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完全版 マウス――アウシュビッツを生きのびた父親の物語 解説・小野耕世

1.『マウス』の衝撃

 1986年秋、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるコミックス専門店では、新刊のマンガ単行本『マウス』(ソフトカバー版)が発売2日のうちに300冊を売り切り、店主をびっくりさせていた。

 発売元のパンテオン・ブックスは、大手出版社ランダムハウスの子会社で、文芸書の出版で知られている。コミックスの刊行はこれが初めてで、売れるかどうかおっかなびっくりだった。だが、書店からの反響のよさに、発売と同時に重版が決まり、翌年の初めまでに8万部を売った。ほどなくヨーロッパやアジアを含む各国語版が刊行され、マンガとしては珍しい国際的なべストセラーになった。

 私がアート・スピーゲルマンに初めて会ったのは1985年の春、東京でだった。彼はそのとき、池袋の西武百貨店で催されていたアメリカ展のために、妻のフランソワーズ・ムーリーとともに来日していた。私は当時、東京大学の教養学部で「アメリカの大衆文化」という講座をもち、そこで実質的にはアメリカのマンガ史を教えていた。なによりも私は、このマンガ家の作品と、彼がフランソワーズといっしょに編集・発行しているコミックス誌『RAW』を愛読していたから、会うとすぐに旧知の間がらのように親しくなった。彼もまたニューヨークにあるスクール・オブ・ヴィジュアル・アーツでアメリカのマンガ史を教えていたのである。

 ウィンザー・マッケイの『夢の国のリトル・ニモ』(PARCO出版局)やカール・バークスの「ドナルド・ダック」、チェスター・グールドの「ディック・トレイシー」など、アメリカの名作マンガについての話は尽きず、アメリカの過去の優れたマンガへの尊敬と、それをふまえたうえでなお新しいコミックスの可能性を求め、これまでになかった内容をもつ作品を描いていこうとする彼のマンガへの情熱を、私はここちよく受けとめていた。

2. 始まりはアンダーグラウンド・コミックス

 1948年2月15日、スウェーデンのストックホルム生まれのアート・スピーゲルマンは、1951年、両親とともにアメリカに渡り、やがてニューヨークに住む。サタイア・ユーモア誌『マッド』を読みふけっていたこの少年は、(『ヴィレッジ・ヴォイス』1989年6月6日号のスピーゲルマン自身の文章によれば)14歳のとき、初めて地元の週刊新聞にマンガを描き、原稿料10ドルを稼いだ。その後、アメリカの伝統のひとつである風船ガムカード(トップス・チューインガム会社製造)のマンガを描くようになる。そして70年代初めにサンフランシスコに移った彼は、当時西海岸に吹きあれていたアンダーグラウンド・コミックスの運動に加わり、『アーケイド』『ファニー・アミナル』などのコミックス誌にかかわる。それには「ミスター・ナチュラル」や「フリッツ・ザ・キャット」で知られるロバート・クラムの作品も載っていた。スピーゲルマンも、当時のほとんど世界中のカウンター・カルチュア世代のマンガ青年たちと同様、クラムの影響を受けたひとりである。

 1975年にニューヨークに帰ったスピーゲルマンは、フランソワーズ・ムーリーに出会い1977年に結婚。いっしょにただ1冊だけのつもりで刊行した「アヴァンギャルド・コミックスとグラフィックス」の雑誌『RAW』を刊行する。4500部ほど刷って1980年に出してみたら売り切れてしまう。続刊していくことになり、部数はやがて1万5000部に達した。

 『RAW』はそれまでのアンダーグラウンド・コミックスの雑誌を、質においても形においても突きぬけた、まったく新しいタイプのコミックス誌であった。超大判の上質紙にたっぷりとマンガの絵を生かしただけでなく、アメリカのみならず海外のマンガ家たちの意識的な実験作を載せるという国際誌で、さらにアメリカのコミックス黄金時代の旧作を発掘掲載する試みもした。来日時のスピーゲルマン夫妻は、日本のコミックスにもおおいに興味を示し、やがて私の仲介で、つげ義春の短編「紅い花」や、杉浦茂の書き下ろしマンガ「少年児雷也」が『RAW』第7号(1985年)に翻訳掲載されることになった。

 私が『RAW』を初めて手にしたのは、1980年8月のサンディエゴ・コミックス大会でのことで、質の高い個性的な作品が集められているのにびっくりしたものだ。この雑誌の第2号から、スピーゲルマン自身が(大判の雑誌のなかで、あえて小さなA5判サイズのとじこみ付録のような形で)連載を始めたのが「マウス」なのだった。

3. 父と息子

 『マウス』は原書の副題「A Survivor's Tale」が示すとおり、「ある生きのびた者の物語」であり、アート・スピーゲルマンの父親がポーランドでユダヤ人狩りにあい、ホロコーストの時代をどう生き抜いたかをつづったものだが、お読みになればわかるように、そこにはさまざまな表現上の工夫がなされている。

 まず第一に、作者であるマンガ家が、父親にむかしの話を聞きだすというその行為自体をマンガのなかにとりこんでいる。つまりこのコミックスは、単に父親の苦しい時代の恐るべき体験をそのままマンガにしたのではなく、現在の父親と自分とのかかわりをも同時進行で描くことにより、父の時代と戦後の自分の時代を重ねあわせるという複眼的な構成をもつことになった。それは当然のことながら、父親と自分自身の姿をも相対化させることになる。

 そして最も大きな特徴は、このマンガのなかで、ユダヤ人はネズミに、ポーランド人はブタに、ナチス(ドイツ人)はネコに、というふうに、人物をすべて動物に置き換えて(しかし彼らがドイツ人やユダヤ人であることは明白にして)描いたことであろう。だから、作者自身であるアートも、フランソワーズも父親たちも、ここではネズミの姿をしている。

 「もし登場するキャラクターを人間のままで描いたとすると、マンガが悪しき写実主義におちいるおそれがあった。登場人物は実際にいた本人に似ていなくちゃならないし、背景などもやたらに考証を正確にしなくてはならなくなる。すると細部にとらわれすぎて、物語の本質をいきいきと描けなくなる。動物のキャラクターに置き換えれば、表現は自由になるし、起こったことのメタファーとして描くことができる」

 この本が刊行された直後の1986年10月、ニューヨークのヴィレッジにある彼らの住むロフト(それが『RAW』の発行所でもある)を訪ねたとき、スピーゲルマンは私にそう語った。

 彼は1週間にわたる本の宣伝旅行のため、サンフランシスコやボストンなど、アメリカ各地をまわってきたところで、疲れきり、無精髭だらけの顔をしていた。

 「父親をはじめユダヤ人をネズミにしたのは、ひとつにはナチスによって彼らは人間あつかいされていなかったこと、殺鼠剤で駆除されるネズミのように殺されていったことを表しているのと、じっさい、ぼくの父親は、隠れ家にひそんでいたときはネズミ穴のような秘密の通路から出入りしていたこともあるからなのさ」

 そうスピーゲルマンは父親について語るが、戦争体験によってかたくなな性格になってしまった父親を等身大で描こうとする努力が、なおそこにある父親の人間味をうまくとらえ、マンガを深みのあるものにしている。そして母親については、こう語る。

 「そう、ぼくを生んだ父の最初の妻アンジャは、10年前に亡くなった。自殺だった。ただ母は戦争中の日記を残していて、ぼくに見せようとしていたんだ。ぼくがマンガを描くようになっていたから、母はぼくに昔の両親のことを描き残してほしいと思っていたことは確かだ。ところが、この『マウス』のなかにも描いたように、父は母の日記を処分してしまったんだ。そのことを知ったぼくが父のことを“ひと殺しめ”と怒る場面がある。母の日記を捨てたことは、ぼくの母を殺したのと同じことだからね。父は、ぼくがこのマンガを描いている途中で、1年ほどまえに亡くなったけれども、ぼくは母の日記のことでは、いまでも父を許していないよ」

 つまり『マウス』は、戦争を生き抜いた父親の物語であるとともに、作者と父親との闘いの物語でもあるということなのだ。父の物語を描くことを通じて、作者は自分自身を追い求め続けていたともいえよう。

4. マンガならではの力

 深刻なテーマをあつかいながら、ユーモアを感じさせる部分も少なくない。たとえば、作者の父と母が地下室に隠れている場面では、暗がりで肩を寄せあっているふたりの前を、大きなネズミが横切り、母親が悲鳴をあげる。擬人化されたネズミのふたりと、ほんもののネズミ――これはマンガ家のアート・スピーゲルマンがしかけた笑いであり、こんなふうに作者は描きながら楽しんでいることがわかる。これは『マッド』などに載ったアメリカの過去の優れたマンガへの彼の敬意の表現でもあった。

 登場人物を動物に置き換えることで作者はマンガ表現の自由を得たと述べたが、これは例えば、ユダヤ人の父が、ふつうのポーランド市民のふりをする場面ではネズミの顔の上にブタのマスクをつけて歩くという、あたかも舞台の仮面劇のような手法をも無理なくとりこみ、卓越した効果を生んでいることに注目してほしい。

 動物への置き換えという仮面の採用は、あつかう対象との適切で聡明な距離感をもちつづけることを自然にしている。そのことをはじめ、深刻な内容をステレオタイプの人間描写におちいることなく、困難の時代におけるさまざまな人間の姿(その生きかた、行動)を、彼らの生活の細部のなかからいきいきと浮きぼりにすることに成功しているのは、マンガならではの効果であり、マンガの本来もっている明るい力を、作者が自分のものにしているからである。

 第一次大戦時に、若き父が兵役を逃れるためわざと栄養失調になった話から、さっそうたるビジネスマンとして活躍した時代、作者の母との結婚前後の事情、汽車の窓から初めて鉤十字の旗を見たときのこと、隠れ家での生活と、ナチスの迫害によりその生活が崩壊していく過程は、マンガならではの細部描写に支えられ、読む者をぐいぐい物語のなかへとひきこんでしまう。

 単行本『マウス』第1巻に収められたのは『RAW』に連載した最初の6回分であり、その続きを描くためのグッケンハイム奨励金をアートは1990年に得る。同じ賞を受けた画家のアイーダ・アップルブルーグは、1990年に来日して東京で展覧会を開いたが、そのおり「私は『マウス』の本をたくさん買って、ぜひ読むように知人に配っている」と私に語ったものだ。

5.『マウス II』の刊行

 そして、1991年11月、『マウス』の完結編である『マウス II』は、いきなりハードカバーで刊行された。前編『マウス』は、ドイツ語版、ポーランド語版を含む世界17カ国語に訳され、映画化やTVドラマ化の企画も殺到したが、彼はそのすべてを断った。この予想以上の成功に、作者がいかにとまどったかは、『マウス II』の第2章に描かれている。

 『マウス』と『マウス II』は、あわせて300ページに満たない。日本のマンガを読みなれた目からは、これだけのテーマに対して、あるいは短すぎると感じられるかもしれない。実際、スピーゲルマンは『RAW』連載時の1980年より以前の1978年からこのマンガを描きだしたのだ。また、1972年には、動物マンガのスタイルに近い画風で3ページ分の、言わば「ウル=マウス」を描いている。そうした試作の後に『マウス』はスタートし、完結までに13年間かかったことになる。

 それだけに構成は緻密である。父親の過去と、それを聞きだしている現在の作者など、時間の前後する物語の織りなしかたには、周到な計算がなされている。読後感としては、1000ページかそれ以上もの作品を読み終えたほどの印象と重みがあるのではないだろうか。

6. ドイツ表現主義の画風

 スピーゲルマンは、さまざまな画風を持っている。80年代には、ドイツで刊行された一連のボリス・ヴィアン作品のペーパーバック選集の表紙・装丁画を手がけた。また、ニューヨークのトップス・チューインガム会社の顧問として20年以上も働き、チューインガム・カードのため、ゆかいで過激な「ゴミ缶キッズ」のカード絵を考案した。カードは子どもたちのあいだで爆発的な人気を呼んだが、あまりの過激さに社会問題になったほどである。トップス・チューインガム会社のクリエイティヴ・ディレクターには、マンガ家のウッディ・ゲルマンがおり、彼は貧乏時代のスピーゲルマンに、風船ガムの包みにいれるマンガの仕事を与え、長年にわたってアートを支えていたのである。その会社も、スピーゲルマンは『マウス』の成功の後、ついに辞めた。

 『マウス』では、ドイツ表現主義の画家の木版画による絵物語の感化を受け、硬いペンによるぶっきらぼうな描線をこころがけたと、作者は私に語っている。原画は、単行本の印刷画面とほぼ同じ大きさである。大きな原画を縮小したほうが、印刷はきれいになるが、作者はあえて、小さな画面に描く不自由なペン運びが、このテーマにはふさわしいと考えたのだ。感傷的な描線になることを自分に禁じたのだろう。

7. 「これはノンフィクションだ」

 刊行されるやいなや、『マウス』は各誌のベストセラー・リストに踊り出た。ただし、ニューヨーク・タイムズではフィクション部門のリストに掲載されたため「これは綿密な調査と取材によって描かれたものだ」と作者は抗議し、次週からは、ノンフィクション部門のベストセラー・リストに移されたというエピソードもある。

 実際、このマンガを完成させるために、スピーゲルマンは、アウシュヴィッツの収容所跡を二度、訪れており、父親以外にもホロコーストの生存者や、母親のアンジャと収容所でいっしょだった女性たちにもインタヴューしている。もっともその成果は、完成したマンガのなかに必ずしも含まれてはいない。構成上、惜しい材料を捨てるという、すべてのノンフィクション作家が経験する悩みを、彼も味わったのだ。

8. 生きのびなかった父と母

 『マウス II』の刊行の後も、多くの書評が新聞雑誌をにぎわしたが、この作品をもっとも詳細に論じたのは、1992年4月6日号『ザ・ニューヨーカー』誌の、イーサン・モーデンによる7ページにおよぶ評であろう。アメリカの新聞連載マンガは数々の芸術作品を生んだが、『スーパーマン』などにはじまるストーリー・テリングとしてのコミックブックの分野は、『マウス』によって初めて傑作を生み出した、と彼は述べた。さらにこの論考はこう続いている。「アウシュヴィッツはマクガフィン(口実)にすぎない。『マウス』はヴラデックをはじめとした、何百万ものナチスの犠牲者たちに何が起こったかについての物語ではないのだ。これはすなわち、紆余曲折の連続である過去を、現在から、なんとかして理解しようとする試み、不可能を可能としようとする物語なのである。かくしてこの本の中核をなす関係は、ネコとネズミのそれではなく、アートとヴラデックの関係なのである。だからこそ『マウス』は恐怖に満ちている。その残忍さゆえではなく、やさしさと罪悪感のゆえに」

 『マウス II』では冒頭に、スピーゲルマンが生まれるまえに亡くなった彼の幻の兄、リシュウの写真が示され(この物語は彼に捧げられてもいる)、物語の最後にも彼の名前が出てくる。評者モーデンは、このマンガは、父の物語であり息子の物語だが、さらに、なぜ母親のアンジャが自殺したのかを作者が理解しようとする第三の物語が含まれている、という。作者は母の死の原因がわかったとは認めていない。しかし、すべてを理解する鍵は、この本の最後で父親が思わずもらしてしまった「リシュウ」という言葉にあると断じている。

 「過去と現在の無理ともいえる融合が、この作品のすべての要素を束ねている。父と息子の関係、母の自殺、ネコとネズミ、そして歴史――すべてがひとつの名前、口からすべり出したひとことに凝縮される。この場面が語りかけているのは、ある意味では、ヴラデックとアンジャは、決してアウシュヴィッツから出られなかったということなのだ。人間性の全面否定に苦しんだ彼らにとって、過去は常に現在であり、それは鮮明で容赦なく、そして無限なのだ」

 この書評は、『マウス』がマンガによるホロコーストの解説書などではないことを明快に断じており、わが意を得た思いがする。

 父のヴラデックは1982年に亡くなり、いまアート・スピーゲルマンとフランソワーズのあいだには、ふたりの子どもがいる。長女のナジャは1987年生まれ、長男のダシールは1991年の生まれだ。親子の関係に苦しんでいたアートは、父が生きている間は、とても子どもつくる気にはならなかったという。

 だが、作者をアメリカのマンガに親しませたのもその父親であった。彼が子どもの頃、父親は本屋で『スーパーマン』などのコミックブックをいつも買ってきてくれた。アートが自分の小遣いで新刊を買ってくると、父はいつも怒ったという。「古本なら、同じ値段で2、3冊も買えるのに」。そして、作者は親元を離れ、大学にはいったとき、はじめて大人というものは、父のように夜中にうなされる者ばかりではないということを知ったのだった。

9.『マウス』『マウス II』を描き終えて

 『マウス II』刊行の翌1992年4月、アート・スピーゲルマンはピューリッツァー賞の特別賞を受賞した。ピューリッツァー賞には、毎年、新聞の優れた政治マンガ(ひとこまマンガが中心)に与えられる時事マンガ部門があるが、それとは別の、特別に讃えるべき業績があった場合にのみ与えられる賞(この特別賞は無い年のほうが多い)を彼は受けたのだ。ストーリー・マンガの作者が特別賞を受賞したのは、もちろんピューリッツァー賞の歴史始まって以来のことである。

 1991年12月から92年2月にかけてニューヨーク近代美術館(MOMA)で「アート・スピーゲルマン展」が開催された。『マウス』『マウス II』の原画のほか、家族の写真、ナチスの宣伝パンフレット類も展示され、作者が父のヴラデックにインタヴューしている会話のテープも聞けるようになっていた。この展示の内容は、1994年、ニューヨークのボイジャー社より発売されたCD-ROM 『The Complete MAUS』に収録された。『マウス』が描かれるまでの膨大な関連資料、ヴラデックの肉声などが、すべてこの1枚に収められている。なお、このCD-ROMは、その後ボイジャー・ジャパンより発売され、私が解説を書いた。

 その後スピーゲルマンは、『ニューヨーカー』誌での活躍が目だつようになる。妻のフランソワーズはこの週刊文芸誌のアート・エディターとなった。同誌は90年代に、編集長がもと『ヴァニティ・フェア』誌の女性編集者ティナ・ブラウンにかわってから、一種のアヴァンギャルド誌に一変し、売上げを伸ばした。93年9月27日号では、スピーゲルマンが絵本作家のモーリス・センダックをコネチカットの自宅に訪ねたありさまが、2ページの色彩マンガで描かれていた。「6歳になる僕の娘、ナジャは、『お父さんは何で暮らしをたてているの?』と質問されて、こう答えたんですよ。『パパはネズミを描いているんだよ』って」。お父さんの描くネズミ、かわいくって、好きよ、と彼女は父親に語ったそうだ。

 『タイム』誌の93年11月1日号は「ミッキーマウスを越えて――成長し世界化するコミックス」というカバー・ストーリーをかかげ、欧米や日本におけるコミックスの新しい動きを紹介したが、『マウス』を最初に大きくとりあげている。『マウス』はマンガというジャンルへの関心を、確実に高めたようだ。

10. 『ザ・コンプリート・マウス』の刊行

The Complete MAUS  最初の『マウス』が刊行された1986年から10周年を記念して、1996年に『マウス』『マウス 供戮鮃腓錣擦藤浦にした完全版が、パンテオンからハードカバーで刊行された。1991年の『マウス II』の刊行に合わせて『マウス』もハードカバー版になった。通常、まずハードカバー版が出て、人気とともに遅れてソフトカバー版が出されるのだが、『マウス』はその逆に、ソフトカバー版からハードカバー版に〈出世〉したのである。こうした異例事態が起きたほど、『マウス』の評価はしりあがりにたかまったことがわかるだろう。2冊をいっしょにケースにいれた版もすでに刊行されていたが、2分冊にせずに1冊にまとめた版は、これが最初であった。そして、『マウス』と『マウス II』は、それぞれイギリスのペンギン・ブックスからソフトカバーで刊行されていたが、この全1冊版も、ペンギン・ブックスから2003年にソフトカバー版が出ている。ここに刊行された“全1冊 完全版”は、このペンギン・ブックス版によっている。  ただ、完全版といっても、内容に変化があるわけではなく、最初に『マウス』を刊行したときと同様、作者による解説や序文などはいっさいない。それはアート・スピーゲルマンの一貫した方針で、世界各国で刊行されてきた海外版(日本版を含む)にも、いっさい解説をつけることを禁じてきたのであり、その姿勢は変わっていない。  思えば私が初めて『RAW』誌に連載中の「マウス」に接したとき、ホロコーストなどについて、記録映画などを見ていたとはいえ、歴史的な知識はたいしてなかったといっていい。にもかかわらず、ぐいぐいマンガとしての面白さにひきこまれていったのである。ホロコーストについて知識として詳しく知りたければ、専門書は多くあるのだから、それを読めばいい。むしろ『マウス』は、それまでのマンガになかった新しい深さとちから、その魅力によって、世界じゅうの読者をつかんでしまったといったほうがいいだろう。

11.『マウス』の影響

 『マウス』の“出現”によって触発されたマンガ家は少なくない。いまではルポルタージュ・コミックスの優れた作者として知られるアメリカのジョー・サッコはパレスチナに滞在してその現実、人びとの生きている姿を『パレスチナ』というコミックスとして完成させたが『マウス』がなかったら、とても『パレスチナ』にとりくむ勇気は出なかったろう、とサッコは語っている。『パレスチナ』の日本版は私の翻訳でいそっぷ社から刊行されており(2007年)、作者には2010年にフランスのアングレーム国際コミックス・フェスティバルで会った。またフランスのマンガ家エマニュエル・ギベールは、ノルマンディー上陸作戦に参加しフランスに住むことにしたアメリカ兵士を『アランの戦争』というコミックスに描いたが(これも小学館集英社プロダクションより野田謙介氏の訳の日本版が2011年に刊行されている)、来日したギベールも『マウス』の冒険のおかげで自分は『アランの戦争』を描けた。スピーゲルマンのおかげだ、と私に語った。この本は『パレスチナ』とともに、『マウス』以後の新しいコミックスを代表する画期的な作品と評価されている。『マウス』の成功によって「こういう内容もマンガにできるのだ。そうしていいのだ」と、新しい道を行こうとするマンガ家たちに刺激とはげましを与えたのである。

12. アート・スピーゲルマンの現在

 『ザ・コンプリート・マウス』が出たころ、アート・スピーゲルマンは『ニューヨーカー』誌の仕事をしており、2001年9月11日の同時多発テロ事件直後の同誌の表紙をまっ黒に描いて話題になった。実はまっ黒ではなく、黒色のなかに、さらに黒く、崩壊した貿易センタービルがまぼろしのように立っている姿を描き世界を驚かせたのだった。その後、アートはニューヨークに住む自分の9.11体験を、カラー大判のコミックスに描いたが、アメリカでは載せる雑誌がなく、ドイツの雑誌に連載したあと単行本化され世界的な反響を呼んだ(この日本版は『消えたタワーの影のなかで』の邦題で、私の訳で岩波書店から刊行されている)。そして彼が1992年から2000年にかけて『ニューヨーカー』誌に描いた表紙を集成した『ニューヨークからのキス』という本を2003年にドイツで刊行した。

 2008年にパンテオンから出たアート・スピーゲルマンの『ブレイクダウンズ』は、1978年、『マウス』以前に刊行された彼の自伝的カラー作品集の30年ぶりの改訂版である。まだスピーゲルマン夫妻と会う前の1979年、私はアメリカのサンディエゴ・コミックス大会に出かけた。そのときアンダーグランド・コミックスの出版社リップ・オフ・プレスの売り場をのぞくと、社長のロン・ターナーが私を見て「おい、この本を持っていけよ。すばらしい本だぜ」と言って、私にくれたのが『ブレイクダウンズ』と『ロバート・クラムのスケッチブック』だった。サンディエゴでの日本関係者によるパーティに招待状なしではいろうとして断られていたロン・ターナーを、「かまわないよ」と私がガードマンに言っていれたのを覚えていて、彼は私に親切にしてくれたのだった……。

METAMAUS

 この『ブレイクダウンズ』の改訂版は、旧版より内容がずっとふくらんでいて楽しい。『マウス』に到るまでの彼の苦闘時代の思いをこめたこの本は、まさに“若き芸術家の肖像”と言いたい。しかし『マウス』そのものに限っていえば、2011年に『マウス』刊行25周年を記念して刊行された『メタマウス』という大冊に詳しい。これは『マウス』をめぐって、ヒラリー・シュートという研究家の女性がスピーゲルマンに長いインタヴューを行ったもので、ストックホルムで生まれてまだ幼児だったスピーゲルマンの写真や、『マウス』の下描きなど図版も豊富で、最初の日本語版についても触れられている。


 アートの父ヴラデックが話す英語(イディッシュ・イングリッシュ)には、独特のくせとぎこちなさがある。翻訳では、それをある程度わかるようにこころがけた。

 なお私は、スピーゲルマン夫妻に東京で会って以来、彼の名をアメリカ人たちがそう呼ぶように、英語式に“スピーゲルマン”と発音してきた。だが(ポーランド語や)ドイツ語での発音ではシュピーゲルマンとなるので、この[完全版]刊行に際して、翻訳に手をいれたとき、戦時中の彼の父親と家族の姓は“シュピーゲルマン”と訳すことにしたことをお断りしておく。

2020年4月

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完全版 マウス――アウシュビッツを生きのびた父親の物語
完全版 マウス――アウシュビッツを生きのびた父親の物語

小野耕世(おの・こうせい)

1939年、東京生まれ。日本における海外コミックスの翻訳および研究、紹介の第一人者で、長年の活動が認められ、2006年、第10回手塚治虫文化賞特別賞受賞。2014年に第18回文化庁メディア芸術祭功労賞(マンガ部門)を受賞。おもな著書に『世界コミックスの想像力 グラフィック・ノヴェルの冒険 』(青土社)、『アメリカン・コミックス大全』(晶文社)、『長編マンガの先駆者たち―田河水泡から手塚治虫まで』(岩波書店)など。訳書にジョー・サッコ『パレスチナ』(いそっぷ社)、ウィンザー・マッケイ『リトル・ニモ 1905-1914』(小学館集英社プロダクション)などがある。


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