、これによって4000万ドルの利益をあげた。最終的には、わたしたち の実績は97%の利益になったが、成功したとの達成感と充実感は「自分が正し かった」と分かったこの瞬間に感じた。この過程で大事な顧客を何人か失うこと にはなったが、わたしは新しい投資手段を獲得したし、大方の合意に対抗して賭 けるスリルを味わい、それによって大きく報われたのだ。

 オフィスとの電話を切ったとき、わたしの気分は高揚していたが、それでも、 サムが言っていたFBI捜査官のことが気になっていた。ボブ・スミス捜査官と はだれで、どういう用件で電話してきたのだろうか? サムから聞いた番号に電 話を掛け、スミス捜査官を呼びだした。捜査官によれば、ニューヨークのナヌエ ットで護送車を襲う強盗事件が発生し、護衛が数名殺されたとのことだった。犯 行はブラック・パンサーによるもので、FBIは犯人捜査のためニュージャージ ー州ニューアークのあるアパートを捜索した。大量の武器以外にFBIがそこで 発見したのは秘密の文書で、その中にはブラック・パンサーがこれから暗殺しよ うとしている人間のリストがあった。スミス捜査官によれば、わたしの名前がそ のリストにあったという。

「驚ろかせるつもりはないのですがね、スタインハルトさん」とスミス捜査官は 言った。「だが、このグループが標的にしていて、リストに名前が出ている人た ち全員にお知らせする義務があると思いましてね」
「他にどんな人がリストに載っているのかね?」とわたしは聞いた。
「あなたのような成功している資本家のリストですよ」と捜査官は答えた。
ブラック・パンサーは反資本家、反体制の団体であり、このグループのメンバー たちは目的達成のために暴力に訴えてきた歴史があるだけに、攻撃目標のリスト の存在はもっともであると思われた。
「FBIもあなたも、このことでできることは何もないのです」とスミスは言っ た。
「ただ、このことを知っていて下さればよいのです」
「話してくれてどうもありがとう」と言って電話を切った。
 ジュディに話すと、彼女はすぐにも家に帰って子供たちと一緒になりたがっ た。子供たちに危険がないことを彼女に分からせるのにかなりの時間がかかって しまった。だれかに危険が迫っているとすれば、それはわたしだったが、それす らありそうにないとわたしには感じられた。しばらくの間は心配だったが、結 局、バケーションを最後まで楽しむことにした。

 後で判明したことだが、このブラック・パンサーの暗殺リストからは何も起こ らなかった。ほどなく、パンサーのメンバー多数が逮捕されたが、このことが実 際に脅威を取り除くことになったのかもしれない。しかし、わずか数分の間隔で 得た2つの情報、債券市場での賭けがドラマチックに当たったというジョン・レ ビンからの報告と、わたしが目立つ存在だったため暗殺の対象になったというF BIからのニュースは、わたしの心に残りそうな情報だった。

 ふたつの電話による会話をあわせてみると、そこには偶然の一致とは思えない 衝撃的なものがある。最初の報告は、ヘッジファンドの運用者としてのわたしの 人生を保証するものだった。わたしはマーケットに頼って生きてきた人間だが、 わたしの存在はいまや、株式以外の世界にまで広がったのだ。2つ目の報告は、 人の命が何ともろいものかということを教えてくれた。どれほど成功を収めてい ようと、またはこれから収めることになろうと、その成功は決して永遠ではあり 得ないし、人生の偶発事から逃れることもできないのだ。事実、わたしの幸運そ れ自体が不幸をもたらすことも、そう、運が良かったがゆえに不幸になることも あり得るのだ。

 この瞬間は間違いなくプロとしての目的達成の瞬間だったが、わたしは反射的 に栄光にひたろうとは思わなかった(いつものことだが)。最高の運用成績をい つも上げ続けることへの挑戦がいつもわたしの意識を支配している一方で、その 目的を達成したときでさえも(わたしの実績は、ほとんど目標達成の記録だった が)、その喜びははかなくまた限られた喜びだった。成功の果実を楽しむことで はなく、成功を追いかけていることだけに幸せを感じているかに見えた。まる で、結果ではなく、そのプロセスそのものに魅力の中心があるようだった。わた しはゲーテのファウストを思い出した。ファウストは過去の実績を楽しむことな く、いつも新しい目標に向かって前進していた。いつの日にか、マーケットで勝 利をおさめること以上に充実感をもたらしてくれる何かに巡り会えるだろうかと わたしは思っていた。



 だが近年、わたしは新しい人生の目的を発見した。これはマーケットへの情熱 を失ってしまったということではない。それどころか、わたしはいまだにリスク を追うこととギャンブルの成功から得る報酬を味わっていたのだが、そのような ものへの興味は、少なくも人生のこの段階になれば、精神的な喜びとしては大し たことではないと分かっていた。

 「挑戦」という言葉が、ゴルフのスコアをよくすること以上の意味を持たなく なった他の金持ち連中と違い、わたしにはもっと崇高なものだった。事実、やら ずにはいられないような目的への挑戦が必要だった。
 人生の目的、しかも自分には宗教的深みとさえ言える目的を得たわたしは幸せ だった。わたしは神の存在などは信じることはなく、唯一の「絶対的存在」など 意味もないことだった。わたしの民族、ユダヤ民族の次世代のためにルネッサン スを起こしていたような思いが(かつてはマーケットの魅力がそうしていたよう に)、わたしの意識を強く支配していた。その目的は「恩返しをする」というこ とではない。そのこと自体がどれほど立派なことであってもだ。この世界的に偉 大な民族の将来にいろいろなレベルで陰りが見られる今、わたしは一個人として 「なにか前向きのインパクトを与えることができるはずだ」と自分に言い聞かせ ていた。この目標はわたしにとっては実に大きな意味を持つものだった。

 この本のなかで語りたいと思う“価値あること”とは、わたしがアメリカン・ ドリームを実現したことではない。少なくも富に関して実現したことではない。 富だけのことならわたしと同様、ほかの多くの人たちも果たしているし、もっと 成功した人たちもいる。もし価値あるものがあるとすれば、それは人生の途中で 発見した新しい情熱、多少の錯覚はあるかもしれないが、金持ちをさらに金持ち にしてあげることよりはるかに重要な“あること”への情熱だ。マーケットにお いてわたしが成し遂げたことも大変価値ある。だが、わたしの真価は、個人的蓄 財やマーケットにつぎ込んだかつての情熱をもって、ある慈善事業を追求するこ とにあった。

 わたし自身、ほとんどの点でほかの人たちと変ったところはない。わたしはユ ダヤ系移民の伝統の産物だった。母は献身的にわたしに尽くしてくれた人で、父 は強烈な虚像の人という印象を生涯与えた人だった。  この地味な人生の始まりが、わたしの生涯やその展望にどんな影響を与えたか は簡単には言い尽くせない。わたしは「何とか成功したい」という抑えがたい欲 望に駆られた何千というブルックリンのユダヤ人のひとりだった。わたしの場 合、その欲望は株式市場で発揮された。これこそ、わたしを子供のときから引き つけて離すことのなかった学校だった。1995年に資産運用業務の現役から引 退したとき、わたしはウォール街でもっとも成功に満ちた記録を達成していた。 しかし、わたしの人生はこのうえなく質素な形で始まったのである。


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