■目次

訳者まえがき
序文
まえがき
謝辞

第一部 最高経営責任者ウォーレン・バフェット
第一章 はじめに――ウォーレン・バフェットと傘下のCEOたち
第二章 バフェットのCEO選び

第二部 バークシャーの資金の源泉――保険業
第三章 管理部門の責任者――トニー・ナイスリー(保険のGEICO)
第四章 資本配分部門のバックアップ役――ルー・シンプソン(保険のGEICO)
第五章 災害部門の管理者――アジート・ジャイン(バークシャー・ハサウェイ再保険事業部)

第三部 バークシャー傘下の創業者たち
第六章 天賦の才――ローズ・ブラムキン(ネブラスカ・ファニチャー・マート)
第七章 先見の明――アル・ユールチー(フライトセーフティー・インターナショナル)
第八章 革新者――リッチ・サントゥーリ(エグゼクティブ・ジェット)

第四部 バークシャー傘下のCEO一族――子どもと孫の代
第九章 バフェットの弟子――ドン・グラハム(ワシントン・ポスト)
第一〇章 三代目の家族継承者――アービン・ブラムキン(ネブラスカ・ファニチャー・マート)
第一一章 復帰した経営者――フランク・ルーニー(H・H・ブラウン・シュー)
第一二章 主義を貫く経営者――ビル・チャイルド(R・C・ウィリー・ホーム・ファーニシングス)
第一三章 生涯のパートナー――メルビン・ウォルフ(スター・ファニチャー)
第一四章 ショッピングのエンターテイナー――エリオット&バリー・テートルマン(ジョーダンズ・ファニチャー)

第五部 バークシャー傘下のCEO継承者――専門経営者たち
第一五章 再建屋――スタン・リプシー(バファロー・ニューズ)
第一六章 忠臣――チャック・ハギンズ(シーズ・キャンディーズ)
第一七章 経営のプロ――ラルフ・シャイ(スコット・フェッツァー・カンパニーズ)
第一八章 白羽の矢――スーザン・ジャックス(ボーシャイムズ・ファイン・ジュエリー)
第一九章 小売業者のかがみ――ジェフ・コメント(ヘルツバーグ・ダイヤモンド)
第二〇章 新顔――ランディー・ワトソン(ジャスティン・ブランズ)&ハロルド・メルトン(アクメ・ビルディング・ブランズ)
第六部 結論
第二一章 バフェット傘下のCEO――比較対照編
第二二章 バフェット傘下のCEO――評価と報酬
第二三章 バフェット傘下のCEO――ビジネスチャンス
第二四章 バフェット後のバークシャー

付録一 インタビューリスト
付録二 バークシャー・ファミリー一覧
付録三 バークシャー・ファミリーの米国標準産業分類コード
付録四 バークシャー・ファミリー年表
付録五 バフェット関連書籍
注記(出典一覧)

■訳者まえがき

 ビル・ゲイツに次ぐ世界第二位の大富豪ウォーレン・バフェットの名前は知っていても、バークシャー・ハサウェイの名前は知らない人が多いかもしれない。いわゆる投資持ち株会社だが、最近では保険業を中心とするコングロマリットに成長し、その時価総額は一〇〇〇億ドルを超え、世界第二一位にランクキングされる大企業となっている。
 同社が株式を大量に保有しているアメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、ジレット、ワシントン・ポストは日本でもおなじみだが、バークシャー自体はどうなのだろうか……と思って調べてみたところ、日韓共催のサッカーワールドカップが地震によって万一中止あるいは延期になった場合の再保険をバークシャーの子会社が引き受けていた。そしてアーノルド・シュワルツェネッガーが来日したときに乗ってきたプライベートジェット、これも傘下のネットジェットを利用したものだ。ソフトクリームのデイリークイーンも、チョコレートショップのシーズ・キャンディーズも日本に出店している。カービーの掃除機や、キャンベル・ハウスフェルドのエアコンプレッサー、ベンジャミン・ムーアの塗料、ジャスティン・ブランズのウエスタンブーツも日本で販売されている。探してみれば、まだまだバークシャーの子会社や代理店は私たちの身近に進出しているかもしれない。  これまでバフェットというと、大型優良株を安値で拾う株式投資家のイメージが強かったが、ここ数年の間にフレディーマック、マクドナルド、ディズニーといった大型株を売却し、さまざまな企業を市場やブローカーを通さずに適正価格で買収するスタンスに変わってきている。本書ではこれまでのバフェット本では詳しく扱われていなかった買収先企業、つまりバークシャー傘下の子会社に焦点を当て、バフェット本人と各企業のCEOの生の言葉を通して、各企業の歴史や文化、経営方針、買収過程、そして経営者としてのバフェットおよび各経営陣の理念や人物像を追究している。
 本書は「バフェット式投資法」のような大それた本ではないと著者は言う。たしかに、売ったり買ったりして短期で大儲けしたいとお考えの読者には本書は物足りないものに映るかもしれない。なにしろ、短期的に儲けることが目的ではないため、死ぬまで、いや死んでも手放さないつもりで買っているからだ。しかし、本当の意味での投資とは何か、企業文化とは何か、事業を継承し存続させていくというのはどういうことなのか、ということをしみじみと考えさせてくれる本である。本書を読み進めていくうちに、なぜバフェットがその企業を買ったのか、納得がいくと思う。
 バフェットは企業を一つの「傑作」としてとらえている。創業者の熱い思いによって長年にわたって築き上げられてきた企業の文化や伝統を大切に守り、破たんしかけても見捨てず、自分のほれ込んだ企業と経営陣を応援し、ついのすみかとなる「家」を提供する。そんな彼のホワイトナイト的な思いが伝わってくる。バフェットが買収している企業には、大恐慌にも戦争にも幾多の不況にもめげずに生き残ってきた家族経営の老舗が多い。キーワードは「家族」と「家」、「大きな堀」と「能力の輪」、「誠実」「正直」「忠誠心」「愛社精神」「倫理観」、そして「価値の創造」と「長期的な視点」、「顧客志向」と「株主志向」である。
 バークシャーの定年は一〇四歳。定年制がないも同然である。家族主義経営とチームワークを重んじ、好きな人たちと好きな仕事を好きなように楽しむ。これがモットーである。「大きな堀」は競争上の優位性を意味する。ブランド力を高め、どれだけ差別化を図れるか、ニッチを築いているか、ユニークかというのがカギとなる。そして「能力の輪」。これは自分で理解できないものには手を出さない、本業に専念する、という意味である。そして、買うのは第一に人。企業は二の次だという。「良き経営陣のいない小売店を買うのは、エレベーターのないエッフェル塔を買うようなものです」とはバフェットの言葉である。どれほど成長性のある優良企業であっても、自分が信頼でき、ほれ込んだ経営陣のいる企業でないと、バフェットはけっして買わない。
 ボーシャイムズ宝石店のホームページには、「宝石のことを知らないのなら、その宝石商について知れ」というバフェットのメッセージが掲載されている。信頼できる経営者を見つけたら、あとはすべて任せるという「無干渉経営方式」。そして目先の利益を追求するのではなく、長期的な成長、長期的な価値の創造を目指すのもバフェットならではである。「新聞の第一面を読んで、けっして恥ずかしくならないような行いをしてください」というのも彼の口ぐせである。
 このところ、日本では企業の不祥事や事故が相次ぎ、中高年の自殺や過労死もかつてないほどの深刻さを増している。終身雇用が崩壊し、将来の不安を抱えるなかで断行されるリストラの嵐。本来、リストラとは「再構築」という意味だが、なぜか日本では「人員削減」の意味で使われている。アメリカのように職を転々とするのが当たり前の国ならともかく、流動性のない日本で行われるリストラには過酷なものがある。人をまず切ることよりも、同じ船に乗った者同士一丸となって生き残りの道を模索することはできないのだろうか。企業を支えているのは一人ひとりの社員であり、その社員には心があり、家族がいる。社員の顔が見えている企業幹部はいったいどのくらいいるだろうか。安易な統合再編によって伝統ある企業文化を踏みにじられる社員の気持ちはどうなるのだろう。かつて東アジアの国々が手本とした、チームワークと信用を重んじる日本モデルはいったいどこへいってしまったのだろうか。つい最近、いまだに終身雇用をうたっているトヨタ自動車の格付けが五年ぶりにバークシャーと同じ「トリプルA」に返り咲いたが、これは単なる偶然ではないと思う。労使関係がリストラをする側、される側という関係になってしまっては、愛社精神も忠誠心も倫理観も失われていくだけである。
 バフェットはかなり以前から、本人の業績とは無関係に無リスクで多額の報酬を得られるストックオプション(株式購入権)の付与や、その費用を計上しない「隠れ人件費」には批判的だったが、ITバブルの崩壊と不正会計処理騒動を経た今、欧米では見直しの機運が広がっている。オプションの費用計上を義務づける方向だが、バフェットが社外取締役を務めるコカ・コーラやワシントン・ポストが早々に費用計上を発表し、つい最近ではマイクロソフトがストックオプションの廃止を決めた。株価至上主義や不正会計処理の温床となる短期的な企業評価にも見直しの動きがあり、コカ・コーラでは長期経営戦略を重視するため、四半期および通期の業績予想の発表中止を決定している。いずれもバフェットの影響だが、彼は一般投資家にとって分かりにくい目論見書やSEC(米証券取引委員会)提出書類を平易な言葉で書く運動もしている。
 一方、日本ではストックオプション導入の動きが広がり、業績の四半期開示が始まったばかりである。欧米とは少々動きがずれているが、長期的な視点で企業を評価する目を失わないようにしてもらいたいと思う。そういう意味でも本書から何らかのインスピレーションを受け取っていただければ幸いである。書き手はバークシャーの長期安定株主である起業家のロバート・マイルズ。原書の表紙にはジャック・ウェルチとウォーレン・バフェットの推薦が入っている。本書は投資関係者だけでなく、合併や統合再編をお考えの企業幹部の方、家業をお持ちの方、事業の継承問題を抱える方、そして日ごろ、ビジネス書とは縁のなかった方々にも広くお読みいただけるものと思う。バークシャー・モデルが新しいビジネスモデルとして一般に受け入れられる日がいずれ来るかもしれない。バフェットおよび各CEOたちの含蓄ある言葉とともに、株券の裏にある各企業の人間ドラマをここにこうしてお伝えできることを訳者として光栄に思う。
 最後に、本書の翻訳の機会を与えてくださった後藤康徳氏(パンローリング)、予定よりも大幅に遅れた訳出作業を温かく見守ってくださった編集者の阿部達郎氏(FGI)、訳出上の不明箇所についてお答えいただいたバークシャー・ファミリーの皆様には、この場を借りて心よりお礼申し上げたい。

 二〇〇三年九月

                 木村規子

■序文

 超長期にわたって一貫して好成績を上げられるかどうかによって、その組織力と理念が真に試されることになる。ネブラスカ大学でアメリカンフットボールのヘッドコーチをしていた私は、非常に幸運にもシーズン戦で三九連勝を達成したうえ、九勝以上を上げてボウルゲームへの出場権を獲得したチームを三二チーム連続で輩出してきた。しかも、この間に五回も全米制覇を成し遂げ、数多くのカンファレンス(=リーグ)で優勝している。
 スポーツ界とビジネス界にはいくつか類似点があると思う。ネブラスカ大学で有効と思われる戦略のなかには、バークシャー・ハサウェイで日常的に取り入れられているものがあるからだ。バークシャーが優良企業である証拠の一つに、並外れた業績を長期にわたって維持していることが挙げられる。わが友、ウォーレン・バフェットが築き上げた経営方針が中心にあるからこそ、この驚嘆すべきサクセスストーリーが永続しているのである。
 バフェットほど、企業経営者のリクルートに成功している者はいない。彼の成功のもとは企業そのものにあるのではなく、その人選にある。バフェットは自ら選んだCEO(最高経営責任者)たちに忠実だが、CEOたちもまたバフェットに対して忠実である。
 こうした忠誠心がバークシャーを成功に導いたように、ネブラスカのフットボールチームにおいても忠誠心が勝利への何よりも重要な原動力になっている。一九六二年から一九七三年までネブラスカ大学でヘッドコーチを務めていたボブ・デバネーがその範を示している。ボブは当初ネブラスカで数多くの栄冠を手にしてきた。しかし一九六八年、シーズン成績が六勝四敗に終わり、アシスタントコーチらのクビを要求する者が出てきた。ボブはこれに対して「いけにえ」をささげる気など一切ないと応じた。「コーチが一人でも欠けるようなことがあれば、われわれは全員やめる」と公言したのである。こうした伝統は以来、何十年もの間そのまま受け継がれ、これがネブラスカ大学を連勝に導いてきたのである。
 バフェットは企業を買収しても、経営陣を入れ替えるようなことはしない。今日では非常に珍しいことだが、これはたまたまではなく、意図的にそうしているのである。バフェットは自分で本当に信頼できると思える人たちを選び、買収前とまったく同じように経営に当たってもらうことにしている。そして、ブロックやタックルに全力を尽くすCEOたちをサイドラインから応援する。それがウォーレンである。
 アシスタントコーチの処遇について私が悟ったことは、チームの基本方針から外れないかぎり、それぞれに責任範囲を大きく割り振り、各人の裁量に任せることが大事だ、ということだ。フットボールの場合、アシスタントコーチに細かい指示をいちいち与えてもうまくいかない。ウォーレンも同様の指導方針に従って各企業の経営陣に接しているのである。
 バークシャーはエリートチームの集まりである。だから、バフェットはそのメンバーをだれ一人としてトレードするつもりはないし、経営トップが他社に移籍したことも一度もない。こうしたたぐいまれなる人財集団はバークシャーで一生働き続けるつもりでいる――実際、バフェットも彼らが会社を辞めるとは思っていないし、それを望んでもいないが――それは、バフェット自身が永遠に引退する気がないのと同じである。
 同様に、所属年数の長さでは、ネブラスカのコーチングスタッフも負けてはいない。例えば、全米カレッジフットボール主要校のアシスタントコーチの場合、同一チームにおける平均所属年数はたったの三年だが、ネブラスカ大学では平均一五年である。しかも、この四〇年ほどの間にネブラスカでヘッドコーチを務めた人間は三人しかいない。たいていの大学ではヘッドコーチが頻繁に入れ替わるのが普通なので、選手の採用にバラツキが見られ、チームワークもばらばらで、共通の試合経験や知識を持つことが困難になっている。このようにヘッドコーチの交替はいかにも逆効果のようだが、似たようなことはビジネス界でもしばしば起こっている。しかしバフェットの場合、大規模な人事異動や大量の離職者を生じさせるような再編案にはずっと反対の姿勢を貫いてきた。ウォーレンの下にいるCEOたちは毎日オマハに電話する必要もなければ、毎週報告書を提出することも義務づけられていない。社内のことだけに意識を集中すればよいことになっている。というのも、彼らの会社を経営しているのは、ほかでもない、「彼ら自身」であるからだ。もちろん、たいていのCEOたちはバフェットと話をしたいと思っているし、定期的に相談したりしているが、これはそうしなければいけない、というわけではないのである。
 数年前、ウォーレンの経営スタイルを如実に物語るちょっとした出来事があった。それは、とある企業の危機に彼が対処したときのことだ。取締役会は一人委員会としてウォーレンを指名した。最高幹部二人が突然解任されたため、次期CEOを選出する必要があったからだ。ウォーレンには素早い決断が求められていた。人選に当たり、彼が判断材料としたのは、履歴書でもなければ、学校の成績証明書でも、同僚からの推薦状でもなかった。人柄の良さを重視したのである。彼はこう言った。人間的に超一流だと私が見込んだ人物を候補者として選びました、と。バフェットがビジネス界で成功しているのは、経営陣の人となりを見極める能力と、立派な履歴書や個々の優れた才能にも勝る、堅実で信頼に足る人物を評価する鑑識眼があったからである。
 いっしょに仕事をする人間を選ぶに当たっては、私もだんだんウォーレンと同じような考え方をするようになった。何よりもまず人柄を見ることにしたのである。すると、往々にして他の候補者よりも経験の浅い人や履歴書がいまひとつパッとしないような人を採用することになる。しかし、私自身がその人たちを信頼することができ、彼らが一生懸命に仕事をするなら、そして、自分たちを信頼して仕事を任せてくれる人たちを心から大切にするような彼らであれば、どんなにささいなことでも、知っておく必要のあることなら、きっと覚えてくれるはずである。ウォーレンが言っていたように、大事なのはやはり人柄である。
 バークシャー・ハサウェイのような成功を収めることは、だれにでもまねできるようなことではない。しかしバフェットの経営手法――そして彼が選んだCEOたちの経営手法に学ぶことは、きっとだれにでもできるはずだ。本書を読めば、バフェットとともに仕事をし、苦楽をともにしてきた企業経営者たちの世界をはじめ、比類なきオマハの賢人とその会社の双方をインサイダーの視点から見ることができるだろう。

 米下院議員(共和党・ネブラスカ州選出)
 元ネブラスカ大学フットボール部ヘッドコーチ(一九七三〜一九九七年)

             トム・オズボーン

■まえがき

 今回の執筆作業はいくぶん謙虚な気持ちで地味に始まった。処女作『バフェットの投資戦略と企業経営』(東洋経済新報社刊)を仕上げた私はウォーレン・バフェットに手紙を書いた。すると、次のような返事が届いたからだ。「チャーリー[=副会長チャールズ・マンガー]や弊社の経営陣にもご配慮願います」――その本音はつまり、「私について書かれるのはもうたくさん。バークシャーの実像に迫りたければ、弊社傘下の経営者たちについて書け。このバカもん」というわけだ。
 実際に「バカもん」と言われたわけではない。如才なく、人にやる気を起こさせるのがうまい彼がそんなことを言うはずがない。しかし、私にはその真意がよく分かった。そこで早速ルー・シンプソンに電話をかけてみた。彼はバークシャーの投資部門においてバフェットの後継者とされる人物である。だが秘書からの返事は、インタビューには応じられないというものだった。がっかりである。ところが、その後なんと、シンプソン本人から折り返し電話がかかってきた。「仕事仲間のトム・バンクロフトも交えて、朝食でも食べながら話をしましょう」と言われ、インタビューをさせてもらえることになったのである。こうしてバークシャー・ハサウェイのCEOたちとの初顔合わせは、素晴らしい全国横断の旅からスタートしたのである。
 本書は「バフェット式投資法」のような大それた本ではない。というより、バフェットの投資先企業の経営陣たちを紹介した本だ。読めば分かると思うが、さまざまな家族の人間模様や成功企業の創業当時の興味深い話をはじめ、高い評価を得ている現役CEOたちの経営理念や投資方針などをお伝えしていくつもりである。
 本書執筆に当たり調査活動を行ううえでウォーレンから特に承諾を得たわけではないが、各経営者へのインタビューを許可するかどうかについては、本人たちの意志に任せてある、との手紙をちょうだいした。「彼らの時間は彼らのものですから」というその手紙にはこう書かれてあった。「彼らのインタビューを読むのを楽しみにしています。きっと面白い本になるでしょう。弊社の経営陣は魅力あふれる起業家集団ですから、彼らの話はどれも刺激的でためになります。もっとも、ステレオタイプのMBA修得者を経営者にしようと考えているような企業の場合、趣を異にする彼らの経営スタイルには面食らうかもしれませんが」
 その後、ウォーレンの七〇歳の誕生日を祝う昼食会の席で、「ルー・シンプソンのインタビュー原稿、とても面白く読ませてもらいました」と彼から言われたが(一応礼儀としてウォーレンにコピーを送っておいたのだが)、ほかの人の分も前もって見せてほしいと要請されることはなかった。本書の執筆に影響を与えたくなかったのだろう。
 ウォーレンは各経営者と私が話をすることについては、特に後押しすることも、邪魔することもなかった。でも、たいていの経営者たちはまず間違いなくウォーレンに相談の電話を入れたのではないかと思う。仮にボスから許可が下りなかったとしたら、彼らは私と話をしてくれただろうか。おそらくしてくれなかったに違いない。「本書を読むのを楽しみにしている」とウォーレンは言ってくれたが、副会長のチャーリー・マンガーともどもインタビューには応じてくれなかった。私の試みは前代未聞のことだったのだと思う。実際、バークシャーの子会社のうち、デイリー・クイーン、デクスター・シューズ、ミッドアメリカン、ナショナル・インデムニティ、ゼネラル・リーなどからは断られているのである。
 インタビューのとき、自分自身の話をするのは苦手の経営者が多かったが、そんな彼らも事業の話になると、楽しげに話をしてくれた。特に創業者や家族経営者には、とっておきの話というのがあって、いろいろな話を喜んでしてくれる傾向が強いことが分かった。しかし、一族以外で後継者となった専門経営者の場合、自分自身のことや会社での自分の役割について注目されるのは居心地が悪そうだった。
 ここで、私自身のことも話しておこうと思う。私はバークシャー・ハサウェイの株主で、バークシャーとその経営陣を偏愛するファンの一人である。金融業界や金融関係のメディアでの仕事経験はないが、きちんと教育を受けた実業家で、情熱に任せて著述活動もしている。さらに言えば、本書はバークシャー・ハサウェイの「公認刊行物」ではないし、私自身、バークシャーの関連企業から雇われたことは一度もない。したがって、航空運賃、ホテル代、レンタカー料金、コピー代などを含め、本書執筆にかかった費用はすべて自腹である。
 たしかに何人かの経営者からは「贈り物」をいくらか受け取っている。朝・昼・晩の食事や手づくりバーベキューをごちそうになったし、テレビ出演もさせてもらった。本や資料、ゴルフボールやTシャツ、野球帽、荷札などもいただいたし、フライトシミュレーターも体験させてもらった。
 読者のなかには、バークシャーの経営陣と会うことができた私をうらやましいと思う方もおられるかもしれない。が、ここでひとこと断っておきたい。それは、二〇人のCEOとじかに会おうと思ったら、バークシャーのクラスB株(=NYSE上場、銘柄コードBRKb/二〇〇一年九月末当時、一株二三三〇ドル)を一〇株ぐらい買えるだけの金がいる、ということだ。それも、それだけの時間的ゆとりがあって、経営者たちが同様の機会を与えてくれれば、の話である。さらに必要な調査をするには、B株もう二〇株分のお金があると助かるだろう。それから一五〇〇ページ分の原稿を見直し、さらに一五〇〇ページもある資料をチェックしながら、原稿を削りに削って出版社の上限四〇〇ページにまとめ上げるのに一年の大半を費やすことになるのである。
 広範囲にわたる調査、それも時には体力を消耗するような調査活動での移動は、空の旅一〇回、列車の旅一回、バスの旅数回。そして車を走らせること、およそ一六〇〇キロ。こうして一五都市を訪問したのである。そのうえ、何時間もかけて追加の電話インタビューを行い、ほとんど日帰りであちこちの図書館にも通った。
 できるだけ多くの読者にアピールするような本づくりがしたかったし、それぞれのCEOたちにも楽しく読んでもらえるようにしなければ、というプレッシャーもあった。概してバークシャーのCEOたちは互いのことを知らない。だから、他のCEOたちのインタビューを読んで、自分たちに共通する資質とは何か、つまり、どんな資質がウォーレンの興味を引いたのか知りたいと、楽しみにしてくれているのである。
 以前、ウォーレンがこんなことを言ったことがある。自分にもしものことが起きた場合に備えて、バークシャーの業務部門の後継者を現行の経営陣のなかからちゃんと選んである、と。つまり、彼らのうちの一人が次期統括CEOになるかもしれないのである。そこで、バークシャーの後継者プランについても考察を加えてみた。だれがバフェットの後任を務めるのか、だれも語ってはくれなかったが、CEOたちと過ごすうちに、それなりに察しがつくようになった。
 各CEOたちはそれぞれの言葉でバークシャーの企業文化やそのユニークな経営方針について話してくれた。しかし、私にはどうしても理解できないことがある。企業を買収しても、普通に株を購入するときと同じように経営手法には一切タッチしないというのがバークシャーの買収戦略だが、どうしてほかの企業はこうした戦略をとらないのだろうか。バークシャーはどうもウォルストリート(機関投資家)ではなく、メインストリート(一般投資家)に近いようだ。
 バフェットは株を買い付けるのと同じ手法で傘下のCEOたちを管理している。人選は慎重に行うが、買収したからといって、これまでと違うやり方を求めたりはしない。CEOたちには誠実に接し、CEOたちもまたバフェットに対して誠実である。傘下のCEOの定着率にかけては、フォーチュン五〇〇社の最高責任者のなかでバフェットの右に出る者はいない。
 バフェットはまた有能な投資家であると同時に有能な経営者でもある。バークシャーが買うのは第一に人。企業は二の次である。だから、バフェットはその企業のCEOを完全に信頼できないうちは、絶対に買収しようとはしない。適切に投資することによって適切に経営を行っていく。投資家としては非常に有名な彼だが、同様に経営の才もあるのである。
 その後、どうしてバークシャーのような企業文化を取り入れる企業がないのか、ウォーレン・バフェットに聞いてみた。それは、買収側のCEOたちは買収するたびに相乗効果を期待し、買収先企業とその経営陣に自社の企業文化を押しつけなければいけないという強迫観念に取り付かれているからだ、という答えが返ってくるものと思っていたが、そうではなかった。
 その代わり、バフェットはこう説明してくれた。彼が築いてきた企業文化が生まれたのは、彼がまだ若いころ(三四歳のとき)に小さな会社の経営を引き継いだのがきっかけだったが、六五歳になっても引退する必要がなかったため、文化をはぐくむだけの時間が十分にあったからだ、と。たいていのCEOは文化を継承しても、短期間で入れ替わるため、  その組織に自分の足跡を残すだけの時間があまりない。しかも、こうした企業は規模が大きいため、たとえ、そのCEOの経営手法が以前より優れていても、変化には抵抗する傾向が強いという。こうした概念は私にとって経営上の大きな発見だった。
 発見はほかにもあった。なかでも私が感動したのは、バフェット傘下のCEOたちが共通して「恩返しの心」を持っていたことだ。こうした惜しみない行為には驚くばかりだが、これは世界中の経営者にインスピレーションを与えることになるだろう。
 ウォーレンは正しかった。バークシャーはまさに「ウォーレン・バフェット以上」である。その真実のドラマは、かの有名な投資家兼実業家のバックにいる経営陣なくしては語ることはできないのである。

 二〇〇一年九月 フロリダ州タンパにて

           ロバート・P・マイルズ

■第一章 はじめに――ウォーレン・バフェットと傘下のCEOたち

 バークシャー・ハサウェイ構築の立役者でCEOのウォーレン・バフェットがその称賛を一身に浴びているが、バークシャーを理解したければ、この巨大企業の一部を構成している比較的無名の企業経営者全員のことも正しく評価しなければいけない。世界で最も有名な投資家バフェットについては、すでに二五冊以上の本が書かれているが、バフェット傘下の経営陣やそのユニークな企業文化を徹底的に追究した本は今まで一冊もなかった。そこで、その基礎を成す完全子会社の経営を一任されているCEOたちの人物像を紹介することで、バークシャー・ハサウェイの核心に迫ろうと試みたのが本書である。
 バークシャー・ハサウェイ(NYSE上場/クラスA株の銘柄コードはBRKa)は巨大複合企業で、コカ・コーラ(持ち株比率八%)やジレット(同九%)、アメリカン・エキスプレス(同一一%)などの企業を一部所有していることで知られている。また、同社はコカ・コーラの筆頭株主でもある。
 バフェットはバークシャーの成長とともに、その名声と富を築いてきた。一九六七年には四〇〇〇万ドルだった同社の売上高は、今や四〇〇億ドルを超えるまでになっている。当初は、普通株を抜け目なく選別買いしていたバークシャーだが、路線を変更し、デイリー・クイーン(アイスクリーム)、ベンジャミン・ムーア(塗料)、ショー・インダストリーズ(カーペット)、ジョンズ・マンビル(断熱材)などの企業を丸ごと買い取るようになった(系列企業の一覧は「付録二」を参照)。
 本書では、株式を一部しか保有していない企業のCEO(ワシントン・ポスト紙のドン・グラハム)についても紹介しているが、主としてバークシャーが一〇〇%所有している企業とそのCEOに焦点を当てていくことにする。
 なぜ、そうすることが大事なのか、その理由をいくつか挙げておこう。
 ウォーレン・バフェット引退後のバークシャーはどうなるのだろうか。「会長の引退」が近づくころには、もう彼はこの世にはいない。というのも、バフェットは自分が引退する日をその死後、五年後と定めているからだ。それにしても、バフェットが業務から手を引いてしまったあとのバークシャーはどうなるのか、興味ある株主がほとんどだろう。決定的な答えは得られないにしても、その手掛かりを得るために、本書では現行のバークシャーの企業群とその経営者に注目してみた。このなかからCEOたちの上に立つCEOがいずれ生まれるかもしれない。経営者としての彼らはどんな人間なのか、その企業理念や経営方針はどのようなものなのか、自社の後継者問題にどう対処してきたか、バークシャーというモザイク社会にどのように溶け込んでいるのか、本書を読み進めていくうちに、その答えが分かるだろう。
 インタビューのなかで明らかになる、ある事実に驚かされるかもしれない。各経営者たちは、株主向けに年に一回書かれる会長あいさつや報道などで公表されていること以外、他の子会社のことについて、あまり知らないのである。インタビューに応じてくれた経営者たちがそうであったように、ほかの企業がどんなことをしているのか、本書を読めば、あなたにもある程度のことが分かるようになるだろう。
 バフェット傘下のCEOたちにはいわゆる「平均像」というのはないが、本書で紹介した人たちで言えば、六〇歳代の白人男性で、創業一〇〇年という老舗企業の三代目経営者といった傾向がある。一人を除いて全員が社内で昇格して経営者になった人たちで、その企業の大半は「オールドエコノミー企業」に属し、レンガ、チョコレート、家具、宝石、百科事典、掃除機、エアコンプレッサー、新聞、靴、保険商品などを扱っている。
 各人に見られる特性としては、バフェットに対しても妥協しない、倫理観の高さや誠実さが挙げられる。バフェットが自らの名声を賭けてソロモン・ブラザーズを救ったとき(=米国債入札時の不正取引によってソロモンが存亡の危機に陥り、バフェットが急きょ同社の会長職に就いて救済に当たったとき)、上院の小委員会で次のような発言をしている。「うっかりミスなら、同情の余地はありますが、会社の名誉を失墜させるようなことについては、私は一切容赦しません」。そして、「地元紙の第一面に印刷できないようなことは絶対にしないでください」というのも、バフェットの口ぐせである。
 本書では、資本配分部門においてウォーレン・バフェットのバックアップ役として指名されているルー・シンプソンの独占インタビューも行っている。バークシャーの業務部門については、だれがバフェットの後継者になるのか、だれも明かしてはくれなかったが、本書のなかでインタビューをした人のなかに、いずれその大役を引き継ぐことになる人がいるかもしれない。バークシャーはCEOたちをもっぱら社内から採用しているが、だとすれば、業務部門の次期CEOは勤続年数の長い人から選ばれるのかもしれない。
 バフェット「引退」後は、その仕事を三人で分担することになっている。一人は家族のメンバーからで、息子のハワードが最も有力だが、取締役会会長となって、「バフェット・ファミリー」の雰囲気と威光、文化を継承してくれることだろう。もう一人は資本配分(公開企業の株式の購入および完全子会社の買収)担当の経営者。もう一人は傘下の経営陣を率いる経営者である。バークシャーは基本的に、会長と資本管理部門担当のCEO兼社長と業務部門担当のCEO兼社長という三人体制になるだろう。
 ルー・シンプソンによれば、バークシャーの経営陣は将来的に現行のGEICOの経営組織(ルー・シンプソンが資本管理担当CEO兼社長で、トニー・ナイスリーが業務管理担当CEO兼社長)と非常に似たものになるだろうとのこと。ただし、これは単に組織の構想であって、こうしたポストに彼らが就く、ということを予測しているわけではない。
 シンプソン自身は、自分は控え選手であって、実際の後継者ではないと見ている。二人の年齢差は六歳しかないため、ルーがウォーレンのあとを継ぐというのは考えにくいからだ。一方、バークシャーの業務部門の後継者については、内情を知る人たちに尋ねても、だれもトニー・ナイスリーの名前を後継者としてほのめかす人はいなかったが、彼のプロフィールを見れば、株主にも将来どうなるか、予測はつくだろう。
 バークシャーはこれまで企業を買収しても、子会社を売却したり、創業者を更迭したりしたことは一度もない。引退した人はわずかにいるが、自社を今日まで率い、将来にわたってずっと存続させていくために情熱を燃やしている経営者がほとんどである。
 たいていの公開企業では、ゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェルチのように、どんなに有能な経営者でも六五歳になると引退を余儀なくされるが、バークシャーの経営陣の場合は、ミセスB(=ネブラスカ・ファニチャー・マートのミセス・ブラムキン)のように、一〇四歳まで企業経営に従事してから「引退」することも可能である。バークシャーの経営陣は、立派な軍人のごとく最後まで勇敢に戦って殉死を遂げることが許され、また、そうすることが奨励されており、本人もおそらくそれを望んでいるのである。バフェットの下にいるCEOたちがみな笑顔なのは、たぶんこうしたことがあるからかもしれない。
 フライトセーフティーの創業者で社長のアル・ユールチーは現在八〇歳を超えているが、バークシャーの株式については絶対に株式分割を行わないとしているウォーレンも、アルが一〇〇歳の誕生日を迎えたら、「年齢分割」しようかと考えている。
 バフェットの傘下に入ったCEOたちは、通常の最高責任者が担うような責務とは無縁である。アナリストや株主との会合もないし、記者会見もしない。事業拡張を要求されることもなければ、使える資金にも限度枠はなく、本社から指図を受けることもない。しかも、こうしたCEOたちは、世界中でほかに七社しか取得していない最高信用格付けと財務の健全性を一瞬にして手に入れたことになるのである。
 バフェットの下にいるCEOたちは、普通とは違って、外部から邪魔されることがないため、自分の会社の社内問題を処理することと長期的に好業績を上げることだけに徹頭徹尾集中できる。本社に報告を入れる頻度は各経営者次第で、多くても少なくてもかまわない。なにしろ、買収されてから二〇年もたって初めてオマハに足を踏み入れたという経営者もいるくらいだ。
 バークシャーの経営陣への報酬体系はこれまた変わっている。決めたのはその最高責任者バフェットである。バフェットの給与は一〇万ドル。ストックオプション(株式購入権)はない。フォーチュン五〇〇社(売上規模全米上位五〇〇社)のCEOのなかでは最低の金額である。彼の下にいる経営者たちはみな、もっと高額の報酬を得ていて、自分の会社と経済的な利害関係が直結する形になっている。彼らの報酬制度は単純明快で、各人の企業業績と直接連動するようになっているのである。
 ここでは、すごい話や精巧な企業戦略など期待しないでほしい。企業方針も経営方針も以下のとおり、シンプルそのものなのだから。  バフェット傘下のCEOたちはお互いのことを知らない。それに、自分の言いたいことを率直に言えるくらい裕福で経済的に自立している。にもかかわらず、各CEOが語ったバフェット像とバフェットから受けた影響はどれもほぼ同じようなものだった。彼らの話を聞いていると、同じことの繰り返しのように思われるかもしれないが、それは、完全に独立している二〇人のCEOたちがそれぞれ独自に同じ結論に達しているからである。
 これは、非凡な男に率いられた、並外れた人々による興味津々の物語である。バークシャー・ハサウェイと傘下のCEOたちについては、バフェットが一九八九年度の会長あいさつのなかで株主に向けて次のように書き記している。「この神々しい集団――(中略)……は、経済的に見て優良から超優良の範囲に入る企業の集まりですが、その経営者のほうは、超一流の面々が顔をそろえています。こうした経営者たちのほとんどは働かなくても食べていける人たちです。それでも、球場に来たのは、ホームランを打ちたいから。彼らのしていることは、ちょうどこれと同じことなのです。……ブラムキン一家、……チャック・ハギンズ、スタン・リプシー、そしてラルフ・シャイ――こうして、わが経営者たちの名前を読み上げるとき、私は、ミラー・ハギンズが一九二七年にニューヨーク・ヤンキースの顔ぶれを発表するときに感じたに違いない心地よい満足感と同じものを感じるのです」(2)

■第六章 天賦の才――ローズ・ブラムキン(ネブラスカ・ファニチャー・マート)

 ローズ・ブラムキンはその一〇〇年以上にわたる生涯において、自己の方針を絶対に曲げることなく勤勉に働き、決断力と集中力をもって頭を使い、並外れた人生を送った。ホレイショー・アルジャー(=「成功は独立心と勤勉によって得られる」という考え方を代表するアメリカの少年文学作家)の女性版ともいえる「ミセスB」は、移民、妻、母、経営者、女性実業家として、難問にぶつかるたびに強固な意志をもって克服してきた。貧困、戦争、侵略、人種差別、迫害、村の壊滅、家族との別離、移住、サプライヤーからのボイコット、法廷闘争、文盲、中年からのキャリアスタート、暴風災害など、ミセスBは数々の障害に直面してきたが、それを乗り越えたばかりか、普通は男社会とみなされている分野で成功を収めたのである。
 ミセス・ブラムキンは自らが選んだ道で頂点を極め、自分の店を全米屈指の大実業家ウォーレン・バフェットに売却している。本書で紹介するエリートCEOのなかに女性が二人登場するが、そのうちの一人が彼女である。
 バフェットはよくこう言っていた。経営学を学ぶ学生はミセスBの生涯とその時代について学ぶべきだ、と。なぜなら、彼女の人生は、昔ベンジャミン・フランクリンが説いた徳目を体現したものだからだ。バフェットはこんなことも言っている。「二年間、どこかのビジネススクールに通うか、数カ月間、彼女の下で見習いをするか、どちらかを選べと言われたら――かなりハードな数カ月になると思いますが――見習いをやったほうが経営のノウハウが分かるはずです。……ミセスBがやっているようなこと以外は覚える必要はありません」(1)
 ローズ・ブラムキンの人生は、それこそ「赤貧から大金持ちになった」典型例である。それは刺激的で人間的な興味をそそる、事業の成功物語であり、家族を描いた、たぐいまれなる投資物語でもある。アメリカで最も成功した主要小売業者の一人となった彼女は、ウォルマートのサム・ウォルトンに匹敵する女性である。
 ローズ・ブラムキンがこの世を去ったのは一九九八年。だから、バフェット傘下のCEOのなかでは唯一インタビューを申し込めなかったCEOである。しかし幸運にも、当時フィラデルフィア・インクワイア紙の記者で、現在はコラムニストのアンドリュー・カッセルが一九八九年一二月一四日にミセスBのインタビューを録音し、書面に残してくれていたのである。このとき、彼女は家族と離れ、ライバルとしてカーペット事業を立ち上げたばかりだった。カッセルは電動カートに乗る彼女を追いながら、その率直な意見や経歴にまつわる簡単な話をテープに収めている。片言英語で語る彼女自身の言葉から、並外れた起業家人生がしのばれると同時に、自社を売却してバークシャーの傘下に入ることを選んだ人々がどのような人たちなのかが見えてきた。一般に言われているのとは違い、ウォーレン・バフェットが投資するのは第一に人。企業は二の次だ。だから、どれほど魅力的な企業でも、その経営陣が彼の設定した非常に高い基準をクリアしていなければ、バフェットは投資しようとはしない。
 バフェット傘下の他のCEOと同様、ミセスBの話もメインストリート(産業界)の話であって、ウォールストリート(金融界)とは無縁だ。実際、ネブラスカ・ファニチャー・マートはオマハの大通り、ドッジ・ストリートからちょっと入ったところにある。場所はオマハの中心街、つまりネブラスカ州の中心地、すなわちアメリカ中西部の心臓部。ということはアメリカのど真ん中にあるのである。バークシャーの経営陣で初の殿堂入りを果たしたミセスBは、バークシャー傘下の他の企業経営者のために基準を打ち立てた人物でもある。
 バークシャーの驚異的な成功物語を理解するには、バフェットの投資先、とりわけブラムキン家のビジネスについて研究することが重要となる。ネブラスカ・ファニチャー・マート(NFM)は、ひたむきな家族が経営する単純明快な店だ。負債もなく賃貸料も不要なので、その分、より低価格の商品を提供できる。このため、市場シェアは圧倒的に高く、競争上の優位性を長期的に維持していけるのである。そうした価値を高く評価されて買収されたわけだが、何よりも重要なのは層の厚い家族経営者がいることだ。ミセスBの息子ルイが彼女のあとを継ぎ、そのあとをルイの息子ロンとアーブが引き継いでいるが、売り上げも利益も年を追うごとに伸びている。ミセスBの最大の貢献は、バークシャーの定年を塗り替え、一〇四歳にしたことかもしれない。事業を始めたのは四四歳のときだが、それから六〇年間、店のために尽くした。彼女の立てた営業方針は今も核としてしっかりと残っている。
 ミセスBのビジネスモデルは薄利多売。バークシャーのほとんどの経営者と同様、このビジネスモデルもごく自然に意識せずに見いだされたものだ。けっして教科書や授業で学んだわけでも、他の小売業者のまねをしたわけでもない。

 一九九八年八月一一日火曜日、ローズ・ブラムキン(一〇四歳)は、故イザドーの未亡人として、ルイ、フランシス、シンシア、シルビアの母として、一二人の孫、二一人のひ孫のいるおばあちゃんとして、そしてネブラスカ・ファニチャー・マート(NFM)の創業者としてオマハのゴールデン・ヒル共同墓地に埋葬された。(2)家族、友人、隣人から非常に尊敬されていたこともあり、葬儀に参列した人の数は一〇〇〇人を超えた。(3)しかし、このころすでに孫のアーブとロンによって経営されていたオマハの店は、その日も休まず営業している。「店を閉めることなど母は望まないと思いますから」と、娘のフランシス・バットがオマハ・ワールド・ヘラルド紙の記者に対して答えている。(4)
 一九三七年、ローズ・ブラムキンが四四歳のとき、兄弟から五〇〇ドル借りて創業したネブラスカ・ファニチャー・マートは、(5)彼女の忍耐力のおかげで、今やネブラスカ州オマハの中心部に七七エーカー(約九万四〇〇〇坪)の事業用地を所有し、一五〇〇人の従業員を抱え、家具・カーペット類・家電製品・電子機器等の年間売上高は三億六五〇〇万ドルに上る。利幅を業界平均より一〇ポイント下に抑えることで、市場を完全に支配し、家具の売り上げではオマハで約四分の三のシェアを獲得している。しかも、数量ベースでは全米最大の家具小売業者となっているのである。(6)NFMの六〇年間の歴史を通して売上高は常に増加傾向をたどり、毎年記録を更新している。従業員一人当たりの売上高は他の国内小売業者よりも四〇%多く、純利益率はほぼ二倍。年間売上高にいたっては、平均的なウォルマートの店舗の八倍以上もある。特に何がすごいかというと、一平方フィート(約〇・〇九平方メートル)当たりの売上高は八六五ドルで、これはホールセールクラブ(会員制倉庫型安売り店)最大手でディスカウント業界首位のコストコよりも一〇〇ドルも多いのである。帝政ロシア時代、まだつつましかったミセスBの駆け出しのころからは、とても想像できないことだ。
 一八九三年一二月三日、ローズ・ゴーリックはロシア帝国(現ベラルーシ共和国)のミンスク市に近いユダヤ人村シドリンで生まれた。父ソロモンと母チャシアの間に生まれた八人の子どものうちの一人だった。家は二部屋しかない掘っ立て小屋で、わら製のマットの上で寝ていた。当時のユダヤ人居留地ではよくあることだが、父は研究に明け暮れ、母は家計を支えるために食料品店を営んでいた。ローズは正式な教育を一度も受けたことがない。グラマースクール(小学校)にさえ行ったことがなかった。(7)わずか六歳のころから店の手伝いをしていたと、のちに回想している。(8)あるとき、「夜中に目を覚ましたら、母がパンをこねていた」のを覚えているという。「で、そのとき、こう言ったのさ。『ママがこんなに一生懸命がんばってるなんて、なんか悲しいよ。あたしが大きくなるまで、待ってて。あたしがお仕事見つけてアメリカに行く。そしたら、ママをアメリカに呼んであげる。(9)大きな町に行ったら、きっとお仕事見つかると思うの。ママをお姫様にしてあげるね』って」(10)
 一三歳になるころには、もう村を離れる覚悟を決めていたという。靴底を減らさないように靴を肩に背負い、最寄りの駅まで約三〇キロの道のりをはだしで歩いた。汽車に乗り、仕事を求めて訪ねた店は二五軒。そしてついに仕事をくれる店を見つけた。衣料品店だった。それから三年もたたないうちに、店をやりくりするようになり、男性従業員六人を従えるようになった。(11)
 一九一三年、二〇歳のとき、靴の販売をしていたイザドー・ブラムキンと結婚。しかし翌年、第一次世界大戦が勃発。皇帝のために戦う気のなかったイザドーは兵役を免れるためにロシアを離れた。(12)それから三年後の一九一七年、ローズは夫のあとを追ってアメリカに行こうと決意し、シベリア鉄道に乗った。シベリアまで来た彼女は、ロシアと中国の国境付近で兵士に呼び止められた。(13)兵士には「軍のために革製品の買い付けに行くところだ」と答え、「帰りにウォッカの大瓶を買ってきてあげるから」と言ったら通してくれたそうだ。(14)
 船で太平洋を渡り、ワシントン州シアトルに着いた。英語も分からず、入国ビザも所持していなかったが、幸い、ユダヤ人移民援助協会とアメリカ赤十字の計らいで、移民帰化局(INS)のお役所手続きをパスし、アイオア州フォートドッジで夫と合流することができた。(15)彼女は亡くなるその日まで、この町の名を「フォートドッチビー」と発音している。(16)おそらくロシアを離れたおかげだろう。彼女はここで命拾いすることになる。生まれ故郷の村ではユダヤ人二〇〇〇人のうち「一九〇〇人が新年祭の当日、ヒトラーに殺された」そうだ。彼女いわく、「村人たちは自分たちの墓を掘らされた揚げ句、[ナチスに]灯油をかけられて葬られたのさ。あいつらに皆殺しにされたんだ。村中の人たちが」(17)
 英語が話せなかったため、フォートドッジでのブラムキン一家の生活は困難を極めた。ある日、ミセス・ブラムキンは近所の人と話をしようとした。「父が亡くなったの」と言う隣人に対して、言葉の分からなかった彼女は、「それは結構なことで」と満面の笑みで答えてしまったという。あとでその意味を知ったとき、かなりうろたえたそうだ。それから何年もたってから、彼女は記者にこう話している。「英語が話せなかった。あたしは口の利けない人と同じ。だから、コミュニケーションをとるには、どこかもっと大きな町に行かなくちゃ、って思った」。(18)その「どこかもっと大きな町」がオマハだった。ここにはイディッシュ語とロシア語の両方を話すユダヤ系移民の小さなコミュニティーがあった。(19)
 一九一九年、オマハに落ち着いたイザドーとローズ・ブラムキンは古着屋を開店。商売は上々だった。(20)実際、四年もたたないうちに、子どものころに母にした約束を果たすことができたくらいだ。「母と父と七人の子どもたちをこちらに呼び寄せた」そうだ。「その子たちを学校に行かせた。家が大きかったから、みんなでいっしょに暮らした。で、結婚したら、仕事に就かせた。母はもうアメリカのお姫様だった」(21)
 両親と兄弟姉妹の世話に加え、ミセス・ブラムキンにも自分の子どもが四人いた。しかし一九二九年、株式相場が暴落。世界大恐慌となり、ミセス・ブラムキンは家族全員を食べさせるために、夫の仕事を手伝うようになった。夫を促して値下げを断行。品ぞろえを豊富にするように後押しした。斬新な宣伝方法もいくつか考えた。(22)その一つは、オマハの他の衣料品店の価格をチェックしたあとに思いついたものだ。だれもが財布のひもをきつく締めていた。なら、どんな人でも頭のてっぺんからつま先まで五ドルで身支度が整うようにすれば、商売は絶対に上向くはずだと確信したのである。「五ドルで売ります」と銘打ったビラを一万枚刷った。ビラを配ったその翌日、古着の売り上げは八〇〇ドルに達した。(23)
 とはいえ、彼女が家族のために一番努力したことは、一九三七年に兄弟から五〇〇ドル借りて、夫の古着屋から通りを渡ったところにあった質屋の地下室に家具屋を開いたことだ。(24)店の商品を仕入れるため、当時アメリカでは家具問屋の中心地だったシカゴまで出向いた。彼女はメーカーにこう言った。「オマハから来ました。店を立ち上げたばかりなんです。お金は今持っていません。でも信用してください。必ずお支払いしますから」。(25)「あんたと話をしていたら、あんたの言うことなら何でも信用できそうだ」。(26)メーカーからこう言われ、一万二〇〇〇ドル相当の家具を買い付けてオマハに戻った。と同時に、自分の店の名を決めて帰ってきた。シカゴのアメリカン・ファニチャー・マート(=一九二六年竣工の高さ一四四メートル、二九階建てのアールデコ風摩天楼)を目の前にして、ひらめいた名前は「ネブラスカ・ファニチャー・マート」。店の売り場の大きさは、幅約九メートル、奥行き約三〇・五メートルしかなかったが、そんな店にこの名をつけたのである。
 店がオープンしたのは一九三七年二月七日。彼女が語っているように、「広告を一回打ったら、すぐに客が来た」。(27)家具を卸値の五%上で仕入れ、一〇%上乗せして売った。彼女が生涯にわたって貫き通す一つの基本ルール「安く売り、正直であれ」はこうして生まれたのである。(28)ミセスBは、かの有名な全国展開のチェーン店よりもずっと前からディスカウント小売業者の先駆けとなっていたのだ。しかし時代が時代だったため、資金難に陥ることになった。店を始めてまもなく、取引先に代金を支払うため、家にある家具や電化製品を売り払わなくてはいけなくなったのである。(29)
 ミセスBの娘フランシス・バットが当時をこう振り返っている。「学校から帰ってみると、家のなかは空っぽになっていました。私たちはみな、子どもたち四人は泣きに泣きました。そのとき、母からこう言われたんです。『心配いらないから、心配しないで。そのうちもっといいベッドを買ってあげるから。台所のテーブルも新しいのを買うわ。でもね、この人にお金を返さないといけないの。これはどうしても大事なことなのよ』って。そう言われて、やっと私たちは落ち着きを取り戻しました。そして、もうお分かりだと思いますが、私たちも納得しました。母は一度口にした約束は絶対に守る人でしたから」(30)
 当然のことながら、ミセス・ブラムキンのライバル店にしてみれば、自分たちよりも安い値段で売られたら面白くない。安売りをやめさせようと、家具メーカーやカーペットメーカーに圧力をかけ、彼女に商品を渡さないように働きかけたのである。(31)彼女はこう回想する。「一九四二年になるまで、あたしにはだれも何も売ってくれなかった。売れ筋商品もあったのに、それを買うだけのお金もなかった。銀行も全然お金を貸してくれなかった。でも、あたしも結構利口だったから、銀行員の裏をかいてやったのさ。メーカーたちときたら、まったく何も売ってくれない。だから、よその町へ行くことにしたんだ」。(32)「よその町」にはシカゴ、カンザスシティー、ミズーリ、ニューヨークなどが含まれていた。遠くまで買い付けにいくため、コストがさらにかさんだが、それでもライバル店より安く販売することは可能だった。(33)
 一九五〇年、朝鮮戦争が始まり、アメリカ経済は大打撃を受け、家具の売り上げも低迷することになった。しかしミセス・ブラムキンは、例によって問題を克服する方法を見いだしている。「シカゴのマーシャル・フィールド百貨店に行って、アパート用のカーペットを三〇〇〇ヤード(約二七四三メートル)ほしいって店員に言ったのさ。実際、アパートを一つ持ってたからね。それで、マーシャル・フィールドでカーペットを一ヤード三ドルで買って、三・九五ドルで売った。そしたら、モホーク族出身の弁護士が三人やって来て、裁判所に連れて行かれた。不当な商売をしてるって訴えられたのさ。彼らはこのカーペットを七・九五ドルで売ってたんだ。三人の弁護士とあたし。あたしは自分なりの英語で、裁判官のところに行って、こう言った。『裁判官、あたしは何でもコストの一〇%上で売ることにしてるんだ。それのどこが悪いのさ? 客から何も盗んじゃいないよ』って。で、訴えは棄却。翌日、その裁判官が店にやって来て、一四〇〇ドル分買い物をしてくれた」(34)
 ネブラスカ・ファニチャー・マートの転機も同じく一九五〇年に訪れた。店には未払いの家具が山ほどあったが、手元のキャッシュは不足していた。「お勘定が払えなくて」と、のちに語っているが、「死ぬほど心配した」そうだ。七月のある日、地銀の副頭取ウェード・マーチンと話をしているとき、ミセス・ブラムキンは資金繰りの問題を打ち明けた。「店には家具があふれてるんだけど、これじゃ食べられないし。物事が何にも進ない。どうしたらいいのか分からなくて」
 すると、意外なことに、マーチンは未払いの商品を担保に五万ドル貸してくれるという。期限は九〇日。家具が売れれば、すぐにでも銀行に返済できる。申し出を受け入れ、融資契約にサインしたものの、その日は眠れなかった。「もう胸がドキドキして。万一返済できなかったら、どうしようかって」。しかし、ここでもまた彼女は活路を見いだしている。市の公会堂を借り切って、そこに家具を詰め込み、オマハ・ワールド・ヘラルド紙に広告を打った。三日間の売り上げは二五万ドル。おかげでこれまで抱えていた借金も五万ドルのローンも返済できた。以来、彼女は二度と金を借りることはなかった。(35)
 一九五〇年、ローズが四〇年近く連れ添った夫イザドー・ブラムキンが他界。一九四八年から店に出ていた一人息子のルイが経営を引き継いだが、親譲りの才覚であっという間に全国的に認められる小売業者となった。息子に経営権を引き渡したミセスBは、自分だけの縄張りとしてカーペット部門を担当することにした。ファニチャー・マートは無借金経営で賃貸料も利払いも不要。常に諸経費を低く抑えることができるため、依然として他社より二〇%から三〇%安く家具を販売することが可能だった。(36)おかげで、その後三〇年にわたり店は成長し続けることになる。一九七五年に竜巻に襲われ、店がほぼ全壊し、何百万ドルもの損害を被ったときも、なんとか乗り切ることができた。(37)
 この二〇年間、小売業界のトレンドのはるか先を行っていたミセスBは、顧客に対して永久不変の価値を提供してきたが、こうした価値の提供こそ、ディスカウント量販店やホールセールクラブの成長を促す一因となったものだ。彼女は革新的パイオニアとしてウォルマートのサム・ウォルトンに匹敵する女性だったが、そのコンセプトを全米中や世界中に広めるだけの能力はなかったし、そうしようとも思わなかった。顧客を満足させるために、厳選した商品と素晴らしい価値を提供することだけで頭の中がいっぱいだったのである。スリム化された経営陣は他の大手小売業者よりも多くの時間を売り場で過ごし、顧客と直接、顔を合わせるようにしていた。結局、成功の決め手となったのは、売り場でどれだけ時間を過ごしたか、ということだった。ミセスBの場合、ほぼ一〇〇%売り場に出ていた。「顧客との親密度では、大手のどんな小売業者にも負けないくらいだった」と、孫のアーブ・ブラムキンは言う。ミセスBは、顧客にとってためにならないことには一切お金を使わないことで有名だった。支出にはことごとくチェックの目が光る。バイヤーを一人も雇わず、買い付けはすべてミセスBと息子のルイが担当した。こうして経費を削減していることがさらなる安売りにつながるのである。
 一九八三年のある日、ウォーレン・バフェットがネブラスカ・ファニチャー・マートにふらりとやってきた。当時、店の総売り上げは八八六〇万ドル。一平方フィート(約〇・〇九平方メートル)当たりの売上高はなんと四四三ドルもあった。バフェットはミセス・ブラムキンに店を買いたいと申し出た。のちに彼女は記者にこう話している。「子どもたちから支配されることにいいかげん嫌気が差してた。で、考えたのさ。あたしが店を売ってしまえば、この男がボスになるんだって。彼はあたしの邪魔を一切しない人だったからね」。(38)そして、バフェットによれば、帳簿や棚卸資産のチェックもせずに、彼女はただこう言ったそうだ。(39)「全部ちゃんと払ってよ。銀行にはいくらキャッシュがあるのかい?」と。「そして私と握手したんです」とバフェットは言う。(40)このときの握手について、のちにバフェットはこう語っている。「アメリカの八大公認会計事務所なんかより、よっぽど彼女のほうが信用できます。イギリスの中央銀行と取引しているようなものですから」。(41)その後、バフェットはミセスBの息子ルイにこう漏らしている。「お母さんの怪しげな英語がときどき理解できなくて困る」と。ルイはこう答えた。「心配いりませんよ。母はあなたの言うことなら何でも理解していますから」
 その後、ミセス・ブラムキンの話では、店の価値は一億ドルあったそうだが、(42)彼女はバフェットに対して自社株の九〇%を六〇〇〇万ドルで売却することに同意している(ただし、その後、ブラムキンの一族がオプション〔株式購入権〕を行使して自社株を一〇%買い戻しているため、最終的にバークシャーが得た株式は八〇%分の五五〇〇万ドル相当となった)。(43)
 いよいよ正式契約に署名する日が来た。しかし英語の読み書きを学んだことのないミセス・ブラムキンは、書類に自分なりの印を付けただけで済ませた。(44)バフェットから小切手を手渡された彼女は、それをあらためもせずに折りたたみ、ひとことこう言った。「ミスター・バフェット、あたしたちの手でライバルたちを肉ひき器にかけてつぶしてしまいましょうね」。(45)こんな具合に簡単かつ迅速に事が運び、NFMの買収に絡む法的手続きや会計処理にかかった費用は締めて一四〇〇ドル。(46)こうして、この買収劇は普通に家を購入するよりも手早く安上がりに済んだのだった。
 しかし、なぜミセスBは店を売却したのだろうか。おそらく、全部とは言わないまでも、家業を手放す人たちの理由はたいてい同じではないかと思う。つまり、遺産税の問題を軽減すると同時に、家族や経営陣、従業員や顧客のために事業の存続を確実にするためだ。バフェットによれば、ミセスBは四人の子どもたちにそれぞれ自社株を二〇%ずつ持たせ、自身が残りの二〇%を保有していたという。しかし八九歳になったとき、今、店を売れば、家族にお金を分けてあげられると思ったようだ。(47)こうして売却した結果、その目的を達成したばかりか、十分な資本を有し買収によって事業を拡大していた無干渉主義のパートナーを得たうえ、家族のために自社株の二〇%をなんとか確保することもできたのである。
 バフェットは一九八三年度の『株主の皆様へ』のなかで、ネブラスカ・ファニチャー・マートを買収した理由を次のように説明している。「企業の価値評価をするうえで必ず自問することが一つあります。それは、弊社に十分な資本と有能な人材が備わっていると仮定したうえで、その企業とどのくらい競争したいと思うか、というものです。私ならミセスBやその一族と争うくらいならグリズリー(凶暴な灰色グマ)と格闘したほうがマシだと思います。仕入れは天下一品だし、ライバル企業が夢にさえ見ないような経費率を実現し、そうやって節約した分を顧客のために回している。まさに理想的な会社です。顧客のために格別の価値を創造する企業は、今度はそのオーナーのためにも格別の経済性をもたらしてくれるものです」
 バフェットの説明はさらに続く。「そして、経営者について言えば、遺伝学者たちもブラムキン一族を目の前にしたら、きっととんぼ返りするのではないかと思います。ミセスBの息子ルイ・ブラムキンはネブラスカ・ファニチャー・マートの社長を長く務め、家具や家電製品にかけては全米一のバイヤーとして名が通っています。『自分には最高の教師がいた』とルイは言っていますが、ミセスBも『あたしには最高の生徒がいた』と言っています。どちらも当たっていると思います。ルイとその三人の息子もブラムキン家ならではの実務の才と労働観を持っていますが、何よりも重要なのは、その人柄です。ともかく、みんな本当に良い人たちなんです。そんな彼らといっしょに事業ができるのは喜ばしいことです」(48)
 その翌年、九一歳になったミセス・ブラムキンは相変わらずフルタイムで働いていた。「家に帰ったら食べて寝るだけ」という彼女は、「あとはもう店に戻りたくて、夜が明けるまで、待ち遠しくて」と記者に語っている。(49)その同じ年、別の記者が彼女のことをこう表現している。「身長一五〇センチ未満、小柄、パッチリした目、情熱的な風貌のユダヤ版ヨーダ」(訳者注 ヨーダとは映画『スターウォーズ』に登場する、強いフォースを持った推定年齢九〇〇歳、身長六六センチのジェダイ・マスター)。(50)彼女の新しいボスもこう言っている。「名門ビジネススクールの主席卒業者か、フォーチュン五〇〇社の最高責任者と彼女を同じ条件で競わせたら、彼女のほうが圧倒的大差で勝つでしょう」(51)
 ミセスBの能力について、バフェットは次のように語っている。「彼女は顧客に最高の価値を提供する方法を心得ていますし、だれよりも良い仕事をします。それに、自分の知っていることと知らないことをきちんとわきまえています。つまり、私がよく言う“能力の輪”の境界を明確に仕切っているのです」。バフェットの説明はまだ続いた。それは投資の教訓としても非常に重要なものだ。「例えば、彼女に対してラグマットやエンドテーブルのようなものを一万枚あるいは一万個売りたいとします。この場合、彼女には仕入れのノウハウがあります。でも、売ろうとしているのがゼネラル・モーターズ(GM)の株一〇〇株だったら、どうでしょう。彼女は『やめとくよ』と答えるはずです。なぜなら、GMの株については何の知識もないからです」(52)
 一九八四年、ミセスBはオマハのクレートン大学から名誉法学博士号を贈られ、ワシントンDCのネブラスカ協会より名誉ネブラスカ州人賞を受賞。ネブラスカの財界においては栄誉の殿堂入りを果たしている。(53)ニューヨーク大学からは名誉商学博士号を授与され、業界リーダーとしては初の女性修得者となった。(54)それ以前に名誉学位を修得した人には、エクソン・コーポレーションのCEOクリフトン・ガービン・ジュニア、当時シティコープのCEOだったウォルター・リストン、当時IBMのCEOだったフランク・ケアリー、当時GMのCEOだったトム・マーフィーらがいる。「みんな優良企業の人ばかりだ」とバフェットがコメントしたところ、(55)「何てことないさ」とミセス・ブラムキンはいかにも彼女らしい答え方をしている。(56)
 五年後、ミセスBは九六歳になったが、まだまだ元気だった。朝六時に起床。九時には店に顔を出し、五時まで働いた。(57)だいぶ前からだんだん歩行が困難になっていたが、電動カートを購入することで問題を解決した。カートの愛称は「ローズB」。彼女はこれに乗って店中を疾走する。「ロシアのコサック(騎馬軍団)みたいだろ」と言いながら。(58)就業時間の終わりにはお抱えの運転手に運転させてオマハ中を回る。ライバル店とその駐車場をチェックするためだ。これが時には九時ぐらいまでかかることもある。いわく、「あたしにとっちゃ、家に帰るなんぞ最大の罰当たりさ」とのこと。(59)
 実際、あまりにも元気すぎて、家族との衝突は避けられない状態だった。一九八九年、ミセスBはまだカーペット部門を取り仕切っていたが、息子のルイはとっくにCEO(最高経営責任者)を引退し、会長になっていた。あとはルイの息子アービンがCEO、ロナルドがCOO(最高執行責任者)となり、兄弟二人で店の経営に当たっていた。ミセスBの孫たちは祖母に対して絶大な敬意を払っていたが、「自分たち流」のやり方で経営したいと考えていたため、女家長と衝突するようになっていた。
 どの創業者や起業家にとっても、長期にわたって直接関与してきた現場から離れるというのは一筋縄ではいかない問題である。ローズにとって、自分の手でつくり上げてきたものをほかの人に譲るのは、それがたとえ自分の家族であっても、かなり酷な仕事だったのかもしれない。一代目から二代目へ――彼女の場合は一代目から三代目へ――事業を引き継いで存続させていくためには、こうした秩序だった継承作業が必要だが、これが往々にして不和を生み、事業の衰退を招くか、廃業となることさえある。
 実際、カーペット部門はあたしの担当なのに、「あの小僧たち」は干渉しすぎだと感じていたミセス・ブラムキンは、五月に店を辞めてしまっていた。成功した意志強固な起業家たちがみなそうであるように、ミセスBにとっても、自分の誤りを指摘されたり、上から命令されたりするのは、それが自分の孫でも、不愉快極まりないことだった。のちに彼女は当時のことを記者にこう語っている。「辞める二カ月前だったか、あの子たちはあたしの権限をみんな取り上げたんだ。これじゃあ、もう何にも仕入れらないじゃないの。金は出してくれないし。しかも、メーカーにこう言ったんだよ。あたしと話をしたセールスマンからはもう買わないって。もうめちゃくちゃ頭にきたね。まったく何にも知らないくせに」。孫息子たちのことについて、ミセスBはさらにこう続けた。「よくまあ、お偉くなったもんだよ。で、ある朝、あんまり腹が立ったから、出て行ったのさ。そしたら、それまではパトロンみたいだったウォーレン・バフェットまでがあの子たちの肩を持ったんだ。以前は、あたしみたいなのはほかにはいないって言ってくれたのに。年齢にはこだわらない。いつも素晴らしい仕事をしてくれているからって――。あたしはあの男にだまされてたんだ。パトロンだと思ってたのに」
 しかし例によって、ミセス・ブラムキンはただ辞めただけではなかった。のちに彼女はこう語っている。「家に戻ってから、二カ月間ずっと泣いてたね。あまりにも寂しくて。いつも周りに人がいることに慣れてたから。でも、このとき、娘からこう言われたのさ。『ねえママ、また別のことを始めれば? また商売を始めたらいいのよ。損をしてもいいじゃない。これまでのことを気にしながら、いつも家にじっとしていたら、気がヘンになるわよ』って」(60)
 というわけで、一九八九年一〇月、九五歳のミセスBは自己資金二〇〇万ドルをつぎ込んで店をオープンした。その名も「ミセスBのウエアハウス」。場所はなんと、ネブラスカ・ファニチャー・マートの通りを挟んだ真向かいだった。(61)
 「あと二年長生きさせてほしいって願った。で、あたしがだれだか、あの子たちに見せてやろう。あいつらを地獄に突き落としてやるって思ったね」と当時、彼女は記者に語っている。もちろん、「あいつら」とは孫息子のことだ。「あいつらはあたしのことを年寄り扱いした揚げ句、気難しいとか言うんだ。家族のためにこの命をささげてきたのに。あいつらが大金持ちになれたのはあたしのおかげだよ。会長はこのあたしなのに、権限を取り上げるなんて。……一流だか何だか知らないが、あの孫息子たちは高級品しか知らないし、何かといっちゃ、すぐ休む。今じゃやたらに役員が増えてるし」と、無駄を省いた自らの経営手法と孫たちのやり方を比べながら、こう付け加えた。「やたらに会議ばっかりやってるし、長期休暇はしょっちゅう取るし、何もかも金のかかることばかりだ。だから、バフェットに言ってやったのさ。あたしが経営してたときの経費は七〇〇万ドルだったのに、今じゃ二七〇〇万ドルになってるって。最近は、どんなぼんくらでも社長や副社長になれるんだねえ」(62)
 皮肉なことに、ミセス・ブラムキンが孫息子たちと張り合って新しい店を開いたとき、ネブラスカ・ファニチャー・マートを創業したばかりのときと同じ状況に遭遇することになった。「ボイコットに遭ったのさ。ネブラスカ・ファニチャー・マートの差し金で、大手のメーカーがみんなあたしに売ってくれなくなったのさ。あいつら[=孫息子たち]がメーカーにこう言ったんだと。もしあたしに売るようなことがあれば、うちはもうお宅からは買いませんよって。ファニチャー・マートの年商は一億五五〇〇万ドル。あいつらのために、このあたしが全米最大の店をつくってやったんだ。だから、あたしとは競争したくなかったんだろうね」(63)
 「あいつらはゾウで、あたしはアリ」とは、新しい店を手伝ってくれていた孫娘のクラウディア・ベームにミセスBが語った言葉だ。たとえそのとおりであっても――在庫がわずかしかなくても、主要メーカーが商品を回してくれなくても、広告を打っていなくても、つまり、開店を「公に」していなくても、三カ月目には二五万六〇〇〇ドルの売り上げを達成していた。「あたしは速攻型の経営者だからね」とミセス・ブラムキンは説明している。「神様に感謝した。まだ頭もしっかりしてたし、ノウハウもある。才能だって……」(64)
 開店してからわずか二年後の一九九一年には、ミセスBの店は採算がとれるようになったばかりか、オマハで三番目に大きいカーペット専門のアウトレット店になっていた。(65)そして一九九一年一二月一日、九八歳の誕生日の二日前、ウォーレン・バフェットがミセスBの店にやってきて、「停戦」を願い出た。手には二四本のピンクのバラの花束と、重さが二キロ以上もあるシーズ・チョコレートの詰め合わせを一箱抱えていた。新しい店を開いて以来、二人はひとことも口を利いていなかった。それだけにバフェットがわざわざ来てくれたその心遣いにミセスBは感謝の意を表した。「彼はやっぱり本物の紳士だった」とのこと。それから数カ月後、ミセス・ブラムキンは「ミセスBのウエアハウス」をネブラスカ・ファニチャー・マートに四九四万ドルで売却している。(66)
 ミセスBが通りの真向かいに店を開いたことで、家族も当惑したが、客も混乱した。今回の出来事は家族経営の典型的な世代間闘争を浮き彫りにする形となったが、全体的に見れば、事実上の事業強化につながったと同時に、ミセスBの孫息子たちの経営手腕を証明することにもなった。つまり、創業者である祖母と激しい戦いを演じても、NFMの競争優位がいかに揺るぎないものであるかということが証明されたのである。そして、自分がいなくても店は存続し成長していく、ということを祖母自身も了解したのだった。結果、両者が仲直りした時点で共食い状態になっていたカーペット部門はすべてNFMの一部として統合されることになった。
 「うれしいことに、ミセスBがまた私たちと手を組んでくれることなりました」とバフェットはあとで株主に報告している。「彼女が築いてきた事業の歴史は、他のどんなものとも比べようがありません。パートナーであるときも、ライバルとなったときも、私はいつでも彼女のファンでした。でも本当のことを言えば、パートナーのほうがずっといいです。今回の契約では、ミセスBも“不戦条約”に快くサインしてくれました。彼女がまだ八九歳だったとき、私は買収を急ぐあまり、この点について配慮が足りませんでした。ミセスBはいろいろなことでギネスブック入りを果たしていますが、九九歳にして“不戦条約”にサインしたのも、間違いなくギネスものでしょう」(67)
 一年後、一〇〇歳になったミセス・ブラムキンは相変わらず週に六〇時間ファニチャー・マートで働いていた。だから、誕生日のお祝いも、もちろん店内で行われた。来賓にはネブラスカ州知事のベン・ネルソン、上院議員のボブ・ケリー、下院議員のピーター・ホーグランド、オマハ市長のP・J・モルガンらがいた。当時、彼女はこう語っている。「あたし、今、一人暮らしでしょ。だから仕事するの。家に帰るのが嫌なのよ。墓になんか入りたくないから働くの」(68)
 一〇〇歳になったとき、ミセスBは自分の人生をこう振り返っている。「七五年前、ロシアから渡って来て、店を始めたけど、一度もウソはついたことないし、イカサマもしたことがない。あたしはそんな大物なんかじゃないからね」。(69)これほどのシェアを誇る巨大事業を彼女はどうやって築き上げたのだろうか。孫息子のアーブ・ブラムキンによれば、「祖母には集中力とビジョンがあった」とのこと。今日も受け継がれているミセスBの店のモットーをここに記しておこう。

 一〇四歳の誕生日が近づくにつれ、ミセス・ブラムキンにもとうとう衰えが見え始めてきた。心臓病と肺炎、慢性気管支炎を患ってからは、これまでのように長時間働くことは不可能となった。NFMの一部となった「ミセスBのウエアハウス」の日常業務は孫のクラウディア・コーン・ベームとバリー・コーンに引き継がれたが、それでもまだミセスBは絶えず店と連絡を取り合っていた。一日に一回か二回、看護婦に車での送り迎えを頼み、店の様子を確認していた。短時間とはいえ、実際に車から降りて従業員や顧客の前に顔を出すこともあったが、たいていは孫娘が店から出てきて販売状況を報告した。それ以外にも一日に四回、店にチェックの電話を入れていた。「どうしても店の様子を知りたかったようです」とベームは言う。「ともかく四六時中、口を出していましたから、私たちは祖母の望みどおりに店を経営するようにしていました」(70)
 ミセスBが息を引き取ったのは一九九八年八月九日。一〇五歳の誕生日の四カ月前だった。彼女はネブラスカ・ファニチャー・マートや優秀な経営陣に素晴らしい遺産を残したが、それだけではなかった。数々の慈善事業も行っていたのである。例えば、オマハのユダヤ人連盟に一五〇万ドル寄付しているが、これでベッド数一一九床の療養施設が建設されている。ユダヤ人連盟になぜこのような高額の寄付をしたのかと尋ねられた彼女は、自分が初めてアメリカに来たとき、ユダヤ人移民援助協会から食事を分けてもらったので、このとき親切にしてくれたユダヤ系の人たちのためにいつか何かしようと心に誓ったのだと説明している。(71)
 また、オマハの繁華街にある古びた映画館アストロにも二〇万ドルを超すお金を出している。ビルが取り壊されるのは見るに忍びなかったようで、ビルの修復費用九〇〇万ドルの資金調達にも協力。ウォーレン・バフェットの娘スーザンが音頭を取り、ブラムキン家とバフェット家がそれぞれ一〇〇万ドルずつ寄付している。その後、映画館は「ローズ・ブラムキン・パフォーミング・アーツ・センター」として再びオープンし、一般には単に「ザ・ローズ」と呼ばれている。(72)
 とはいえ、ミセス・ブラムキンの一番の遺産は、何と言っても、ネブラスカ・ファニチャー・マートの驚異的な成功である。根っからの実業家である彼女は、どうすれば必ず成功できるか、本能的に心得ていたようだ。ミセスBにとって、自分の生涯を惜しみなく店のためにささげること――これが成功の秘訣だった。「どんな商売にも必要なのは良き経営者だね」と彼女は言う。「良き経営者は全身全霊、仕事に打ち込む。昼食に三時間半もかけたり、ラスベガスやハワイに行ったり、フットボールの試合を見に行ったりするようなヤツとは違うよ」(73)
 言うまでもなく、一番大切なのは顧客である。ウォーレン・バフェットに言わせると、「顧客第一主義をうたったものを読むと、どれもこれもミセスBが発案したものばかり」だそうだ。(74)それに実際のところ、ミセスBには客を引き付けるだけの魅力もあった。彼女はよくこう言っていたという。「いらっしゃいませ。何をお探しかしら? ほしいものがあれば、どれでもうんと勉強させてもらいますからね。……最高のお買い物をしてくださいね」(75)――こうして彼女のことを気に入った客がお得意さんになったのである。
 その反面、従業員を、とりわけ家族のメンバーを厳しく監督した。電動のゴルフカートで走り回りながら、「この役立たず! とんま! バカちん! そこ、ダラダラしない!」と、よく怒鳴り散らしていた。幸い、息子のルイが温厚な性格だったので、いらだつ従業員をなんとか静めることができたという。ミセスBが営業マンに食って掛かったときなどは、いつもルイがなだめ役に回り、従業員がクビにされたときは、ルイがまた呼び戻したりしていた。(76)
 家族や従業員に対してはやたらに厳しいミセス・ブラムキンも、幸せになるコツをきちんと心得ていた。九六歳のとき、記者にこう語っている。「成功して幸せになる唯一の方法は正直な人生を送ること――五〇年、六〇年と、そうやって生きていくことさ。それには人様を怒らせるようなまねはしないこと。そうすれば自分も気分よくいられる。これがハッピーライフというもんよ」
 自分が成功した理由についても、完璧に理解していた。「あたしが成功したのは、お客様と正直ベースで接していたからさ。あたしは本当のことを言うし、安く売る。そして、至らないことがあれば、ちゃんと直すよ」(77)

ビジネスの基本方針――ローズ・ブラムキン

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