訳者まえがき 序文 まえがき 謝辞 第一部 最高経営責任者ウォーレン・バフェット 第一章 はじめに――ウォーレン・バフェットと傘下のCEOたち 第二章 バフェットのCEO選び 第二部 バークシャーの資金の源泉――保険業 第三章 管理部門の責任者――トニー・ナイスリー(保険のGEICO) 第四章 資本配分部門のバックアップ役――ルー・シンプソン(保険のGEICO) 第五章 災害部門の管理者――アジート・ジャイン(バークシャー・ハサウェイ再保険事業部) 第三部 バークシャー傘下の創業者たち 第六章 天賦の才――ローズ・ブラムキン(ネブラスカ・ファニチャー・マート) 第七章 先見の明――アル・ユールチー(フライトセーフティー・インターナショナル) 第八章 革新者――リッチ・サントゥーリ(エグゼクティブ・ジェット) 第四部 バークシャー傘下のCEO一族――子どもと孫の代 第九章 バフェットの弟子――ドン・グラハム(ワシントン・ポスト) 第一〇章 三代目の家族継承者――アービン・ブラムキン(ネブラスカ・ファニチャー・マート) 第一一章 復帰した経営者――フランク・ルーニー(H・H・ブラウン・シュー) 第一二章 主義を貫く経営者――ビル・チャイルド(R・C・ウィリー・ホーム・ファーニシングス) 第一三章 生涯のパートナー――メルビン・ウォルフ(スター・ファニチャー) 第一四章 ショッピングのエンターテイナー――エリオット&バリー・テートルマン(ジョーダンズ・ファニチャー) 第五部 バークシャー傘下のCEO継承者――専門経営者たち 第一五章 再建屋――スタン・リプシー(バファロー・ニューズ) 第一六章 忠臣――チャック・ハギンズ(シーズ・キャンディーズ) 第一七章 経営のプロ――ラルフ・シャイ(スコット・フェッツァー・カンパニーズ) 第一八章 白羽の矢――スーザン・ジャックス(ボーシャイムズ・ファイン・ジュエリー) 第一九章 小売業者のかがみ――ジェフ・コメント(ヘルツバーグ・ダイヤモンド) 第二〇章 新顔――ランディー・ワトソン(ジャスティン・ブランズ)&ハロルド・メルトン(アクメ・ビルディング・ブランズ) 第六部 結論 第二一章 バフェット傘下のCEO――比較対照編 第二二章 バフェット傘下のCEO――評価と報酬 第二三章 バフェット傘下のCEO――ビジネスチャンス 第二四章 バフェット後のバークシャー 付録一 インタビューリスト 付録二 バークシャー・ファミリー一覧 付録三 バークシャー・ファミリーの米国標準産業分類コード 付録四 バークシャー・ファミリー年表 付録五 バフェット関連書籍 注記(出典一覧)
二〇〇三年九月
木村規子
米下院議員(共和党・ネブラスカ州選出)
元ネブラスカ大学フットボール部ヘッドコーチ(一九七三~一九九七年)
トム・オズボーン
二〇〇一年九月 フロリダ州タンパにて
ロバート・P・マイルズ
一九九八年八月一一日火曜日、ローズ・ブラムキン(一〇四歳)は、故イザドーの未亡人として、ルイ、フランシス、シンシア、シルビアの母として、一二人の孫、二一人のひ孫のいるおばあちゃんとして、そしてネブラスカ・ファニチャー・マート(NFM)の創業者としてオマハのゴールデン・ヒル共同墓地に埋葬された。(2)家族、友人、隣人から非常に尊敬されていたこともあり、葬儀に参列した人の数は一〇〇〇人を超えた。(3)しかし、このころすでに孫のアーブとロンによって経営されていたオマハの店は、その日も休まず営業している。「店を閉めることなど母は望まないと思いますから」と、娘のフランシス・バットがオマハ・ワールド・ヘラルド紙の記者に対して答えている。(4)
一九三七年、ローズ・ブラムキンが四四歳のとき、兄弟から五〇〇ドル借りて創業したネブラスカ・ファニチャー・マートは、(5)彼女の忍耐力のおかげで、今やネブラスカ州オマハの中心部に七七エーカー(約九万四〇〇〇坪)の事業用地を所有し、一五〇〇人の従業員を抱え、家具・カーペット類・家電製品・電子機器等の年間売上高は三億六五〇〇万ドルに上る。利幅を業界平均より一〇ポイント下に抑えることで、市場を完全に支配し、家具の売り上げではオマハで約四分の三のシェアを獲得している。しかも、数量ベースでは全米最大の家具小売業者となっているのである。(6)NFMの六〇年間の歴史を通して売上高は常に増加傾向をたどり、毎年記録を更新している。従業員一人当たりの売上高は他の国内小売業者よりも四〇%多く、純利益率はほぼ二倍。年間売上高にいたっては、平均的なウォルマートの店舗の八倍以上もある。特に何がすごいかというと、一平方フィート(約〇・〇九平方メートル)当たりの売上高は八六五ドルで、これはホールセールクラブ(会員制倉庫型安売り店)最大手でディスカウント業界首位のコストコよりも一〇〇ドルも多いのである。帝政ロシア時代、まだつつましかったミセスBの駆け出しのころからは、とても想像できないことだ。
一八九三年一二月三日、ローズ・ゴーリックはロシア帝国(現ベラルーシ共和国)のミンスク市に近いユダヤ人村シドリンで生まれた。父ソロモンと母チャシアの間に生まれた八人の子どものうちの一人だった。家は二部屋しかない掘っ立て小屋で、わら製のマットの上で寝ていた。当時のユダヤ人居留地ではよくあることだが、父は研究に明け暮れ、母は家計を支えるために食料品店を営んでいた。ローズは正式な教育を一度も受けたことがない。グラマースクール(小学校)にさえ行ったことがなかった。(7)わずか六歳のころから店の手伝いをしていたと、のちに回想している。(8)あるとき、「夜中に目を覚ましたら、母がパンをこねていた」のを覚えているという。「で、そのとき、こう言ったのさ。『ママがこんなに一生懸命がんばってるなんて、なんか悲しいよ。あたしが大きくなるまで、待ってて。あたしがお仕事見つけてアメリカに行く。そしたら、ママをアメリカに呼んであげる。(9)大きな町に行ったら、きっとお仕事見つかると思うの。ママをお姫様にしてあげるね』って」(10)
一三歳になるころには、もう村を離れる覚悟を決めていたという。靴底を減らさないように靴を肩に背負い、最寄りの駅まで約三〇キロの道のりをはだしで歩いた。汽車に乗り、仕事を求めて訪ねた店は二五軒。そしてついに仕事をくれる店を見つけた。衣料品店だった。それから三年もたたないうちに、店をやりくりするようになり、男性従業員六人を従えるようになった。(11)
一九一三年、二〇歳のとき、靴の販売をしていたイザドー・ブラムキンと結婚。しかし翌年、第一次世界大戦が勃発。皇帝のために戦う気のなかったイザドーは兵役を免れるためにロシアを離れた。(12)それから三年後の一九一七年、ローズは夫のあとを追ってアメリカに行こうと決意し、シベリア鉄道に乗った。シベリアまで来た彼女は、ロシアと中国の国境付近で兵士に呼び止められた。(13)兵士には「軍のために革製品の買い付けに行くところだ」と答え、「帰りにウォッカの大瓶を買ってきてあげるから」と言ったら通してくれたそうだ。(14)
船で太平洋を渡り、ワシントン州シアトルに着いた。英語も分からず、入国ビザも所持していなかったが、幸い、ユダヤ人移民援助協会とアメリカ赤十字の計らいで、移民帰化局(INS)のお役所手続きをパスし、アイオア州フォートドッジで夫と合流することができた。(15)彼女は亡くなるその日まで、この町の名を「フォートドッチビー」と発音している。(16)おそらくロシアを離れたおかげだろう。彼女はここで命拾いすることになる。生まれ故郷の村ではユダヤ人二〇〇〇人のうち「一九〇〇人が新年祭の当日、ヒトラーに殺された」そうだ。彼女いわく、「村人たちは自分たちの墓を掘らされた揚げ句、[ナチスに]灯油をかけられて葬られたのさ。あいつらに皆殺しにされたんだ。村中の人たちが」(17)
英語が話せなかったため、フォートドッジでのブラムキン一家の生活は困難を極めた。ある日、ミセス・ブラムキンは近所の人と話をしようとした。「父が亡くなったの」と言う隣人に対して、言葉の分からなかった彼女は、「それは結構なことで」と満面の笑みで答えてしまったという。あとでその意味を知ったとき、かなりうろたえたそうだ。それから何年もたってから、彼女は記者にこう話している。「英語が話せなかった。あたしは口の利けない人と同じ。だから、コミュニケーションをとるには、どこかもっと大きな町に行かなくちゃ、って思った」。(18)その「どこかもっと大きな町」がオマハだった。ここにはイディッシュ語とロシア語の両方を話すユダヤ系移民の小さなコミュニティーがあった。(19)
一九一九年、オマハに落ち着いたイザドーとローズ・ブラムキンは古着屋を開店。商売は上々だった。(20)実際、四年もたたないうちに、子どものころに母にした約束を果たすことができたくらいだ。「母と父と七人の子どもたちをこちらに呼び寄せた」そうだ。「その子たちを学校に行かせた。家が大きかったから、みんなでいっしょに暮らした。で、結婚したら、仕事に就かせた。母はもうアメリカのお姫様だった」(21)
両親と兄弟姉妹の世話に加え、ミセス・ブラムキンにも自分の子どもが四人いた。しかし一九二九年、株式相場が暴落。世界大恐慌となり、ミセス・ブラムキンは家族全員を食べさせるために、夫の仕事を手伝うようになった。夫を促して値下げを断行。品ぞろえを豊富にするように後押しした。斬新な宣伝方法もいくつか考えた。(22)その一つは、オマハの他の衣料品店の価格をチェックしたあとに思いついたものだ。だれもが財布のひもをきつく締めていた。なら、どんな人でも頭のてっぺんからつま先まで五ドルで身支度が整うようにすれば、商売は絶対に上向くはずだと確信したのである。「五ドルで売ります」と銘打ったビラを一万枚刷った。ビラを配ったその翌日、古着の売り上げは八〇〇ドルに達した。(23)
とはいえ、彼女が家族のために一番努力したことは、一九三七年に兄弟から五〇〇ドル借りて、夫の古着屋から通りを渡ったところにあった質屋の地下室に家具屋を開いたことだ。(24)店の商品を仕入れるため、当時アメリカでは家具問屋の中心地だったシカゴまで出向いた。彼女はメーカーにこう言った。「オマハから来ました。店を立ち上げたばかりなんです。お金は今持っていません。でも信用してください。必ずお支払いしますから」。(25)「あんたと話をしていたら、あんたの言うことなら何でも信用できそうだ」。(26)メーカーからこう言われ、一万二〇〇〇ドル相当の家具を買い付けてオマハに戻った。と同時に、自分の店の名を決めて帰ってきた。シカゴのアメリカン・ファニチャー・マート(=一九二六年竣工の高さ一四四メートル、二九階建てのアールデコ風摩天楼)を目の前にして、ひらめいた名前は「ネブラスカ・ファニチャー・マート」。店の売り場の大きさは、幅約九メートル、奥行き約三〇・五メートルしかなかったが、そんな店にこの名をつけたのである。
店がオープンしたのは一九三七年二月七日。彼女が語っているように、「広告を一回打ったら、すぐに客が来た」。(27)家具を卸値の五%上で仕入れ、一〇%上乗せして売った。彼女が生涯にわたって貫き通す一つの基本ルール「安く売り、正直であれ」はこうして生まれたのである。(28)ミセスBは、かの有名な全国展開のチェーン店よりもずっと前からディスカウント小売業者の先駆けとなっていたのだ。しかし時代が時代だったため、資金難に陥ることになった。店を始めてまもなく、取引先に代金を支払うため、家にある家具や電化製品を売り払わなくてはいけなくなったのである。(29)
ミセスBの娘フランシス・バットが当時をこう振り返っている。「学校から帰ってみると、家のなかは空っぽになっていました。私たちはみな、子どもたち四人は泣きに泣きました。そのとき、母からこう言われたんです。『心配いらないから、心配しないで。そのうちもっといいベッドを買ってあげるから。台所のテーブルも新しいのを買うわ。でもね、この人にお金を返さないといけないの。これはどうしても大事なことなのよ』って。そう言われて、やっと私たちは落ち着きを取り戻しました。そして、もうお分かりだと思いますが、私たちも納得しました。母は一度口にした約束は絶対に守る人でしたから」(30)
当然のことながら、ミセス・ブラムキンのライバル店にしてみれば、自分たちよりも安い値段で売られたら面白くない。安売りをやめさせようと、家具メーカーやカーペットメーカーに圧力をかけ、彼女に商品を渡さないように働きかけたのである。(31)彼女はこう回想する。「一九四二年になるまで、あたしにはだれも何も売ってくれなかった。売れ筋商品もあったのに、それを買うだけのお金もなかった。銀行も全然お金を貸してくれなかった。でも、あたしも結構利口だったから、銀行員の裏をかいてやったのさ。メーカーたちときたら、まったく何も売ってくれない。だから、よその町へ行くことにしたんだ」。(32)「よその町」にはシカゴ、カンザスシティー、ミズーリ、ニューヨークなどが含まれていた。遠くまで買い付けにいくため、コストがさらにかさんだが、それでもライバル店より安く販売することは可能だった。(33)
一九五〇年、朝鮮戦争が始まり、アメリカ経済は大打撃を受け、家具の売り上げも低迷することになった。しかしミセス・ブラムキンは、例によって問題を克服する方法を見いだしている。「シカゴのマーシャル・フィールド百貨店に行って、アパート用のカーペットを三〇〇〇ヤード(約二七四三メートル)ほしいって店員に言ったのさ。実際、アパートを一つ持ってたからね。それで、マーシャル・フィールドでカーペットを一ヤード三ドルで買って、三・九五ドルで売った。そしたら、モホーク族出身の弁護士が三人やって来て、裁判所に連れて行かれた。不当な商売をしてるって訴えられたのさ。彼らはこのカーペットを七・九五ドルで売ってたんだ。三人の弁護士とあたし。あたしは自分なりの英語で、裁判官のところに行って、こう言った。『裁判官、あたしは何でもコストの一〇%上で売ることにしてるんだ。それのどこが悪いのさ? 客から何も盗んじゃいないよ』って。で、訴えは棄却。翌日、その裁判官が店にやって来て、一四〇〇ドル分買い物をしてくれた」(34)
ネブラスカ・ファニチャー・マートの転機も同じく一九五〇年に訪れた。店には未払いの家具が山ほどあったが、手元のキャッシュは不足していた。「お勘定が払えなくて」と、のちに語っているが、「死ぬほど心配した」そうだ。七月のある日、地銀の副頭取ウェード・マーチンと話をしているとき、ミセス・ブラムキンは資金繰りの問題を打ち明けた。「店には家具があふれてるんだけど、これじゃ食べられないし。物事が何にも進ない。どうしたらいいのか分からなくて」
すると、意外なことに、マーチンは未払いの商品を担保に五万ドル貸してくれるという。期限は九〇日。家具が売れれば、すぐにでも銀行に返済できる。申し出を受け入れ、融資契約にサインしたものの、その日は眠れなかった。「もう胸がドキドキして。万一返済できなかったら、どうしようかって」。しかし、ここでもまた彼女は活路を見いだしている。市の公会堂を借り切って、そこに家具を詰め込み、オマハ・ワールド・ヘラルド紙に広告を打った。三日間の売り上げは二五万ドル。おかげでこれまで抱えていた借金も五万ドルのローンも返済できた。以来、彼女は二度と金を借りることはなかった。(35)
一九五〇年、ローズが四〇年近く連れ添った夫イザドー・ブラムキンが他界。一九四八年から店に出ていた一人息子のルイが経営を引き継いだが、親譲りの才覚であっという間に全国的に認められる小売業者となった。息子に経営権を引き渡したミセスBは、自分だけの縄張りとしてカーペット部門を担当することにした。ファニチャー・マートは無借金経営で賃貸料も利払いも不要。常に諸経費を低く抑えることができるため、依然として他社より二〇%から三〇%安く家具を販売することが可能だった。(36)おかげで、その後三〇年にわたり店は成長し続けることになる。一九七五年に竜巻に襲われ、店がほぼ全壊し、何百万ドルもの損害を被ったときも、なんとか乗り切ることができた。(37)
この二〇年間、小売業界のトレンドのはるか先を行っていたミセスBは、顧客に対して永久不変の価値を提供してきたが、こうした価値の提供こそ、ディスカウント量販店やホールセールクラブの成長を促す一因となったものだ。彼女は革新的パイオニアとしてウォルマートのサム・ウォルトンに匹敵する女性だったが、そのコンセプトを全米中や世界中に広めるだけの能力はなかったし、そうしようとも思わなかった。顧客を満足させるために、厳選した商品と素晴らしい価値を提供することだけで頭の中がいっぱいだったのである。スリム化された経営陣は他の大手小売業者よりも多くの時間を売り場で過ごし、顧客と直接、顔を合わせるようにしていた。結局、成功の決め手となったのは、売り場でどれだけ時間を過ごしたか、ということだった。ミセスBの場合、ほぼ一〇〇%売り場に出ていた。「顧客との親密度では、大手のどんな小売業者にも負けないくらいだった」と、孫のアーブ・ブラムキンは言う。ミセスBは、顧客にとってためにならないことには一切お金を使わないことで有名だった。支出にはことごとくチェックの目が光る。バイヤーを一人も雇わず、買い付けはすべてミセスBと息子のルイが担当した。こうして経費を削減していることがさらなる安売りにつながるのである。
一九八三年のある日、ウォーレン・バフェットがネブラスカ・ファニチャー・マートにふらりとやってきた。当時、店の総売り上げは八八六〇万ドル。一平方フィート(約〇・〇九平方メートル)当たりの売上高はなんと四四三ドルもあった。バフェットはミセス・ブラムキンに店を買いたいと申し出た。のちに彼女は記者にこう話している。「子どもたちから支配されることにいいかげん嫌気が差してた。で、考えたのさ。あたしが店を売ってしまえば、この男がボスになるんだって。彼はあたしの邪魔を一切しない人だったからね」。(38)そして、バフェットによれば、帳簿や棚卸資産のチェックもせずに、彼女はただこう言ったそうだ。(39)「全部ちゃんと払ってよ。銀行にはいくらキャッシュがあるのかい?」と。「そして私と握手したんです」とバフェットは言う。(40)このときの握手について、のちにバフェットはこう語っている。「アメリカの八大公認会計事務所なんかより、よっぽど彼女のほうが信用できます。イギリスの中央銀行と取引しているようなものですから」。(41)その後、バフェットはミセスBの息子ルイにこう漏らしている。「お母さんの怪しげな英語がときどき理解できなくて困る」と。ルイはこう答えた。「心配いりませんよ。母はあなたの言うことなら何でも理解していますから」
その後、ミセス・ブラムキンの話では、店の価値は一億ドルあったそうだが、(42)彼女はバフェットに対して自社株の九〇%を六〇〇〇万ドルで売却することに同意している(ただし、その後、ブラムキンの一族がオプション〔株式購入権〕を行使して自社株を一〇%買い戻しているため、最終的にバークシャーが得た株式は八〇%分の五五〇〇万ドル相当となった)。(43)
いよいよ正式契約に署名する日が来た。しかし英語の読み書きを学んだことのないミセス・ブラムキンは、書類に自分なりの印を付けただけで済ませた。(44)バフェットから小切手を手渡された彼女は、それをあらためもせずに折りたたみ、ひとことこう言った。「ミスター・バフェット、あたしたちの手でライバルたちを肉ひき器にかけてつぶしてしまいましょうね」。(45)こんな具合に簡単かつ迅速に事が運び、NFMの買収に絡む法的手続きや会計処理にかかった費用は締めて一四〇〇ドル。(46)こうして、この買収劇は普通に家を購入するよりも手早く安上がりに済んだのだった。
しかし、なぜミセスBは店を売却したのだろうか。おそらく、全部とは言わないまでも、家業を手放す人たちの理由はたいてい同じではないかと思う。つまり、遺産税の問題を軽減すると同時に、家族や経営陣、従業員や顧客のために事業の存続を確実にするためだ。バフェットによれば、ミセスBは四人の子どもたちにそれぞれ自社株を二〇%ずつ持たせ、自身が残りの二〇%を保有していたという。しかし八九歳になったとき、今、店を売れば、家族にお金を分けてあげられると思ったようだ。(47)こうして売却した結果、その目的を達成したばかりか、十分な資本を有し買収によって事業を拡大していた無干渉主義のパートナーを得たうえ、家族のために自社株の二〇%をなんとか確保することもできたのである。
バフェットは一九八三年度の『株主の皆様へ』のなかで、ネブラスカ・ファニチャー・マートを買収した理由を次のように説明している。「企業の価値評価をするうえで必ず自問することが一つあります。それは、弊社に十分な資本と有能な人材が備わっていると仮定したうえで、その企業とどのくらい競争したいと思うか、というものです。私ならミセスBやその一族と争うくらいならグリズリー(凶暴な灰色グマ)と格闘したほうがマシだと思います。仕入れは天下一品だし、ライバル企業が夢にさえ見ないような経費率を実現し、そうやって節約した分を顧客のために回している。まさに理想的な会社です。顧客のために格別の価値を創造する企業は、今度はそのオーナーのためにも格別の経済性をもたらしてくれるものです」
バフェットの説明はさらに続く。「そして、経営者について言えば、遺伝学者たちもブラムキン一族を目の前にしたら、きっととんぼ返りするのではないかと思います。ミセスBの息子ルイ・ブラムキンはネブラスカ・ファニチャー・マートの社長を長く務め、家具や家電製品にかけては全米一のバイヤーとして名が通っています。『自分には最高の教師がいた』とルイは言っていますが、ミセスBも『あたしには最高の生徒がいた』と言っています。どちらも当たっていると思います。ルイとその三人の息子もブラムキン家ならではの実務の才と労働観を持っていますが、何よりも重要なのは、その人柄です。ともかく、みんな本当に良い人たちなんです。そんな彼らといっしょに事業ができるのは喜ばしいことです」(48)
その翌年、九一歳になったミセス・ブラムキンは相変わらずフルタイムで働いていた。「家に帰ったら食べて寝るだけ」という彼女は、「あとはもう店に戻りたくて、夜が明けるまで、待ち遠しくて」と記者に語っている。(49)その同じ年、別の記者が彼女のことをこう表現している。「身長一五〇センチ未満、小柄、パッチリした目、情熱的な風貌のユダヤ版ヨーダ」(訳者注 ヨーダとは映画『スターウォーズ』に登場する、強いフォースを持った推定年齢九〇〇歳、身長六六センチのジェダイ・マスター)。(50)彼女の新しいボスもこう言っている。「名門ビジネススクールの主席卒業者か、フォーチュン五〇〇社の最高責任者と彼女を同じ条件で競わせたら、彼女のほうが圧倒的大差で勝つでしょう」(51)
ミセスBの能力について、バフェットは次のように語っている。「彼女は顧客に最高の価値を提供する方法を心得ていますし、だれよりも良い仕事をします。それに、自分の知っていることと知らないことをきちんとわきまえています。つまり、私がよく言う“能力の輪”の境界を明確に仕切っているのです」。バフェットの説明はまだ続いた。それは投資の教訓としても非常に重要なものだ。「例えば、彼女に対してラグマットやエンドテーブルのようなものを一万枚あるいは一万個売りたいとします。この場合、彼女には仕入れのノウハウがあります。でも、売ろうとしているのがゼネラル・モーターズ(GM)の株一〇〇株だったら、どうでしょう。彼女は『やめとくよ』と答えるはずです。なぜなら、GMの株については何の知識もないからです」(52)
一九八四年、ミセスBはオマハのクレートン大学から名誉法学博士号を贈られ、ワシントンDCのネブラスカ協会より名誉ネブラスカ州人賞を受賞。ネブラスカの財界においては栄誉の殿堂入りを果たしている。(53)ニューヨーク大学からは名誉商学博士号を授与され、業界リーダーとしては初の女性修得者となった。(54)それ以前に名誉学位を修得した人には、エクソン・コーポレーションのCEOクリフトン・ガービン・ジュニア、当時シティコープのCEOだったウォルター・リストン、当時IBMのCEOだったフランク・ケアリー、当時GMのCEOだったトム・マーフィーらがいる。「みんな優良企業の人ばかりだ」とバフェットがコメントしたところ、(55)「何てことないさ」とミセス・ブラムキンはいかにも彼女らしい答え方をしている。(56)
五年後、ミセスBは九六歳になったが、まだまだ元気だった。朝六時に起床。九時には店に顔を出し、五時まで働いた。(57)だいぶ前からだんだん歩行が困難になっていたが、電動カートを購入することで問題を解決した。カートの愛称は「ローズB」。彼女はこれに乗って店中を疾走する。「ロシアのコサック(騎馬軍団)みたいだろ」と言いながら。(58)就業時間の終わりにはお抱えの運転手に運転させてオマハ中を回る。ライバル店とその駐車場をチェックするためだ。これが時には九時ぐらいまでかかることもある。いわく、「あたしにとっちゃ、家に帰るなんぞ最大の罰当たりさ」とのこと。(59)
実際、あまりにも元気すぎて、家族との衝突は避けられない状態だった。一九八九年、ミセスBはまだカーペット部門を取り仕切っていたが、息子のルイはとっくにCEO(最高経営責任者)を引退し、会長になっていた。あとはルイの息子アービンがCEO、ロナルドがCOO(最高執行責任者)となり、兄弟二人で店の経営に当たっていた。ミセスBの孫たちは祖母に対して絶大な敬意を払っていたが、「自分たち流」のやり方で経営したいと考えていたため、女家長と衝突するようになっていた。
どの創業者や起業家にとっても、長期にわたって直接関与してきた現場から離れるというのは一筋縄ではいかない問題である。ローズにとって、自分の手でつくり上げてきたものをほかの人に譲るのは、それがたとえ自分の家族であっても、かなり酷な仕事だったのかもしれない。一代目から二代目へ――彼女の場合は一代目から三代目へ――事業を引き継いで存続させていくためには、こうした秩序だった継承作業が必要だが、これが往々にして不和を生み、事業の衰退を招くか、廃業となることさえある。
実際、カーペット部門はあたしの担当なのに、「あの小僧たち」は干渉しすぎだと感じていたミセス・ブラムキンは、五月に店を辞めてしまっていた。成功した意志強固な起業家たちがみなそうであるように、ミセスBにとっても、自分の誤りを指摘されたり、上から命令されたりするのは、それが自分の孫でも、不愉快極まりないことだった。のちに彼女は当時のことを記者にこう語っている。「辞める二カ月前だったか、あの子たちはあたしの権限をみんな取り上げたんだ。これじゃあ、もう何にも仕入れらないじゃないの。金は出してくれないし。しかも、メーカーにこう言ったんだよ。あたしと話をしたセールスマンからはもう買わないって。もうめちゃくちゃ頭にきたね。まったく何にも知らないくせに」。孫息子たちのことについて、ミセスBはさらにこう続けた。「よくまあ、お偉くなったもんだよ。で、ある朝、あんまり腹が立ったから、出て行ったのさ。そしたら、それまではパトロンみたいだったウォーレン・バフェットまでがあの子たちの肩を持ったんだ。以前は、あたしみたいなのはほかにはいないって言ってくれたのに。年齢にはこだわらない。いつも素晴らしい仕事をしてくれているからって――。あたしはあの男にだまされてたんだ。パトロンだと思ってたのに」
しかし例によって、ミセス・ブラムキンはただ辞めただけではなかった。のちに彼女はこう語っている。「家に戻ってから、二カ月間ずっと泣いてたね。あまりにも寂しくて。いつも周りに人がいることに慣れてたから。でも、このとき、娘からこう言われたのさ。『ねえママ、また別のことを始めれば? また商売を始めたらいいのよ。損をしてもいいじゃない。これまでのことを気にしながら、いつも家にじっとしていたら、気がヘンになるわよ』って」(60)
というわけで、一九八九年一〇月、九五歳のミセスBは自己資金二〇〇万ドルをつぎ込んで店をオープンした。その名も「ミセスBのウエアハウス」。場所はなんと、ネブラスカ・ファニチャー・マートの通りを挟んだ真向かいだった。(61)
「あと二年長生きさせてほしいって願った。で、あたしがだれだか、あの子たちに見せてやろう。あいつらを地獄に突き落としてやるって思ったね」と当時、彼女は記者に語っている。もちろん、「あいつら」とは孫息子のことだ。「あいつらはあたしのことを年寄り扱いした揚げ句、気難しいとか言うんだ。家族のためにこの命をささげてきたのに。あいつらが大金持ちになれたのはあたしのおかげだよ。会長はこのあたしなのに、権限を取り上げるなんて。……一流だか何だか知らないが、あの孫息子たちは高級品しか知らないし、何かといっちゃ、すぐ休む。今じゃやたらに役員が増えてるし」と、無駄を省いた自らの経営手法と孫たちのやり方を比べながら、こう付け加えた。「やたらに会議ばっかりやってるし、長期休暇はしょっちゅう取るし、何もかも金のかかることばかりだ。だから、バフェットに言ってやったのさ。あたしが経営してたときの経費は七〇〇万ドルだったのに、今じゃ二七〇〇万ドルになってるって。最近は、どんなぼんくらでも社長や副社長になれるんだねえ」(62)
皮肉なことに、ミセス・ブラムキンが孫息子たちと張り合って新しい店を開いたとき、ネブラスカ・ファニチャー・マートを創業したばかりのときと同じ状況に遭遇することになった。「ボイコットに遭ったのさ。ネブラスカ・ファニチャー・マートの差し金で、大手のメーカーがみんなあたしに売ってくれなくなったのさ。あいつら[=孫息子たち]がメーカーにこう言ったんだと。もしあたしに売るようなことがあれば、うちはもうお宅からは買いませんよって。ファニチャー・マートの年商は一億五五〇〇万ドル。あいつらのために、このあたしが全米最大の店をつくってやったんだ。だから、あたしとは競争したくなかったんだろうね」(63)
「あいつらはゾウで、あたしはアリ」とは、新しい店を手伝ってくれていた孫娘のクラウディア・ベームにミセスBが語った言葉だ。たとえそのとおりであっても――在庫がわずかしかなくても、主要メーカーが商品を回してくれなくても、広告を打っていなくても、つまり、開店を「公に」していなくても、三カ月目には二五万六〇〇〇ドルの売り上げを達成していた。「あたしは速攻型の経営者だからね」とミセス・ブラムキンは説明している。「神様に感謝した。まだ頭もしっかりしてたし、ノウハウもある。才能だって……」(64)
開店してからわずか二年後の一九九一年には、ミセスBの店は採算がとれるようになったばかりか、オマハで三番目に大きいカーペット専門のアウトレット店になっていた。(65)そして一九九一年一二月一日、九八歳の誕生日の二日前、ウォーレン・バフェットがミセスBの店にやってきて、「停戦」を願い出た。手には二四本のピンクのバラの花束と、重さが二キロ以上もあるシーズ・チョコレートの詰め合わせを一箱抱えていた。新しい店を開いて以来、二人はひとことも口を利いていなかった。それだけにバフェットがわざわざ来てくれたその心遣いにミセスBは感謝の意を表した。「彼はやっぱり本物の紳士だった」とのこと。それから数カ月後、ミセス・ブラムキンは「ミセスBのウエアハウス」をネブラスカ・ファニチャー・マートに四九四万ドルで売却している。(66)
ミセスBが通りの真向かいに店を開いたことで、家族も当惑したが、客も混乱した。今回の出来事は家族経営の典型的な世代間闘争を浮き彫りにする形となったが、全体的に見れば、事実上の事業強化につながったと同時に、ミセスBの孫息子たちの経営手腕を証明することにもなった。つまり、創業者である祖母と激しい戦いを演じても、NFMの競争優位がいかに揺るぎないものであるかということが証明されたのである。そして、自分がいなくても店は存続し成長していく、ということを祖母自身も了解したのだった。結果、両者が仲直りした時点で共食い状態になっていたカーペット部門はすべてNFMの一部として統合されることになった。
「うれしいことに、ミセスBがまた私たちと手を組んでくれることなりました」とバフェットはあとで株主に報告している。「彼女が築いてきた事業の歴史は、他のどんなものとも比べようがありません。パートナーであるときも、ライバルとなったときも、私はいつでも彼女のファンでした。でも本当のことを言えば、パートナーのほうがずっといいです。今回の契約では、ミセスBも“不戦条約”に快くサインしてくれました。彼女がまだ八九歳だったとき、私は買収を急ぐあまり、この点について配慮が足りませんでした。ミセスBはいろいろなことでギネスブック入りを果たしていますが、九九歳にして“不戦条約”にサインしたのも、間違いなくギネスものでしょう」(67)
一年後、一〇〇歳になったミセス・ブラムキンは相変わらず週に六〇時間ファニチャー・マートで働いていた。だから、誕生日のお祝いも、もちろん店内で行われた。来賓にはネブラスカ州知事のベン・ネルソン、上院議員のボブ・ケリー、下院議員のピーター・ホーグランド、オマハ市長のP・J・モルガンらがいた。当時、彼女はこう語っている。「あたし、今、一人暮らしでしょ。だから仕事するの。家に帰るのが嫌なのよ。墓になんか入りたくないから働くの」(68)
一〇〇歳になったとき、ミセスBは自分の人生をこう振り返っている。「七五年前、ロシアから渡って来て、店を始めたけど、一度もウソはついたことないし、イカサマもしたことがない。あたしはそんな大物なんかじゃないからね」。(69)これほどのシェアを誇る巨大事業を彼女はどうやって築き上げたのだろうか。孫息子のアーブ・ブラムキンによれば、「祖母には集中力とビジョンがあった」とのこと。今日も受け継がれているミセスBの店のモットーをここに記しておこう。
ビジネスの基本方針――ローズ・ブラムキン