目次

訳者まえがき--------------------------------------------------  1
まえがき------------------------------------------------------ 11
序文---------------------------------------------------------- 17

第1部 証券分析とそのアプローチ------------------------------ 33
 第1章 証券分析の役割と本質的価値-------------------------- 35
 第2章 証券分析の数量的要因と質的要因---------------------- 53
 第3章 情報源---------------------------------------------- 71
 第4章 投資と投機------------------------------------------ 83
 第5章 証券の分類------------------------------------------ 93

第2部 確定利付き証券----------------------------------------103
 第6章 確定利付き証券の選択--------------------------------105
 第7章 確定利付き証券の選択(続)--------------------------121
 第8章 債券投資の基準--------------------------------------141
 第9章 債券投資の基準(続)--------------------------------155
 第10章 債券投資の基準(続)--------------------------------169
 第11章 債券投資の基準(完)--------------------------------181
 第12章 鉄道債と公益事業債の分析----------------------------195
 第13章 債券分析のその他の要因------------------------------213
 第14章 優先株の理論----------------------------------------223
 第15章 投資適格な優先株------------------------------------237
 第16章 収益社債と保証証券----------------------------------251
 第17章 保証証券(続)--------------------------------------263
 第18章 保護条項と証券保有者の救済策------------------------277
 第19章 保護条項(続)--------------------------------------291
 第20章 優先株の保護条項------------------------------------305
 第21章 保有証券の管理--------------------------------------319

第3部 投機的な性質を持つ上位証券----------------------------331
 第22章 割安な上位証券と特権付き証券------------------------333
 第23章 特権付き上位証券のテクニカルな特徴------------------349
 第24章 転換証券のテクニカルな特徴--------------------------365
 第25章 ワラント付き証券と参加的証券------------------------379
 第26章 投機的な上位証券------------------------------------397

第4部 普通株の投資理論--------------------------------------413
 第27章 普通株の投資----------------------------------------415
 第28章 普通株の投資基準------------------------------------439
 第29章 普通株の分析――配当--------------------------------449
 第30章 株式配当--------------------------------------------465

第5部 損益計算書の分析と普通株の評価------------------------479
 第31章 損益計算書の分析------------------------------------481
 第32章 損益計算書の特別損失--------------------------------497
 第33章 損益計算書の数字の操作------------------------------507
 第34章 減価償却費と収益力----------------------------------523
 第35章 投資家から見た減価償却費----------------------------549
 第36章 その他のさまざまな償却費----------------------------565
 第37章 過去の決算数字--------------------------------------575
 第38章 不確実な過去の業績----------------------------------591
 第39章 普通株の株価収益率----------------------------------601
 第40章 資本構成--------------------------------------------613
 第41章 低位の普通株----------------------------------------627

第6部 バランスシートの分析――資産価値の意味合い------------641
 第42章 バランスシートの分析――帳簿価格の重要性------------643
 第43章 流動資産価値の重要性--------------------------------659
 第44章 清算価値の意味合い――株主と経営陣の関係------------679
 第45章 バランスシートの分析(まとめ)----------------------699

第7部 証券分析の補足的要素――価格と価値の矛盾--------------725
 第46章 株式オプション・ワラント----------------------------727
 第47章 資金調達と経営のコスト------------------------------745
 第48章 企業財務におけるピラミッディングについて------------759
 第49章 同一業種に属する企業の比較分析----------------------771
 第50章 価格と価値の矛盾------------------------------------789
 第51章 価格と価値の矛盾(続)------------------------------809
 第52章 マーケット分析と証券分析----------------------------821

参考資料------------------------------------------------------835


 訳者まえがき

 本書は、1930年代半ばからほぼ半世紀の間に5巻出版されたグレアム/ドッドの『証券分析』シリーズの第1版である。第5版(1988年刊)まで出版されたその『証券分析』シリーズのなかで、1934年に初出版された本書が今なお投資家の間で高い人気を勝ち得ているのは、劇的な時代が証券分析の対象になっていることであろう。
 第一次世界大戦以降に大きな工業発展を遂げ、また連合国に対する経済援助などによって世界経済の頂点に立った米国。ところがこれまでの繁栄がいつまでも続くかに見えた1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。「暗黒の木曜日」として知られるこの日を境に、ダウ平均は380ドルの高値から1932年には40ドル近くまで暴落する。
 しかし、こうした株式市場のハデな値下がりの陰で実はもっと深刻な事態が進展していた。安全な投資対象と考えられ、株式市場が大暴落しても相応の値段を保っていた債券市場が1931年半ばからつるべ落としに転じたのである。株価の熱狂的な大暴騰と大暴落、世界恐慌の深刻化と相場の低迷、最後のよりどころであった債券に対する投資家の不信感が日増しに深まっていく証券市場。グレアム/ドッドの『証券分析』がこの世に出る必然性はもはや不可避であった。
 ベンジャミン・グレアム(グラハム)はコロンビア大学を主席で卒業したあと、ウォール街で資産運用の実務に就き、幾度となく株式ブームと暴落を実体験した。その経験をもとに展開されたのがこの『証券分析』の理論である。グレアムによれば、証券分析の目的は当該証券に関する重要な事実を提供し、さらにその証券の安全性や魅力について信頼できるデータを提示することである。この『証券分析』の第1版が世に出た当時、企業の正確な情報を入手するのは難しく、各企業の財務上の健全性と証券の安全性に対して投資家の間で大きな不信感が深まっていた。このため企業が発表する財務諸表を詳細に分析して、正確なデータを提供する証券アナリストへの期待感は高まる一方だった。
 一方、これまでは証券の価格を決めるのは市場の心理や需給、将来の収益トレンドなどであると考えられていたが、グレアムによれば、実際にはどの銘柄にもそれぞれの本来的な価値、いわゆる「本質的価値」があり、しかもそれは客観的なデータの分析で測定が可能である。その証券の時価がその本質的価値よりも安ければ買い、高ければ売ればよい。証券分析の理論を踏まえた「バリュー投資法」である。
 グレアム/ドッドの『証券分析』のもうひとつの大きな特徴は、「投資」と「投機」がはっきりと区別されていることである。その根底には、「投資と投機を明確に定義しなかったことが1928〜29年の熱狂的な相場とその後の暴落を招いた一因になっている」との反省がある。しかし、この2つも「投資とは成功した投機であり、投機とは失敗した投資である」とも言われるようにけっして固定的な概念ではなく、その証券の「価格」によってその実質も変化していく。つまり、ある価格では投資にも値しない証券でも、別の価格になれば素晴らしい投機的な魅力を持つ証券になるのである。本書ではこうした「投資」と「投機」をめぐるさまざまな考察をはじめ、「本質的価値」に基づく割安証券の見つけ方、その反対に一見安全そうに見えながら実際にはかなり危ない証券の見分け方――などについて数多くの事例を挙げて分析している。
 年代やデータの古さなどにはこだわらず、今なお不朽の価値を持つグレアム/ドッドの『証券分析』のアプローチを読み取ってほしい。それがさまざまな証券の本質を見抜く目を肥やすことになるからである。

 2002年8月                          関本博英


 まえがき

 本書は証券の価値というものに深い関心を持つ人たちのために書かれたもので、まったくの初心者は対象としていない。本書を理解するには、証券と財務の専門用語およびそれらの基本的概念に関する基礎知識が必要である。本書で検討する問題は、証券分析という表題に示された範囲よりもはるかに広範に及ぶ。各種証券の分析から投資適格証券を選択するときの一般的な原則や証券保有者の保護の問題にいたるまで、その分析の範囲はかなり広い。なかでも投資と投機の違い、安全な証券の選び方、上位証券や普通株の保有者の権利と利益――などの問題については特に詳細な分析を加えた。
 ただし、こうした多様な問題について検討する場合でも、その重要度に応じてページ数に差をつけた。例えば、その企業の将来の見通しといった問題はそれなりに重要ではあるが、本書で取り扱うテーマからは離れるためほとんど取り上げなかった。また、読者の皆さまが十分に知っている事柄などについても簡単に触れるにとどめた。
 一方、「割安株」の見つけ方といった問題は、証券分析の分野全体のなかではそれほど重要ではないかもしれないが特に詳しく分析した。証券アナリストにとって、そうした能力はとりわけ重要な意味を持つからである。このほか、特権付き上位証券(転換社債など)の特徴などについても詳細な分析を加えた。最近ではこの種の証券が広く普及してきたにもかかわらず、一般の投資関連の書籍ではこの種の証券について論じられているものが少ないからである。
 とはいえ、われわれの分析法はそれらの問題について説明的に論じるのではなく、批判的に検討することである。すなわち、それぞれのテーマについてその概念、分析の方法、基準そして原則を明確にして論理的な考察を加えた。その場合でも単なる論理のための論理ではなく、その実際的な価値というものを常に念頭に置いて分析を進めた。そのため、実行するのが難しすぎるような基準について長々と説明したり、その有効さより煩わしさのほうが多いような技術的な方法論などについてはできるだけ避けるようにした。
 本書では過去と最近に起こったさまざまな現実をひとつにまとめ、不確実な未来にいたるときの経緯という試練にも耐えられるような全体像を提起するように心掛けた。ただし本書を執筆している最中でも、株価暴落に伴う相場の低迷がこれからもずっと続くのではないかといった人々の懸念を追い払うのに苦労した。もっとも本書を出版するころになると、投資金を握ってウズウズしている昔からの投資家がどんどん出てくるようになった。
 しかし、1929年の株式大暴落とそれに続く1931〜33年に起こった歴史の教訓を深く肝に銘じなければならないのは、ほかならぬ保守的な投資家たちである。いわゆる「確定利付き証券」というものは、スピノザ風に言うならば「苦しみを承知で」購入するときしか安全な投資とはならないのだ。またその他の証券を購入するときでも、皮相的な人々や目先のことしか考えないような人々の言うことにはあまり耳を傾けてはならないと口を酸っぱくして投資家たちに警告してきた。ウォール街で過去20年間に起きたさまざまな出来事に対するわれわれの経験によれば、そのような人々の言うことを真に受けることはまったくの誤りであるが、相場の世界では避けられないことである。
 本書の執筆・出版を支え、さまざまな面でわれわれを励ましてくれた多くの友人たちに心よりお礼申し上げます。

 1934年5月 ニューヨーク
                  ベンジャミン・グレアム
                  デビッド・L・ドッド


 序文

 最近の出来事が意味するもの

 1927〜33年の出来事

 1927〜33年に起きた経済的な出来事は、これまで繰り返されてきた単なる景気や株価の循環とはまったく性質が違うものである。以下に掲載した1897年以降のダウ工業株30種平均(ダウ平均)の動きを見ると、最近の暴騰とその後の暴落ぶりは前代未聞の出来事だった。そのとてつもない暴騰と暴落ぶりはこれまでの株価の循環的な変動とはまったく性質が異なっており、おそらく特殊な原因によってもたらされたと考えられるため、その影響も前例のないものになるだろう。
 こうした株式市場の大変動の背後に存在する論理や法則を理解するには、まず最初に最近起こった出来事の大きな特徴を取り上げ、それらの現実がわれわれに投げかけるまったく新しい問いに真っ正面から答えていくことであろう。それらの問いを明確にするため、これから検討するテーマを次の4つの問題に絞る。
 ‥蟲
 ■瓠ズ跳瑤藩ダ莖瑤療蟷
  b.普通株の投資
 E蟷餠箙圓醗貳姪蟷餡
 ち蠑譴砲ける人間の心理的要素


 投機

 われわれはこの6年間に、それまでまったく経験しなかったような投機のある面に直面した。今回の強気と弱気の大相場は、その程度と継続期間という点で最近の歴史では前例のないものであった。しかし投機家の経験に照らして見ると、基本的にはこれまでの相場の循環とそれほど大きく異なるものではないといわれる。この時期の相場の変動がどれほど異常なように見えても、投機家の目から見れば、それは単に「その変化が大きければ大きいほど、その結末は似通ってくる」というフランスの古い諺をウォール街にも当てはめたにすぎない。大きな利益の先には大損失があるし、新しい理論が普及すればするほどそれは陳腐なものに思えてくる。また楽観が絶頂に達すれば、それはまた悲観の始まりでもあるというのも、これまた古い諺が教えるとおりである。そうであるならば、大暴落が極まったときには大きな投機のチャンスが生まれるというのも、古い諺がわれわれに教える真理であろう。しかし、投機をするときに重要であるのは、「何を」買うのかということよりも「いつ」買って「いつ」売るのかということである。さらに数学的な法則に従えば、利益を得るよりも損失を被る可能性が高いというのもこれまた投機家の宿命であろう。


 投資をめぐる新しく厄介な問題

 1927年以降の出来事は、われわれに投資という分野で新しく厄介な問題を突きつけている。そのひとつは、「投資」という名の下にやりたい放題の投機がまかり通っていることである。もっとも、それが投資を難しくしている唯一の原因であるとすれば、これまでの方法に従って投資と投機を明確に区別すればことは簡単であろう。しかし、投資と投機をめぐる本当に難しい問題は単にこの2つを定義するだけで済むものではない。問題は投資に見せかけた投機が大失敗に終わるといったことよりも、昔から安全であるといわれてきた確実な方法による投資が悲惨な失敗に終わっていることである。少なくとも投資の理論と実際という観点から見て、証券の歴史上これまでには経験もしなかったような最近の際立った特徴は、普通株平均の荒い値動きではなく、債券相場がつるべ落としに暴落したことである。保守的な投資家が1928年以降に被った大きな損失は、「満足すべき利益を安全に確保できる投資というものがはたして存在するのだろうか」という深刻な疑問を提起している。さらに投資家の間では、「投資銀行の言うことを本当に信用してもよいのだろうか」といった疑惑の念が深まっている。


 1914年以降の債券保有者の不幸

 第一次世界大戦の勃発以降、全体として債券保有者の成績はあまり芳しくなく、1928年に先立つ数年間の時期には投資家の間で、債券は株式の損失を埋め合わせる十分な防衛手段にならないのではないかといった疑問が起こってきた。
 1917〜20年には戦時財政とそれに続く戦後のインフレ、財政のひっ迫などを反映して債券相場は大幅に下落した。その後相場は上昇に転じたが、多くの個人投資家の表情はさえなかった。保有債券の多くは鉄道債であり、運輸債は一貫して下落基調をたどっていたのに対し、大きく上昇したのは一部の工業債に限られていたからである。1919〜22年には公共料金の値上げも思うに任せず、その一方で戦後の営業費用の上昇を反映して公益事業債もさえない動きを続けていた。また工業債で上昇したのはほんの一部に限られ、全体として工業債の多くも低迷を続けていた。その結果、工業債の投資家は大きなリスクを余儀なくされ、利益を上げてもその額は少なく、損失だけが膨らんでいった。
 その当然の成り行きとして、投資家の債券離れが進む一方で、普通株は債券よりも有利な投資対象ではないだろうかといった新しい考えが広がってきた(たしかに節度を持った投資であれば普通株は有効な投資対象となり得るが、そうした投資スタンスを守る投資家は極めて少なく、その結果は言うまでもなく悲惨なものになるだろう)。今日では普通株を長期の投資対象と考える人々は少なく、それに代わる債券が安全な投資対象であるというこれまでの考えを信じている人もまた少なくなったが、それは最近の債券投資家の不幸な結末を見ても明らかであろう。
 もしわれわれが1927年以降の債券相場の低迷が今後も続くと考えるならば、債券を額面近辺で買うことが安全な投資法であるとする従来からの考え方はまったく正当化されないだろう。一部の優良債券はこの時期でも大きく値を下げることはなく、またその信用格付けも大幅に引き下げられるようなことはなかったが、そうした優良債券の数は極めて少ないため、そうした銘柄を注意深く選んで投資すればほかの証券の損失を埋め合わせられると考えた抜け目のない投資家の思惑も外れてしまった。債券相場の大幅な下落をもたらしたのは投資家の債券離ればかりでなく、銀行が流動性を確保するためになりふりかまわず大量に債券を売却したこともその一因である。しかし、そうした一時的な現象や投資家の心理的な要素のほかに、債券の安全性に対して投資家の間に大きな不信感が深まっていったことは確かである。
 その結果、相場の低迷期でも優良債券は安全であるという従来からの神話は完全に崩れてしまった。十分な安全域(Margin of Safety)をとれば損失を最小限に抑えられるとするこれまでの常識はもはや通用せず、これまで不況に強いと見られていた企業でもその金融費用を賄うことさえ難しくなっている。もしもわれわれのこうした判断が主に最近の出来事に基づいているとすれば、(短期国債を除いて)限られた値上がり益しか期待できないあらゆる確定利付き証券の投資をストップしなければならないだろう。そしてもし債券や株式を購入するならば、自分のしていることが投機であることを承知し、投機的なリスクを取るのをいとわない投機家だけがその資格を持つのだろう。


 1927〜33年の異常な実験テスト

 われわれは1927〜33年の出来事が将来の投資のあり方を判断する適切な基準になるという一般的な考えを受け入れることはできない。しかし、この時期の相場の変動ぶりはあまりにも異常であり、将来にはこのような事態は二度と起きないだろうという考えにはそれなりにうなずける。つまり、この時期の出来事はかつての南海泡沫事件に酷似した経済現象であり、将来の一般的な相場の循環を示唆するものではなく、単なる異常なギャンブル的熱狂相場であったと言えなくもない。「投機」の経験に照らしても、最近の出来事はこれまでの事態とはまったく異なっており、「投資」に対する影響という点でも二度と起きないようなユニークな特徴を持つ事態であると言ってもよい。
 こうした点を踏まえ、われわれは債券投資という観点から見て、この6年間の出来事は将来の平常時ではけっして再発しないある種の異常な「実験テスト」であると考える。こうした観点に立てば、債券投資もまったく望みのない行為でもないと言えるだろう。今回の「実験テスト」から得られた教訓を債券投資に適用すれば、今後数年間にはそれなりの満足すべき成果が得られるだろう。とはいえ、そうした教訓も次の2つの安全性が保証されなければ生かされないだろう。その2つの安全性とは、 紛伴錙規模、経営陣の能力および知名度などによって裏付けられた)その企業の本来的な安全性と安定性、長期の好業績と既発証券を十分に償還できるほどの収益の安全余裕率――である。しかし、こうした基準を厳しく適用しようとすれば、安全な投資対象に値する債券は極めて限られてしまうが、債券投資から満足すべき利益を得ようとするならばそれも仕方のないことである。


 債券投資の教育

 一部の人々にとって以上の結論はあまりにも楽観的すぎると映るだろう。しかし、それが本当に楽観的かどうかは現実にそうであるというよりは、そう見えるというのが真実であろう。債券投資が長期間にわたって見た場合にはあまり儲からなくても、投資銀行はこれまでと同じように債券を販売し、投資家はそれを購入し続けるだろう。それはちょうど多くの投機が結果的には損失になることが分かっていても、多くの人々が依然として投機をやり続けるのと同じである。そして債券購入者の多くは賢明に投資を行ったつもりでも、株式への投機による大きな損失ほどではないにしても、それほど大きな利益は手にしていない。こうした現実を踏まえると、一部の投資家は最終的にはこれまでと同じように損失を避けることができないという悲観的な結論になるため、一般投資家に対しては安全かつ慎重に債券を選択するための教育が強く求められる。
 ところでこの序文を執筆中に、優良債券の保有者は新しい重大なリスクに直面することになった。それはインフレの高進とそれに伴う通貨の下落が債券の元利価値を目減りさせていることである。しかし、こうしたリスクがどれほど重大であろうとも、こうした問題は基本的には一時的な性質のものである。その影響は投資対象としての債券の価値ではなく、通貨そのものの価値に関係しているため、その適正な水準がどこであろうとも、通貨の価値がそこに収まればこの問題は解消する。例えば、ドイツのインフレは戦前に発行された国内債券を台無しにしたが、その債券投資の論理の価値を永久に破壊したわけではない。またフランスでもフランの価値は80%も下がったが、通貨の価値が安定すると債券投資がまた始まるなど、安全な債券を選択する方法と原則は通貨切り下げ以前と何ら変わりはなかった。通貨の価値が下がっているときにはおカネよりも有形資産を持つほうが有利であるのは確かだが、通貨の価値が再び安定すればそうしたカネ離れはすぐに解消する。こうした現象は優良債券についてもまったく同じである。


 普通株の投資の問題点

 債券投資に比べて、普通株の投資には依然として多くの問題がつきまとう。長期の投資対象として普通株は最も有利であるという考えは次第に影を潜めたが、投資分野の権威であるローレンス・チェンバレンにいたっては、「すべての株式はその性質からいって本質的に投機的である」とまで断言している(ローレンス・チェンバレンとウィリアム・W・ヘイの共著『投資と投機』(1931年、ニューヨーク)。そこでは、「普通株は長期の投資対象としては債券より劣る。基本的に普通株の購入は投資ではなく投機である」と断言している)。彼の論理によれば、近年における唯一の安全な投資対象は債券であるということになる。この問題については、その著書『投資と投機』なかで詳細に論じられている。
 しかしここでは、最近の出来事のなかで顕著になったやや狭い範囲の問題について検討してみよう。これについてわれわれは、「普通株の熱狂」は安全な投資原則が著しく歪められた典型的なケースであるというこれまでの主張をもう一度繰り返したい。普通株の歴史はわれわれに普通株の性質というよりは、人間の性質について多くのことを教えている。新しい神話が生まれるずっと以前には、投機と厳密に区別される投資対象としての普通株の選択の原則が存在していた。たしかに株式が投資適格となるには債券と同じようにその安全性と安定性を保証する厳しい基準をクリアしなければならなかった。こうした厳しい基準を満たした普通株だけが投資適格の対象となり、債券にはない元本の値上がりの楽しみがあったのである。


 揺らぐ普通株の投資の信仰

 われわれの目から見ると、1928〜33年の普通株の熱狂とその後の暴落ぶりは債券のそれよりも壊滅的ではない。もちろん、安全であると見られていた会社の株式も予想外の収益の落ち込みの影響を受けたのは確かであり、「安全な債券」と「安全な株式」を比べた場合、株式のほうが景気の悪影響をまともに受けるのは事実である。
 しかし、昔ながらの普通株の投資基準に従えば、相場の上昇期の早い時期に保有株式を売却して利益を確保し、それ以降は再びチャンスの時期が来るまで投資を控えるというのが常道である。そのチャンスの時期を現在に当てはめれば、企業の収益やその他の要因を考慮して、株価が再び魅力的な水準になった1929年以降である(もっとも、出動時期が早すぎて評価損や確定損を出すリスクもあるが……)。その実際の結果がどうであれ、普通株の投資家が昔ながらの保守的な基準に従って出動すれば、リスクと同じ程度の利益を得るチャンスがあり、こうしたメリットは債券購入者では味わえないことも事実である。しかし、こうした投資原則の大きな欠陥は1928〜29年のような投機熱がまん延した時期をチャンスと読み誤ることである。とはいっても、株価がこれまでの狭い範囲の動きから上放れるならば、慎重な分析に基づいて普通株に分散投資する保守的な投資家は満足すべき利益を手にすることができるだろう。


 投資銀行のモラルの崩壊

 もうひとつの問題は、投資銀行の立場と投資銀行に対する一般投資家の態度である。つい最近まで大手投資銀行は、顧客の利益を守りながら自分も利益を上げるというやや矛盾する難しい役割をなんとかこなしてきた。投資銀行の名声と存続は販売する商品の安全性にかかっているため、投資家は顧客としてもまたその倫理にも守られてきた。投資銀行は顧客といわば信託・受託の関係を結んでいると考えられてきたし、自らもそう信じていた。しかし1928〜29年にいたって、名声のある投資銀行が営々と築いてきたこうした安全性の実績は全面的に崩壊したのである。発行される証券の多くは劣悪なものであり、しかも一般投資家に対する情報の開示方法にはさまざまな問題があった。こうした投資銀行のモラルの崩壊で一般投資家にはリスクの大きいいかがわしい証券が大量に販売された結果、それらの投資家が被った損失は巨額なものとなった。


 モラル崩壊の原因

 こうした投資銀行のモラルの崩壊には2つの原因があった。そのひとつはどんな証券でも売れるという安易さであり、もうひとつは安全な投資対象となる証券が絶対的に不足していたことである。投資適格な証券の不足は、企業の間で普通株発行による資金調達がブームになったことがその大きな原因である。その結果、強力な企業は債券の新規発行をストップしただけでなく、大量の既発債の償還にも乗り出した(こうしたケースについては参考資料の注1を参照)。従来の厳しい投資適格の基準を満たす新発債が急速に減少する一方で、有利な投資対象を求める資金は記録的な水準に達していたのである。これまでは投資銀行が債券を販売するときに、優良な債券または劣悪な債券のいずれかの選択を迫られた場合、自らの引受手数料を犠牲にしても優良な債券を顧客に勧めたものであった。ところが現在の投資銀行のやり方は劣悪な債券を売るのか、それとも何も売らないのか(換言すれば、大きな利益を得るのか、それとも店じまいするのか)であり、このような状況の下では投資銀行に顧客の利益を守るというこれまでの高いモラルを期待するのは無理というものであろう。


 失った信頼の回復

 こうした状況から、投資銀行はその役割と販売方法の両面で投資家から失った信頼をどのように回復するのかといった難しい課題を抱えている。このため投資銀行は新しい証券を顧客に販売することに極めて慎重になっているが、その背景には現在の債券市場では高格付けの債券が極めて少なく、さらに1933年に制定された証券法が新たな義務を課してきたという事情もある。しかしこれまでの経験によれば、投資銀行に対する一般投資家のこのような批判的な態度がこのままずっと続くことはないだろう。この次の上昇相場までに豊富な投資資金が集まれば、これまでにもそうだったように、一般投資家は投資銀行が彼らに犯した罪を許すかまたは忘れてしまうものだ。このため将来における一般投資家の保護は、彼ら自身が投資銀行の不正行為を見抜くというよりは、投資銀行が一度犯した間違いを繰り返すことなく、失った信頼を徐々に回復すべく顧客に対して節度ある態度を続けることによってしか実現しないだろう。


 求められる投資原則の確かな知識

 しかし、投資銀行が健全な販売政策を推進するときに直面する大きな障害は、過去15年の経験から得られた厳しい基準を満たすような新発債が極めて不足していることである。このためもし債券に対する一般投資家の人気が急速に高まれば、そのニーズを十分に満たす優良な債券を確保するのが難しくなり、その結果劣悪な債券の発行が増えて再び損失を被る投資家が後を絶たないという状況が再現しかねない。こうした点を踏まえると、一般の債券投資家のみならず、彼らに助言を与える専門家にとっても、投資原則の確かな知識がこれまでにもまして求められる。
 もっとも、1933年証券法が制定されたことによって、そうした知識や専門家の助言の必要性も幾分は弱まったと言えるかもしれない。証券法では新規証券の発行に際して投資家に対する詳細な情報の提供を義務づけるとともに、虚偽の記述や情報不足で投資家が損失を被った場合には投資銀行や発行会社の取締役も責任を取るよう定めている。とはいえ、こうした規定の目的は証券の安全性を保証するというよりは、投資家にありのままの事実を提供することにある(「この証券法の目的は、証券発行時に投資家に対して当該証券に関する真実を伝えることにあり、それが順守されない場合には罰則が適用される。しかし、この義務さえ順守すれば、あとはすべて投資家の責任である」――ウィリアム・ダグラスとG・E・ベーツの共著『1933年連邦証券法』[エール大学、1933年12月])。そのことは同証券法が制定されたあとでも多くの投機的な株式が発行されているという事実を見てもよく分かる。


 人間の心理的要素

 過去5年間の出来事から分かったことは、証券市場でも人間の純粋な心理的要素が大きく支配しているということである。かつての強気相場では、株価上昇の多くは景気循環における企業の業績回復と密接に結びついており、株価が投機的な楽観のなかで異常な高値をつけてもその絶頂期は短命に終わるのが常だった。しかし1921〜33年の株式循環期では、その「絶頂期」は数カ月どころか数年にもわたって続き、しかもその相場を支えたのは一握りの投機家ではなく証券にかかわるすべての人々だった。「よい株」(または「優良株」)はいくら高値をつけても安全な投資対象であるという新しい神話が、「投資」という名の下にすべての人々をギャンブル的な熱狂へと駆り立てていった。こうした心理的な現象は、のれん、経営陣の能力、予想収益力などといった無形資産の価値がこのところかなり重視されていることとけっして無関係ではない。そうした無形資産の価値は紛れもなく現実に存在しているが、数字では表せない性質のものである。それらの測定基準はかなり恣意的であり、人間の心理状態で大きく変化する。そのため、投資家の多くはこうした無形資産の投機的な評価額で現実の株価を測り、元本の価値はインカムゲインによって決まるという昔からの厳しい基準を適用することの大切さを忘れてしまったのである。


 連動しない証券の価値と価格

 このほか、ウォール街の最近の経験からわれわれが学んだもののなかには、以前よりも注目しなければならない人間の性質におけるいくつかの要素がある。それはある証券の価格は、その本来的な価値に対する直接的な反応やその価格と価値の関係をそのまま反映したものではなく、売り手と買い手のさまざまな感情や心理を映したものだということである。さらに、投資家のメンタルな態度が市場の価格に大きな影響を及ぼすばかりでなく、市場からも強い影響を受けていることをよく知らなければならない。投資において重要なことは、満足すべき市場価格がずっと維持されていることである。また投資対象となる証券を選ぶときには、たとえインカムゲインだけを目的とする場合でも、そうした市場価格の条件に加えてその証券の「本質的価値」(Intrinsic Value)についても十分に考慮する必要がある(生命保険会社や貯蓄銀行などの大手機関投資家は、個人投資家ほど投資対象証券の価格水準にはあまり注意を払わなかった。しかし、1931〜32年の株価低迷期を境に以前よりも相場水準に目を向けるようになった)。


 投機は投資の代替とはならない

 安全な投資法が大きくぐらつけば、「うまい投機はへたな投資より明らかに優れている」という論理に従って、投資家の目が投機のほうに向くのは当然であろう。しかしそうはいっても、やはり投機というのは成功するのが極めて難しいという現実に変わりはない。人間の心理というものは相場が最高値にあるときに最も強気になり、どん底にあるときに最も弱気になるからである。このようにすべての物事と同様に、成功し続けるのは一握りの並外れた投機家だけであり、ほかの多くの人々が損をしているときに自分だけが利益を手にするというのはどう見ても現実的ではない。こうした理由から、投機に関する訓練がどれほど賢明に行われようとも、一般投資家にはあまり利益をもたらさないだろう。市場の不可解な動きのなかでは、最初は小さな成功を収めるかもしれないが、最終的には悲惨な失敗に終わるのが常である。
 このように投資が満足するような成果を上げず、また投機も危険だとすれば、投資家としては何を頼りにすればよいのだろうか。おそらく債券や株式を問わず、重要な事実を慎重に分析することで適切に正当化される水準よりもかなり安く売られている割安な証券、すなわち過小評価されている証券を探すことに目が向くだろう。たしかにこの分野には多くのチャンスがあるが、割安な証券探しにもそれなりの落とし穴は付きものであり、とりわけ近年では多くの投資家がその落とし穴に泣かされてきた。しかし、平時の状況下では平均的に満足すべき成果が得られるばかりか、とりわけ重要なことはこうしたやり方が基本的には慎重な投資に向けて投機の誘惑から投資家を守る貴重な防衛策になるということである。


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