■序文
私が初めて職に就いたのは17歳のときだった。シティグループのグローバル・コーポレート&インベストメント・バンキング部門の本部が、ニューヨークのダウンタウンのなかでも粋なトライベッカのグリニッチストリート三八八番地というところにオフィスを構えていた。2002年秋、私はそこのエリート部門であるフィナンシャル・インスティテューションズ・グループの信用リスク部門で、インターンとして働き始めた。そこはAIGやワシントン・ミューチュアルを初めとする数多くの主要銀行やブローカーディーラー、そして保険会社など、有名で収益性の高いシティバンクの顧客を担当している部門だった。
私は昔から数学が得意だった。しかし、この職場は私には場違いだった。まるで映画『ウォール街』のなかにいるようで、現実味がなかったのだ。私が育ったウエストチェスター郊外はマクドナルドすらなく、人口よりシカの数のほうが多いような田舎町だったので、その違いは比べものにならなかった。建物の四二階へと案内されて会議室に入ると、マンハッタンのミッドタウンが遠くにすっぽり収まるほどの広々とした景色が窓越しに広がっていた。私はそのとき察した――ここで働く人たちは世界に大きな影響を与えており、今そこに足を踏み入れ、そして、そこにいることのできる自分は幸運であるということを。
何千という顧客や外部企業のために、この部門ではどのようにして信用リスクを識別し、そして損失を少なくしているかという話を、私はうっとりしながら聞いていた。シティバンクが企業と密接に働きながら、合併や買収の助言をしているなんて、聞いているだけでワクワクした。カール・アイカーンはきっとこういうことをしているに違いない、そう思った。シティグループの貸借対照表(バランスシート)はけた外れの規模で、シティグループよりも権威あるウォール街の投資銀行ですら小さな存在に見えるほどだった。そのため何かしらの取引があるときには、シティグループはいつでもコンソーシアムに仲間入りすることを(時には斡旋人としても)許されていた。その日、一学期間ずっと継続できるインターン契約を取り付けて建物を出た私は、身なりの良い素晴らしい仲間と一緒に働けるというのは自分にとっての天職を見つけたと確信していた。
結局、私は「シリーズ7」と呼ばれる証券資格を取得し、学校に通いながら三年半もシティグループで働いた。その後は、メリルリンチのグローバル・リサーチ&エコノミクス部門に少しの間勤めてしてから、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に転職した。ちょうどそのころは、金融制度に生じた最初の亀裂がだんだんと明るみに出始めていたときだったが、その問題がどこまで広がるかは、その時点ではまだ分かっていなかった。約一年後の2007年後半、同紙で働き金融関連の情報を常に分刻みで追っていた私は、昔を懐かしく感じていた。仕事自体はおおむねうまくいっていたのだが、何の変哲もない普通の銀行業務とは違う、さらに高度な経験を求めていた。そこでウォール街へと舞い戻り、「ヘッジファンド」と呼ばれるいくつもの小さな組織で面接を受けることにした。そのヘッジファンドのひとつが、かの有名な投資家ジョージ・ソロスによって設立されたものだった。
あるとき、ソロス率いるクオンタム・ファンドで小売り関係か医療関係の企業を分析するアナリスト職に空きがあるということで、面接を受ける機会を得た。面接官だった20代半ばから後半と思われる二人の若いリサーチアナリストが私に投げかけた質問は、アニュアルレポート(年次報告書)に書かれた数字から、さまざまな業界で買いか空売りを仕掛ける機会を突き止めることができるかということだった。ほかにも簡単な質問にいくつか答えたものの、私が空売り――つまり株価がさらに下落することを見越したうえで株を借りてマーケットの現行価格で売ること――についてほとんど何も知らないことは、すぐに面接官に見透かされてしまった。私自身、まさか空売りの世界のど真ん中に身を置くことになるなど、そのときは夢にも思っていなかった。
クオンタム・ファンドで面接を受けたのと時を同じくして、CNBCから面接を受けに来ないかという内容の思いがけないメールを受け取った。私は、父が売買している株についてよく二人で話しながら一緒にCNBCの番組を見て育ったので、ビジネスニュースを扱うテレビ局がどのようなものか当然のことながら気になり、胸が高鳴った。CNBCのニュースデスクはまるで別世界だった。私は突然、ニュースがリアルタイムで秒刻みに流れている世界に足を踏み入れたのだ。熱気と活気、そしてまぶしいほどの照明――そのすべてが私をとりこにした。それまでの数年間、決算書や融資関係書類や与信契約書、そして取引のプレゼン資料ばかり読みふけっていたので、テレビ局のセットのなかで語られるキャスターの言葉を理解するのは何ら問題なかった。マスコミやテレビ局について正式に学んだことはなかったが、ウォール街での経験を買われて投資情報番組『スクオーク・ボックス』のプロデューサーの仕事を得ることができたのだ。
ヘッジュケーション――ヘッジファンドについて学ぶ
2008年2月、私がCNBCで働き始めて間もないころ、世界で深刻な問題が起こっていることを世間がやっと認識し始めた――不良債権と化したローンが原因で国全体の金融システムがまひしてしまったのだ。「ストラクチャード・インベストメント・ビークル(SIV)」や「信用デリバティブ」という言葉とともに、「サブプライム住宅ローン」という言葉が頻繁にニュースで聞かれるようになっていった。
同年四月ごろ、ヘッジファンドマネジャーのデビッド・アインホーンが、自らが空売りをしていたアライド・キャピタルとの六年間にも及ぶ戦いについて語った書籍『黒の株券――ペテン師に占領されるウォール街』(パンローリング)を発表するということで、にわかにアインホーンに注目が集まっていた。そんなとき、アインホーンがその翌月に『スクオーク・ボックス』の番組のなかで著書について話をしてくれることになった。番組の準備を始めた私は、まだ発売前だったその本の見本を取り寄せて読み、覚えておきたい個所や番組で話を聞きたい部分にさまざまな色の付せん紙を貼って印を付けていった。アインホーンの徹底的な調査ぶりと信念の強さを知った私は大きな刺激を受けた。自分のことを金融オタクだと思っていたが、私など氏の足元にも及ばなかった。
五月初めにアインホーンが番組のゲストとして出演したとき、私は自分の持っていた本にサインをお願いした。すると氏は、「この本をボロボロになるまで読み込んでくれたあなたは私のヒーローだ!」と書いてくれた。ボロボロになったのも無理はない。私は氏の物語に大いに共感したのだから。
その後、私はアインホーンと一緒に空売りに関する番組を作る計画を練り始めた――その番組のゲスト陣には、エール大学の教授やアインホーンの仲間のヘッジファンドマネジャーたちや友人たち、そしてパーシング・スクエア・キャピタル・マネジメントのウィリアム・アックマンらが名を連ねていた。それだけではない。SACキャピタルの元ポートフォリオマネジャーで、2006年に開催されたワールド・シリーズ・オブ・ポーカーというポーカーの世界大会で一八位だったニール・クリスを迎えて、番組の最後にポーカーの試合までした。クリスはアインホーンと渡り合えるほどのポーカープレーヤーだったからである。この番組はウォール街で大反響を呼び、CNBCには番組終了から何日もたっても、アイホーンらのような賢い投資家をこれからも継続して迎えていくことがとても重要だ、という意見が視聴者からのメールや電話で届き続けた。
その後、私は、ほかのヘッジファンドにはどんな賢い投資家がいるのか、そして彼らはどのような戦略を持っていて、どういった英断を下してきたのかを調べ始めた。それは簡単なことではなかった。ほとんどのヘッジファンドマネジャーは、投資家に対して認可外のマーケティングをしているのではとSEC(米証券取引委員会)に追求されることを恐れて、マスコミを敬遠していた。
つまり、目立つまいとするのがヘッジファンド業界であり、マスコミに対して口を開くようなマネジャーは珍しかった。ジュリアン・ロバートソンが優秀な「タイガーカブス」と呼ばれるグループを育てたこと、ジョージ・ソロスが1992年に100億ドル相当のポンドを売って「イングランド銀行をつぶした男」という異名を取ったこと、マイケル・スタインハルトが優れたトレードの手腕だけでなく気性の激しさでも知られていること――そういったすでに引退した伝説的なヘッジファンドマネジャーのことは、世界中のだれもが知っていた。
しかし、そのような伝説的人物のあとを継いだ投資家や、マーケットに何らかの足跡を残した投資家たちについてはどうだろうか。彼らが最近使った戦略は、以前の戦略とどのように違うのか。テクノロジーやトレードが進化していくなかで、ポートフォリオのマネジメントはどのように進化したのか。とても気になる疑問だ。この答えを探るために、初のスクープを追う新米ジャーナリストならばだれもが通る困難な道を私も歩む必要があった――それは学識者、研究者、業界紙、雑誌など、自分の手が届く業界のあらゆる専門家に接触を試みることだった。ヘッジファンドは進歩的で刺激的で複雑なトレードを自由に行っていた。ヘッジファンドについて知れば知るほど、私はさらに興味をかき立てられた。
それから三年間は、現在のヘッジファンド業界の中心人物たちと直接会う機会を少しずつ増やしていった。対談が実現するまでには一年以上(なかには二年)かかることがほとんどで、それも匿名だったり秘密裏に行われたりだった。私が本当にポートフォリオの構築や高いアルファ値(リスクや国分析に基づいて調整された、ベンチマークを上回るリターン)を生み出す方法などについて知りたがっていることにマネジャーたちが気がつくと、彼らも次第に多くの情報を提供してくれるようになった。さらに、ジュリアン・ロバートソンやマイケル・スタインハルトやカール・アイカーンなどから、『スクオーク・ボックス』についてお褒めの言葉をいただくようになった。それ以外にも、私はいろいろな投資家から継続して聞き取り調査を行い、彼らがヘッジファンド内で見たり、聞いたり、不安に思っていることを自分の肌で感じ取ろうとした。
このヘッジファンドの次世代リーダーたちについて調べ続けているうちに、あることに気がついた。それは、長期間にわたり常にマーケット全体を上回る成績を残し続けている投資家、つまり「アルファの達人」たちは、ヘッジファンドという共通点を持っていながらも、それぞれが極めてユニークな存在であるということだった。彼らが持っている戦略や世界観は、互いにまるで異なっていたのだ。彼らに共通する点があるとすれば、それはほかの投資家には見えないものが見えるということだ。2001年に起きたエンロンやワールドコム、そしてタイコのような大がかりな不正行為について最初に投資家に警告を発したのが、ジェームズ・チェイノスのような空売り投資家だった。チェイノスは七〇億ドルの資産を持つ世界最大の空売り専門のヘッジファンドであるキニコス・アソシエイツのトップである。六〇億ドルの資産を持つポールソン・アンド・カンパニーを率いるジョン・ポールソンは、2006〜08年にかけて起こったサブプライム住宅市場の下落を見越した投機売買を行い、150億ドルもの利益を得ている。
本書の動機
私の目標は野心あふれる現役投資家の話を伝えることである。素晴らしいトレードの構造やしっかりとした構想を得るための分析方法、そして自立心を持ってして信念を貫くために必要な自己意識とはどのようなものか――そういったことを理解したい読者のために、本書を執筆した。幸運にも、私は先に述べたマネジャーたちのオフィスを訪れて、彼らの話を聞くことができた。二年間で持った数百時間という対話時間は前代未聞である。
本書のための対談を受けてくれた投資家は全員、率直に話をしてくれたうえにその内容を公表することも許してくれた。それだけではなく、投資以外の話もたくさん聞かせてくれた。時にストレスを感じたり、反省したり、あるいは正真正銘の天才ぶりをうかがわせたりする彼らをこの目で見ることができたのは、とても光栄なことだった。
出張に同行させてくれた投資家や、出張の思い出を鮮明に語って聞かせてくれた投資家もいた。意外にも彼らを人間として見る機会に恵まれて、彼らの成功と失敗を共有できたことは、何よりも貴重である。そのような面白い経験をすることができたのは特別であった。この経験を通して感じたことを読者に正確に伝えることが、私の切なる希望であり願いである。
「ヘッジファンド」という誤った呼称
本書のためにいろいろと調べていくうちに、もうひとつの重要な疑問に直面した――ヘッジファンドとは一体何なのか。その質問を世界最大級のヘッジファンドで一二〇〇億ドルもの資産を運用しているブリッジウォーター・アソシエイツの創業者であるレイ・ダリオ(執筆時現在六二歳)に投げかけてみた。
「ヘッジファンドなんていう言葉は意味不明さ!」。コネチカット州のウエストポートにある森と池に囲まれたガラス張りのオフィスで、ダリオは椅子に腰掛けて半ば冗談混じりに叫んだ。
「私たちの基本構造から考えられたその呼び名も分類も、この職業の本質を捕らえていない」と皮肉を込めて言う。そして、「私は買いもすれば売りもする。だからといって、私がヘッジファンドになるだろうか?」と言葉の不自然さについて指摘した。
「それは違うだろう。私は自分のことを金融エンジニアだと思っている。初めは商品取引から始めたのでね。それが先物取引になり、それがまた進化してスワップ取引やデリバティブ(金融派生商品)になっていった。私は人とは違う方法で物事を分類することができたんだ。私は進化していったんだよ」
ヘッジファンドという言葉の定義にこのような要素が含まれているとは言いがたい。根本的に、ヘッジファンドという言葉は世界で最も洗練された多くの投資家たちを報酬体系だけで区切ってまとめたものである。ダリオは私に言った――「おそらく、あなたの本に登場するほかのマネジャーと私には何の共通点もないだろう。あるとすれば、それぞれが独自のことをしている優れた投資家集団だという事実だけではないかな」。
2011年のあいまいな信号
本書の取材のためにマネジャーたちに会っていた時期というのは、ちょうどマーケットが混乱していて、マネジャーたちも必死にその状況を切り抜けようとしているときだった。一九二九年の大恐慌以来、最悪のリセッション(景気後退)から抜け出したばかりで、その深刻な危機による悪影響がまだ残っており、ヨーロッパで急速に広がる債務危機の恐怖に米国マーケットも縮小していた。そのため、マネジャーの多くが2011年前半は防衛的になり、第3〜4四半期になってようやくマーケットに少しずつ舞い戻り始めたという状況だったのだ。
金融危機後の米国市場にとって、2011年は最も騒然とした年だった。世界各地で起こる大規模な経済先行不安の大きな圧力を受け、国の信用格付けも「AAA」から格下げされるという史上初の事態に陥った。さらに、ヨーロッパでは債務問題が膨らみ続けていた。しかし、そのような不安定な状況でも、S&P500は年初来比で0.1ポイント以内の差で引け、そしてダウは五・五%の上昇で引けるなど、マーケットは年初めからほとんど変わらずその年を終えた。
ヘッジファンドの業績はそれぞれで、ヘッジファンド・リサーチというデータ提供会社によると、年初来比で五・一三%減だった。年間下落の大きさは、1990年以来三番目にとどまったのだ。
このような騒然とした時期にマネジャーたちと会うのは困難を極めたが、彼らの考えを聞く良い機会でもあった。マネジャーたちは深く椅子に腰掛けて、自分の答えについてじっくりと考えるしかなかった。それまでの年と比べて2011年は誤算が多かったことを多くのマネジャーが認め、間違った思い込みや失敗について言及したのだ。
たしかにこの年の業績は精彩を欠くものだったが、業界資産は年間を通して増え続け、年末までには危機前の水準と同じ二兆ドル規模にまで増えた。ドイツ銀行が2011年12月に行ったオルタナティブ投資に関する調査によると、2012年の純流入額の予測は1400億ドルで、2012年末までには、業界資産は史上最高の2兆2600億ドルに上るとしていた。それまでは、ヘッジファンドの資金源は裕福な個人投資家たちであったが、このころには機関投資家が業界資産の三分の二を占めるだろうことがドイツ銀行の調べで分かっている。
それでも、この数字は弱いと注目を集めた。ヘッジファンドというものはアルファ――期待されているリスクを上回る利益――を生み出すはずではないのか、という疑問の声が上がったのだ。
しかし、世界で最も歴史のあるファンド・オブ・ヘッジファンズのLHCインベストメンツNVが行った調査によると、ファンドマネジャーたちは、ファンド創設時から2011年6月30日までの間に五五七〇億ドルもの純利益を投資家にもたらしている。さらに、そのうちの3240ドル(つまり52.8%)の利益が株式市場で得たものだとということも分かっている。
このマネジャーたちはいくつもの戦略を応用しながら、世間一般に公表されている情報を見て、ほとんどの投資家が見つけることのできなかった何かをその同じデータから見つけだしたわけだが、私にはその方法がどうしても分からなかった。
そのようなことが可能だった理由のひとつに、個々の信念の強さがあるに違いない。本書で紹介するマネジャーたちは皆、土壇場に追い込まれ、窮地に立たされるという経験をしている。それでも一歩も引かずに何回も窮地を乗り越えてきた。その持ち前の頑固さからマスコミに毛嫌いされることもあるが、彼らは自分が信じる真実についてだれにも負けない信念と確固たる自信を持ち、それをうまく利用しているのだ。
本書はそういったマネジャーたちのようになる方法を示す説明書ではない。むしろ、彼らの投資人生やこれまでの道のり、そしてそれがどのように成功につながったかを紹介するものである。最初から投資ゲームの仕組みを知ったうえでこの世界に入ったマネジャーもいれば、経験を積みながら独自のゲームルールを作っていったマネジャーもいる。しかし、それぞれの投資法に核となる自分の人格を吹き込んでいるという点では、全員が共通している。このことから、彼らのまねをするのが成功への道ではないということが分かるだろう。単に、成功する戦略を独自の方法で使う必要があるだけなのだ。読者の皆さんもトレーダーとして何度も打撃を受け、損失を被ることになるだろう。しかし、調査を怠らず、自分らしいトレードを行っていれば、必ず窮地を脱することができるに違いない。
人間は本質的に自らをさらけ出すものである(だれにでもというわけでも、常にというわけでもないが、いつしか自らをさらけ出す性質を持っている)。本書には、金儲けに成功した投資家たちの半生がつづられている。彼らは大物投資家である――つまり、世界中のほとんどの投資家を上回る優れた戦略を手に、秘密裏に成功したロックスターなのである。
だから私は彼らを「アルファの達人」と呼ぶ。彼らの語る内容が、私にとって興味深かったように、読者にも興味深いものであることを願う。
2012年4月
マニート・アフジャ
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