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ウィザードブックシリーズ Vol.288

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T・ロウ・プライス――人、会社、投資哲学 T・ロウ・プライス
――人、会社、投資哲学

著 者 コーネリウス・C・ボンド
監修者 長岡半太郎
訳 者 井田京子

2019年10月発売
定価 本体2,800円+税
四六判 414頁
ISBN 978-4-7759-7257-1  C2033

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著者紹介目次

チームワークとリサーチを重視する顧客本位な資産運用会社を創設

成長株投資に旋風を巻き起こした革新者!

T・ロウ・プライス(トーマス・ロウ・プライス・ジュニア)は、投資の世界の伝説になっている。彼の経歴を知らない人でも、彼が作ったティー・ロウ・プライスという会社については知っているはずだ。この会社は今日でも高いパフォーマンスを上げ、世界中で高い評価を得ている。控えめな人物で、倫理規定を生涯厳守した彼が、どのようにして偉大な金融会社を作り上げたのだろうか。その驚くべき物語を初めて明かしたのが本書である。

著者のコーネリウス・C・ボンドは、ティー・ロウ・プライスにテクノロジーアナリストとして入社し、プライス本人の近くで約10年間働いた。ボンドは、その特権的立場にいたことで、長年、平均以上のリターンを上げてきた成長株投資の概念を生み出したプライスの考え方について独自の見方をするようになった。本書は、プライスとの個人的な関係や、会社や個人で所有しているたくさんの未公開書類に基づいて、成長株投資が投資の世界に旋風を巻き起こした経緯を明かしている。また、本書を読めば平均的な投資家でも今日、この戦略の恩恵を受けるヒントが随所に見つかるだろう。

本書では、プライスの成長株投資の概念の中心的な原理を学ぶことができる。プライスは自らの投資戦略を秘密にしていたわけではない。しかし、本書ほど、彼が用いていた単純な原則を、包括的に、客観的に、容易な言葉で紹介されたことはない。プライスの投資の基本教義を垣間見ることは、個人にとっても機関投資家にとっても投資ポートフォリオを運用するうえで恩恵があることだろう。彼の戦略によって、投資スタイルが次々と変化していくなかでもティー・ロウ・プライスのファンドは長期間、比類ない伝説的な高パフォーマンスを維持してきた。これこそがT・ロウ・プライスの偉大さを証明するものである!

本書への賛辞

「T・ロウ・プライスは、投資界の偉大なパイオニアの1人である。彼は3つの革新的な投資法を生み出し、それらを自らの名を冠した優れた会社を使って実践した。この会社は今日でも競合他社や顧客から世界最高の投資会社の1社として高く評価されている。プライスはけっして分かりやすい人物ではなかったし、投資で成功するのもけっして簡単ではない。しかし、著者はプライスと彼の会社を分かりやすく紹介し、さまざまな洞察を与えてくれている」――チャールズ・D・エリス(『投資の大原則』『チャールズ・エリスのインデックス投資入門』の著者)

「倫理感あふれるプライスの人物像と成長株に対する理念を明らかにしている素晴らしい伝記。本書は、二〇世紀の投資界で最も成功したカリスマの1人であるプライスに光を当てている。彼の経歴や、会社を業界大手に育て上げたこと、そして投資理念は、伝記ファンにとっても投資家にとっても必読の書。また、著者自身の勤務経験が、この伝記の細部を充実させている」――レオン・G・クーパーマン(ゴールドマン・サックスの元ゼネラル・パートナー、オメガ・アドバイザーズの創設者兼会長兼CEO)

「投資の世界や投資のスーパースターに関心がある人に大いに勧めたい綿密で興味深い1冊。T・ロウ・プライスは、物静かな投資の巨人であり、不朽の投資伝説を生み出した人物でもある」――デビッド・M・ルビンシュタイン(ザ・カーライル・グループの共同創設者兼共同会長)


著者紹介

コーネリウス・C・ボンド(Cornelius C. Bond)
テクノロジーアナリストとしてティー・ロウ・プライスに入社するとすぐに頭角を現し、投資信託としてアメリカトップのパフォーマンスを上げたこともあるニュー・ホライズン・ファンドの幹部と投資委員会のメンバーに就任。T・ロウ・プライスの直属の部下として約10年間働いたあと、ティー・ロウ・プライス・グロース・ストック・ファンドの社長に就任。その後、ニュー・エンタープライズ・アソシエーツのゼネラルパートナーに転身。この会社は今日では米国最大級のベンチャーキャピタルとなっている。サンフランシスコに妻のアンとスタンダード・プードルと在住。

目次

監修者まえがき
まえがき
謝辞

第1部 はじまり
第1章 ドーバーロードの一軒家(一八九八〜一九一九年)
第2章 学んだこと(一九一九〜一九二五年)
第3章 マキュベン・グッドリッチ&カンパニー(一九二五〜一九二七年)
第4章 巨大ブル相場と暴落(一九二七〜一九二九年)
第5章 暴落のあと(一九三〇〜一九三七年)

第2部 プライス自身の会社
第6章 ティー・ロウ・プライス・アンド・アソシエーツの誕生(一九三七年)
第7章 「変化――投資家にとって唯一確かなこと」
第8章 会社の成長期と第二次世界大戦(一九三八〜一九四二年)
第9章 成長株の概念
第10章 戦後の時代(一九四五〜一九五〇年)

第3部 ボルチモアの賢人
第11章 新しいチャンス――投資信託、年金制度、そしてグロース・ストック・ファンドの発足(一九五〇〜一九六〇年)
第12章 変遷期(一九六〇〜一九六八年)
第13章 アメリカの新時代(一九六五〜一九七一年)
第14章 暗黒の新時代(一九七一〜一九八二年)
第15章 もうあの笑顔は見られない(一九七二〜一九八三年)

第4部 市場分析
第16章 次の一〇年間の投資(二〇一七〜二〇二七年)
第17章 グロース・ストック・ファンドのパフォーマンスが下がる(一九七〇年代)
エピローグ――今日のティー・ロウ・プライス

参考資料

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■監修者まえがき

 本書はティー・ロウ・プライス社の幹部社員であったコーネリアス・C・ボンドの著した“T. Rowe Price : The Man, The Company, and The Investment Philosophy”の邦訳である。この伝記の対象となったT・ロウ・プライスは成長株投資の先駆者の一人であり、彼の創設したティー・ロウ・プライス社は、株式や債券におけるさまざまな資産運用サービスを投資家に提供してきた。彼らは日本では主として機関投資家向けのビジネスに注力してきたために個人投資家の間ではこれまでその名はあまり知られてはいなかったが、グローバルに見ても大手の資産運用会社の一つであり、何より独特の投資哲学に基づいた一貫した運用と顧客本位のビジネスの堅持によって、広く業界関係者の尊敬を集めてきた。

 ところで、本書はT・ロウ・プライスの伝記であるとともに、ティー・ロウ・プライス社の社史の一部でもあり、同時期のアメリカ経済や株式市場のナラティブな歴史書でもある。読者は、同社が政治的・経済的な外部環境のさまざまな変化に翻弄されながらも、それらに適応して事業を継続してきたプロセスを目にすることになるだろう。これを読めば、日本と比較して各種金融関連の制度が整い起業が容易とされるアメリカにおいても、競争の激しい資産運用ビジネスを継続していくことはけっして簡単ではないことがよく分かる。

 私は同社が八〇年以上の歴史を持ち、現在も一流の資産運用会社であり続けていることを偶然だとは思わない。T・ロウ・プライス自身は確かに投資における天才の一人ではあったが、ティー・ロウ・プライス社の成功はこの組織に所属するすべての人々の行動の集積によって成し遂げられたものである。同社は創業者一人の能力に過度に依存することなく、独自の理念を保ちながらも、同時に知識を創造しながら自分自身を変えていくことができる組織であったがゆえに厳しい環境下でも生き残ってきたのだ。日本では残念ながら、同社に匹敵するだけの資産運用会社はいまだ出現していない。その意味では本書を読むべきは、成長株投資に興味がある個人投資家だけではなく、高い志を持った資産運用業界関係者すべてであると言えるだろう。

 2019年9月

長岡半太郎

■まえがき

 トーマス・ロウ・プライス・ジュニア(T・ロウ・プライス)は、一九三〇年代に「成長株投資理念」を考案し、発展させた。プライスは、その革新的なアイデアに想像力をかきたてられたバロンズ紙の編集者の依頼に応じ、一九三九年春に同紙に一連の記事を寄稿した。そして、新たに設立した会社で自らの理念を順守して、一六年間、顧客の資金を運用して好成績を上げた。この成功に自信を得た彼は、一九五〇年に彼にとって最初の投資信託であるティー・ロウ・プライス・グロース・ストック・ファンドを組成し、大手成長企業に投資した。そして一〇年後には、ニュー・ホライズン・ファンドを組成し、ライフサイクルの導入期にある新興成長企業に投資した。グロース・ストック・ファンドは、収入よりも成長を重視していたが、それでも組成から一〇年間のパフォーマンスが株の投資信託のなかで全米トップを記録した。また、ニュー・ホライズン・ファンドも最初の五年間と一〇年間のパフォーマンスが、投資信託部門の全米トップに立ったのである。このことは、当時発行されたアーサー・ワイゼンバーガー著『インベストメント・カンパニース』(Investment Companies)の投資信託のパフォーマンスデータに記されている。

 プライスの名を冠した会社は、アメリカ最大級のアクティブ投資会社に成長し、二〇一八年三月三一日時点の運用資産額は一兆ドルを超えている。

 ティー・ロウ・プライス・グループは、今日でもプライスの成長株の基本理念の多くを踏襲している。このなかには、長期運用、ファンダメンタルズリサーチの重視、そして株を買う場合は経営陣を知り、彼らに敬意を払うことが重要だということなどが含まれている。二〇一七年の同社の年次報告書によると、一〇年間のトータルリターンの平均リッパースコアはすべての投資信託の八一%を上回っており、長期的な高パフォーマンスを維持している。

 本書執筆に大いに貢献してくれたロバート・E・ホール(通称、ボブ)は、ティー・ロウ・プライス・アソシエーツで私と同じ時期に同僚として一〇年以上働き、傘下のグロース・ストック・ファンドとニュー・イラ・ファンドの両方で投資委員会の委員長を務めた。そして、のちにブラウン・キャピタル・マネジメントに加わり、スモール・カンパニー・ファンドの共同設立者になった。ホールによれば、このファンドは組成以来、プライスの成長株投資の教義に従って運用されている。彼とそのチームは、二〇一五年にはモーニングスターからその年の株の最優秀ファンドマネジャーとして表彰された。モーニングスターの発表によれば、このファンドのパフォーマンスは、それまでの三年間と五年間と一〇年間で、全米の投資信託のトップ一〇%に入っていた。また、モーニングスターが二〇一一年に始めたランキングでも、ファイブスターを獲得している。

 この資金運用の概念が、今日もプライスが八〇年前に考案したしたときと同じように有効なのは明らかで、それについてはこれから詳しく書いていく。この一見、単純に見える概念は、常識、あるいはプライスの祖母の言葉を借りれば「当たり前のこと」に基づいている。ただ、プライスは素人ではなく、普通をはるかに超えた投資の常識を持ち合わせていた。この控えめで倫理的な人物が、どのようにして業界屈指の投資信託会社を作り上げたのかについてはほとんど記録がない。しかし、長年積み上げてきた株の運用実績によって、プライスは二〇世紀のトップマネジャーの一人に数えられている。

 また、彼は株式市場に影響を及ぼす社会や政治や経済の長期トレンドを予想する驚くべき能力を持っていた。彼のトレンド分析によって、ほかの投資家がその変化に気づくはるか前に、有利な価格でポジションを建てることができたのだ。プライスは、真剣な投資家はときどきこのような長期トレンドを考慮してポジションを調整すべきだと考えていた。彼は、一九六五年に最後の詳細な予測を発表し、このような環境に備えてニュー・イラ・ファンドを組成した。そして、彼が予見した壊滅的なインフレが一九七〇年代に実際に起こると、このファンドは素晴らしいパフォーマンスを上げた。この時期、金は二〇倍以上上昇し、住宅ローン金利は一八%を超えていた。プライスの長年の考えに現在のデータや主要な変化を合わせた展望は、第一六章で詳しく紹介する。

 フォーブス誌(一九八三年一一月二一日号)はプライスの追悼記事のなかで、「彼が故ベンジャミン・グレアムのような影響力を及ぼさなかったのは、グレアムと違って自らの考えを明瞭に説明するタイプではなかったからだ」と記している。プライスはスピーチが嫌いで、またうまくもなかった。また、彼の考えをすぐに理解できない記者にはイラ立ちを見せた。ただ、彼の文章は明確で、綿密に練られていた。

 会社がまだティー・ロウ・プライス・アンド・アソシエーツだったころに、私は若いアナリストとしてカリフォルニア州パロアルトにあったヒューレット・パッカード(HP)の幹部の話を聞きにいくことになった。私はプリンストン大学を卒業し、エンジニアとして大学の研究所や、その後はウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーションで電気技師として働くなかで、ヒューレット・パッカードの頑丈で信頼できる機器を使ってきた。このとき、先方の担当者に急用ができたため、代わりに伝説の人物であるデビッド・パッカードが応対してくれるという幸運に恵まれた。この世界有数の成長企業を作り上げた人物が、オープンで機能的でシンプルな内装の自室で、その経緯を説明してくれたのである。

 自身も技術者のパッカードは、自ら鉛筆で描いたチャートを使って一九三九年の創業から二一年間の成長を振り返って学んだことを説明してくれた。彼らの製品はどれもスタートは遅かったが、そのあと急成長し、成熟期に漸減し、いずれ古くなって廃れていくということだった。

 パッカードは、成功する会社(プライスが「成長企業」と呼ぶ会社)を育てるカギとなるのは、長期間、定期的に新製品を出し続けることだとこれらのチャートから学んだと言っていた。そして、継続的に新製品を出す必要性から、生産性のある研究が極めて重要だということを悟ったそうだ。また、物理的な成長コストを賄うためには、設備や在庫や社員を増やすための十分な利益を上げる必要があるということも認識した。彼はこのような分析に基づいて研究費を大幅に増やした。このことは、経営トップがどこに多くの時間を割くべきかということをよく表している。

 あとになって知ったことだが、プライスは彼の新しい投資理論を最初は「投資のライフサイクル理論」と呼んでいた。また、デュポンで勤務した経験から、もし継続的に新製品を出すことができなければ、会社全体が自然なライフサイクルをたどって急速に成長段階から成熟段階に移行することにも気づいていた。

 会社の一年間の成長はわずかでも、長期間の複利的な成長は思いがけない投資リターンを生み出す。七%強(一ドルにつき七セント)の複利を維持できれば、一〇年間で売り上げも利益も二倍になる。一九六〇年代のヒューレット・パッカードのように一五%の成長率が維持できれば、売り上げも利益も五年で二倍になるのである。

 世界で最も成功した投資家の一人であるネイサン・ロスチャイルド男爵は、複利を「世界で八番目の不思議」と呼んでいたと言われている。

 本書では、プライスがどのようにして長期間、高い成長率を維持する会社を見つけていたのかと、どのようにして自分の会社を育てたかを描くとともに、トーマス・ロウ・プライス・ジュニアという人物についても掘り下げて紹介していこうと思っている。


■第6章 ティー・ロウ・プライス・アンド・アソシエーツの誕生(一九三七年)

 新しく設立したティー・ロウ・プライス・アンド・アソシエーツで、彼は古くからの親しい友人を除き、みんなからミスター・プライスと呼ばれていた。私たちのような下の世代ももちろんそうしていた。

 マキュベン・レッグを辞めたあと、T・ロウ・プライスはウォール街やそれ以外の会社の幹部の助言を得て、大きい会社で働くよりも自分の会社を一から作ることにした。彼は、だれかの下で働いて欲求不満になるよりも、自分の投資理念を貫いたほうが良い結果につながると信じていた。そして何よりも、心から信じることを仕事にしているほうが幸せだと思った。エレノアもその考えを全面的に支持してくれた。彼は新しい事務所のための物件を探し始めた。しかし、一九三七年にはそのような物件はなかなか見つからなかった。結局、彼はライトストリート一〇番地にあるボルチモア・トラスト・カンパニー・ビルの二九階の半分を借りることにした。ここは前の会社とわずか一ブロックしか離れていなかった。ボルチモア・トラスト・カンパニーはかつてはフィラデルフィア以南で最大の銀行で、大恐慌の少しあとの一九二九年一二月に完成したこのビルもその評判に見合う作りになっていた。このビルはボルチモアで最も高い三四階建てで、一階にある銀行の巨大な店舗部分はモザイクのタイルと、地元の芸術家によるボルチモアの歴史を描いた大きな壁画で飾られていた。ビルの外観はニューヨークのクライスラービルのようなアールデコ調で、ガーゴイル(怪物の彫刻)がライトストリートを見下ろしていた。屋根は銅葺きで、すぐに美しい緑色に変わり、純金でメッキされた太い梁が組み合わさっていた。

 この銀行は、大恐慌の初期から資金難に陥り、一九三三年の銀行休業日のあとも再開することはなかった。破産時の損失額は二〇〇〇万ドル(二〇一八年の価値で三億七四〇〇万ドル)を超えていた。

 一九三〇年代に破産した銀行の株主たちは、銀行に投資した資金を失っただけでなく、発行体が株式を発行しないような水準の低額面価格ではあるが、保有株の額面を上限に銀行の負債を返済することが目論見書に記載されていた。ボルチモア・トラスト・カンパニーの場合、裁判所によってこの金額は一株当たり五ドルと定められた。

 当時、破産の責任は銀行の幹部にあるとされていた。ボルチモア・トラスト・カンパニーの場合、裁判所は取締役に対して、適切な監督義務の不履行という重大な過失の責任を個人的として負うよう求めた。ボルチモア・サン紙によると、この会社の取締役はボルチモアの経済界の中心人物だった。彼らは全員起訴され、結局、合計で二五万ドル(二〇一八年の価値で四七〇万ドル)の追加的な支払いを命じられた。これは、二〇〇七〜二〇〇八年の金融危機のときとはまったく対照的である。センター・フォー・パブリック・インテグリティによると、「金融危機から七年たつが、住宅ローンバブルを煽り、巨額の利益を得たウォール街の巨大銀行の幹部で個人として責任を取った人は一人もいない」(アリソン・フィッツジェラルド、二〇一五年五月二二日)。

 この銀行は、自社ビルを一九三五年に明け渡した。そのあと、メリーランド州の公共事業団体が一部を使うようになったが、残りの部屋は空室になっていた。当時、借りれるようなテナントは政府機関か、地方や州や連邦政府と直接的なつながりを持つ機関くらいだった。そのため、プライスが一九三七年半ばに賃貸契約を結んだとき、事務所のスペースを余地はいくらでもあった。彼は、これまでの顧客のなかに新しい会社に口座を開設してくれる人がいることを願っていたが、景気の状況を考えるとどうなるかは分からなかった。プライスは、新しい顧客を探すうえで大事な手掛かりとなるボルチモアのエリートたちと強いつながりがあるわけではなかったからだ。

 ビルは理想的な場所にあった。ボルチモアの金融街に近かったが、そのなかではないことが、プライスの新会社の概念と合っているように思えた。また、エレガントな建物は、潜在顧客に良い印象を与えた。プライスの部屋は、ボルチモア・トラスト・カンパニーの社長室だったところで、美しい木彫りの装飾が施され、マホガニーの棚や大きな机、どっしりとした曲線が美しい椅子、そして座り心地の良い革のソファーなどが置かれていた。窓からの景色も素晴らしく、東側は市内や金融街からチェサピーク湾まで見渡せ、南側は活気あるボルチモア港が見えた。やはりチェサピーク湾が見える別の小さな角部屋には、近いうちにチャールズ・シェーファーが入る予定だった。ほかの社員はその間の大部屋に座ることになっていたが、マリー・ウォルパーはプライスの隣の小さな部屋を使うことになった。

 プライスがマキュベン・レッグを正式に退職したのは六月三〇日だったが、ウォルパーはその前の六月初めから新しい会社に異動していた。彼女は社員第一号だったが、最初は無給で働いてくれた。彼女はマキュベン・レッグでのプライスのイラ立ちも、新しい会社への志もよく分かっていた。これはプライスへの本物の信任の証しだった。三三歳で比較的安定していた仕事を辞め、大恐慌の影響が残るなかでプライスの新しい会社に、しかも前の会社で損失を出していた事業をやろうとしていることを分かったうえで移るというのは並大抵のことではない。ウォルパーの夫はH・J・ハインツ・カンパニーの営業マンで、金銭的な心配はあまりなく、その収入がのちに役に立った。初期のころに新会社の収益で経費を賄えないとき、ウォルパーは給料を受け取らないばかりか、多少の資金を融通してくれたのだ。例えば、会社がクリスマスに少額のボーナスを社員に支給するときをはじめ、何回か彼女は自ら資金を提供してくれた。のちに、プライスが会社の創成期について語ったとき、彼女の功績を大いに称えた。彼の日記には、彼女がクリスマス用に積み立てた資金を社員のボーナス用に提供すると言ってくれたことも書かれている。

 一九三七年七月一日の朝、プライスは豪華な真鍮のエレベーターのボタンを押して、二九階に向かった。ボルチモア・サン紙に正式な広告を載せ、新しい会社がいよいよ発足したのだ。新しい事務所では、プライスもウォルパーもやるべきことが山積みだった。まずは、新会社の法的手続きで、彼は個人事業主として最初から自分がトップであることを明確にしたかった。二人はこれまでの顧客に対して、良い意味で社交的かつ積極的に、彼らがうわさで耳にするよりも先に、プライスの新しい立場を伝えようとした。そして最後に、二人はプライスの一二年分の個人的なファイルや書類を前の事務所から移動した。プライスは、詳しい記録やチャートや報告書や手紙などを大事にしていた。

 一カ月後、イザベラ・クレイグもマキュベン・レッグから移ってきた。彼女はティー・ロウ・プライスの統計部門(といっても彼女一人だが)の責任者に就任した。ここでは、会社の投資データを追跡していくことになっていた。彼女は両親と同居していたため、会社の創成期の金銭的なリスクをとりやすい立場にあった。あと二人の創業者であるウォルター・H・キッドとチャールズ・シェーファー(通称、チャーリー)は、一九三八年一月三日に合流した。チャーリー・シェーファーの息子のピーターによると、合流が遅れたのは純粋に金銭的な理由であり、新しい会社を信頼していなかったわけではまったくなかったという。会社は創成期の収益がない時期に、彼らに給料を支払うことができなかったのだ。シェーファーとキッドはほかに収入源がなく、シェーファーは幼馴染のルース・スマイサーと結婚したばかりだった。彼らにとって、比較的安定した会社を辞めて、細い小枝のような新会社に身を寄せるのは難しい決断だったに違いない。

 また、二人の入社が六カ月遅れたのは、相場状況が影響していた可能性もある。一九三七年七月一九日にプライスが営業を始めたとき、ダウ平均は一七〇ドルで、八月一四日には一九〇ドルに上昇したが、そのあとは一九二九年以来の厳しいベア相場に入った。一一月には底を打ったように見え、年末にも一二〇ドル近辺を保っていたが、結局、底を打ったのは一九三八年三月三一日で、九九ドルまで下げた。もしかしたらこの急落がプライスに新しい事業を始めるタイミングを考え直すきっかけになったかもしれない。

 一月にシェーファーとキッドが新会社に加わったことで、プライスは成功をほぼ確信した。この二人の経歴や学歴やスキルを詳しく見ておこう。

 チャーリー・シェーファーは、一九一〇年にペンシルベニア州ヨーク市近郊のブリッジトンで生まれた。父親は最初はタバコ農家を始め、一時はタバコ会社を所有していたこともあったが、暴落と不況ですべてを失った。シェーファーは、奨学金でペンシルベニア州立大学に進学し、三つの仕事を掛け持ちしていた。また、ブリッジでの儲けも生活の足しにしていた。大学ではテニスで大学の代表チームに選抜され四年生では学年とフラタニティ(アルファ・シグマ・ファイ)の代表も務めた。商業と金融を学んで一九三三年に卒業すると、メリーランド州のハーバードクラブの匿名メンバーから奨学金を得てハーバード・ビジネス・スクールに進んだ。ハーバードの一年目が終わり、夏の仕事を探していた彼は、マキュベン・レッグでアナリストのサマーインターンを探していたプライスと出会った。一九三四年当時、このような仕事はほとんどなかった。失業率は史上最高で二五%を超えており、ここにはパートタイムや減給されながら働いている人たちは含まれていなかった。プライスとシェーファーは意気投合した。優秀で意欲のある営業マンの例に漏れず、シェーファーも面接で自分を売り込んだ。プライスはマキュベン・レッグのリサーチ部門で彼を雇い、彼がよく知るタバコ業界を調べさせた。一九三五年にハーバードのMBA(経営学修士)を修得すると、プライスはシェーファーにフルタイムのアナリストの仕事をやってみないかと提案した。シェーファーは資産運用部門に顧客を紹介するなどしてプライスと綿密に協力するようになり、しばらくするとリサーチ部門からプライス直属の投資カウンセラーの仕事に異動した。

 プライスとシェーファーはほとんどの点で正反対だったが、だからこそ良いチームになった。シェーファーは社交的で、気さくで、人付き合いがうまく、だれとでも友だちになったが、プライスはなかなか打ち解けず、神経質だった。シェーファーは直感的で、プライスは分析的だった。プライスが投資戦略と投資を考え、シェーファーが売り込むという棲み分けは自然な成り行きだった。

 ティー・ロウ・プライスの五〇周年を記念して行われたインタビューで、シェーファーは投資カウンセリングに魅力を感じた理由として、父親が一九二九年に下した投資判断がまずかったせいで家族が大変な目に遭ったことを挙げている。「私は、普通の人でも知識を持ってより賢く証券に投資すれば、景気が悪くなったときの損失を減らし、長期的には高いリターンを上げることができると思っています」

 三人目の創業者のウォルター・H・キッドは、一九〇七年にオハイオ州コロンバス市近郊の農家で生まれた。実家は乳牛の飼育と果樹園を営んでおり、子供のころはニワトリに餌をやったり、牛の出産を手伝ったりしていた。地元の学校を卒業すると、オハイオ州立大学で建築工学を専攻して一九二九年に卒業した。そして、オハイオ州のマウント・バーノン・ブリッジ・カンパニーに就職し、二年間、橋の設計をしていたが、不況で橋建設の事業は先がないことが徐々に分かってきた。彼は急いで次の仕事を探す必要があったが、友人にハーバード・ビジネス・スクールを勧められた。マウントバーノンで最後の橋が設計されているころ、彼はハーバード大学のキャンパスに足を踏み入れた。

 ハーバード大学を卒業したとき、景気は入学時よりもさらに悪化しており、求人は一つもなかった。しかし当時、マキュベン・レッグで株のリサーチ部門の責任者だったジョー・ベントが手違いで卒業式が終わってからハーバードに採用面接に行くということがあり、まだキャンパスに残っていたキッドはその面接を受けた。ベントからの返事はなかったが、キッドは礼状を出し、ビジネススクールの教授が提示してくれた短期のコンサルタントの仕事を受けることにした。ベントは礼状を見てキッドのことを思い出したようで、キッドを証券アナリストとして採用した。

 キッドはシェーファーと違い内向的なタイプで、たまにプライスやシェーファーと食事に行く以外、人と付き合うことがほとんどなかった。それでも、賢く、勤勉で、几帳面な彼は素晴らしい金融アナリストに成長した。彼は結婚しなかったので、プライスやシェーファーよりも自由な時間が多くあった。そのため、彼は証券アナリストの仕事に加えて新会社の事務部門を取りまとめ、CFO(最高財務責任者)や社内の相談役、そしてリサーチアナリストも兼ねていた。彼は、会社の帳簿を付け、会社で必要なさまざまな書類や報告書を作成し、弁護士が必要ない内部の問題を処理しながら、ほぼすべての顧客のポートフォリオに関するリサーチも行っていた。彼は会社にとって重要な存在で、常に忙しかったが、不満を言うことはなかった。

 キッドも、会社の隠れた精神的支柱だった。中西部の農家で育った彼は、何が正しくて、何が間違っているかについて高い道徳心を持っており、彼のなかでグレーゾーンやごまかしは一切なかった。プライスはビジネスでもプライベートでも常に最高の倫理基準を守っていたが、多少くじけそうになる瞬間があった。例えば、終わりが見えない役所の手続きや、複雑な仕事を早く終わらせるために法的手順を少しだけ端折りたくなるようなときに、取締役会議の隅で爆発が起こる。顔を真っ赤にしたキッドが、社長を見下ろして「あと少しじゃないですか」と力強く諭すのだ。キッドにとって、時間がかかっても、高くついても、ビジネスのやり方はただ一つ、正しい方法しかなかった。

 私はティー・ロウ・プライスに入社して最初の数年間、キッドの下で働いた経験があるが、当時の業界で最も優秀なアナリストの一人だったと思っている。彼は、分析対象の投資先としての良い点と悪い点を正確に見つけだすことができた。ただ、投資のタイミングはプライスの優れた第六感に任せていた。二人は素晴らしいチームだった。キッドがマキュベン・レッグを辞めたのは、プライスが提唱していた長期的でリサーチに基づく投資手法に共感していただけでなく、プライスが去れば会社はより一般的なトレード中心の方針に移行し、長期的なリサーチは重要ではなくなることが分かっていたからでもある。

 一九三〇年代の景気は、相変わらず株式市場に引きずられていた。工業生産は一九三七年半ばから一九三八年後半までの間に約三〇%も下がり、失業率は回復期で最低を記録した一九三七年の一四%から、いわゆる「ルーズベルト不況」で大恐慌の一九三三年に最高を記録した二五%に戻ってしまった。一九四〇年の大統領選挙に目を向けると、ルーズベルトは保守的な財政政策に転換して、財政支出を増加させた。景気は回復し、株式市場もそれに続いて一九三八年にはほとんどの時期で上昇した。結局、株はヨーロッパで第二次世界大戦が始まった一九三九年末まで下げなかった。

 新しい投資顧問会社が成功するためには、平均以上のパフォーマンスを上げることを明示する必要があった。そのため、プライスは会社が発足する前に三つの「モデル口座」を設定していた。これらのポートフォリオのパフォーマンスが、初期の主な営業の目玉となった。

 一つ目のポートフォリオモデルは、一九二六年よりもかなり前のエレノアと結婚した直後に設定していた。これは分散投資ポートフォリオという名称で、実は義父のガーキーの個人的な口座だった。ここでは成長株と、利息目的の社債と免税公債、元本保全のための短期国債に投資していた。この口座の目的は、元本と利息収入の両方を増やすことだった。これは、裕福なビジネスマン向けのポートフォリオで、彼らはティー・ロウ・プライスの初期のターゲット層でもあった。

 二つ目のポートフォリオモデルは、プライス・インフレーション・ファンドという名称で、一九三四年にプライスの成長株理論を試すために設定していた。この目的は、主に資金を増やすことで、二次的に利息収入の増加も狙っていた。名称は、のちにグロース・ストック・ファンドに変更された。一九三七年以降は、主にエレノアが父親から相続した資金が運用されていた。

 三つ目のポートフォリオモデルは、一九三七年に設定したウィリアム・D・ガーキー・トラスト・ファンドだった。ガーキーの死後、管財人はフィラデルフィア・ジラード・トラスト・カンパニーだったが、プライスが管理しており、成長株と非課税ファンドを保有していた。これは「バランス型」ポートフォリオになっていた(株と債券が約五〇%ずつの構成)。

 プライスは、長年かけてこのようなポートフォリオモデルを設定し、異なる投資戦略を試していた。そして、そのいくつかは、ずっとあとに新しい投資信託の基になった。これらのポートフォリオモデルは、統計担当が毎日細かく見て、記録されていた。最初の三つのポートフォリオモデルは、毎年外部機関の監査も受けていた。

 これらのモデル口座があったため、プライスは会社発足と同時に、顧客の目的に合わせてさまざまなファンド――〕喫,淵咼献優好泪鵑謀した資金を増やして利息収入を得るタイプ、⊆磴た邑けに積極的に成長株に投資するタイプ、J歇蘚に利息収入と資金の保全を重視した信託口座タイプなど――の長期パフォーマンスを示すことができた。それから何年間か、彼はポートフォリオモデルのパフォーマンスについて、顧客向けの広報誌や新聞や雑誌に寄稿する記事で頻繁に紹介した。これらのポートフォリオは、会社にとって不可欠なマーケティングツールだったのである。

 ポートフォリオモデルの追跡記録に加えて、新会社にはもう一つ資産があった。プライスの以前の顧客が新会社に資金の全部または一部を託してくれたのである。彼らは新会社でも高いパフォーマンスが上がっているのを見て、その後も信託資金を増やしてくれた。これは、マキュベン・レッグ時代と同じパターンで、顧客が友人にプライスを紹介するなどして最高の営業マンになってくれた。

 プライスはのちに、若い営業マンに高いパフォーマンスと優れたサービスを提供していれば、顧客自身が会社の将来の収入源を生み出してくれると何度も話していた。そして、新入社員には顧客へのサービスが最も重要視すべきことで、これ以外にはないということをたたき込んだ。「顧客に誠実に対応すれば、相手は長い間見返りを与えてくれる」。また、新しく営業マンになった社員には、もしティー・ロウ・プライスを辞めるときはどんな理由であっても、かなりの数の顧客がついていき、信頼と目先のキャッシュフローを与えてくれるだろうと率直に語っていた。プライスを成功に導いたほかの重要なカギは、誠実さとプロ意識と革新性と戦略的な考え方だった。

 会社が元々掲げた目標は、今から考えれば控えめだが、当時としてはかなり楽観的に見えた。目標は、二八人の社員で三九九口座を獲得し、三一万ドルの手数料収入を上げることだった。それができれば、利益が上がり、真っ当な給料を支払い、プライスも経営しやすくなる。彼にとって、会社を大きくするとか、莫大な利益を上げるということは重要ではなかった。単純にアメリカで最高の投資結果を上げたかったのだ。彼はかなりの負けず嫌いで、勝負には勝ちたかった。後年、若い社員の多くが、プライスが自分たちとさえ競っていると感じていた。良い仕事をしても、彼が励ましたり、ほめたりすることはほとんどなく、彼のアイデアに従っていればもっと良い結果になっただろうと言うのみだった。彼は厳しい上司だった。しかし、幸いにもこの会社には部下の背中をたたいて労ってくれるキッドとシェーファーがいた。



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