明治41年、15歳で奉公に出た種ニは、生涯の師と仰ぐ主人 山崎繁次郎のもとで、実家の借金返済という責任の上に、生来の勤勉さと体躯を生かし、米について一からを学び、めきめきと頭角を現す。修行時代の彼を動かしたのは「考え五両、働き一両」という祖父からの教え。人並み以上に努力をする彼に、主人 山繁をはじめ、終生をもって支えとなる多くの人々と出会いが訪れることになる。
大正の終わりになると、主人の他界や大震災という大打撃を経て、ついに彼は独立を決意。米相場については修行時代に多くを学び、すでに「売りのヤマタネ」としての片鱗を見せていた。売りを強みとする彼は、買い占めが嫌いだった。正米市場で育った彼には、人々にとってもっとも重要な米を買い占め、値段をつり上げて儲けることが我慢ならなかったのである。
しかし、彼が米相場で成功すればするほど、心よく思わない人々が増える。さらに軍国主義の背景が強くなり始め、米の売買もしづらくなると考えた彼は、いよいよ株式相場へと本格的に足を踏み入れる。
満州事変の年、金輸出再禁止を受けた株式相場は、数年に及ぶ大暴騰を見せ、ついに「買いのヤマタネ」として大成功を収めた。しかし、すべてがうまくいったわけではない。大きな痛手を追って金策に走ることや、不安感に押され血尿を出すこともあった。それでも相場の世界を去らなかったのは、「もともと裸ではじまったのだから、あらためて出直せばいい」という達観だったのかもしれない。
■序文
「そろばん」に生きた父 山�� 富治(山種美術館名誉館長)
世界経済が大きく揺れている今日、この本を少しでも経営に役立てていただければ幸いである。とにかく父は「そろばん」の達人であり、不況のときをも巧みに乗り切ってきた。
その生き方は、息子の私ならでは分からないことも多かったが、そばにいたときにはその偉大さまでは、身にしみてはいなかった。昭和四十九年に父が熱海来宮別荘に療養転地してから十年間、必ず毎週見舞いに訪ねるなかで、その偉大さ、優しさが徐々に私の身にしみてきたのである。
その父から「わざわざありがとう」などと言われると、たまらない感情がこみあげたものだ。そこには、怖かった親父の生来の人間味があふれていた。
八十九歳の昭和五十八年八月十日午後三時、ちょうど株式市場の大引けに亡くなったのも大相場師の真骨頂ではなかったかと思う。午後七時のNHKニュースで放送されるや、翌日には、あの田中角栄先生が自宅に弔問に来られるなど大変だったことを今でも思い出す。
とにかく、公私ともに話題の大きかった、「私の履歴書」である。この本には、息子の私が直接に教えられた格言や、父が自ら経験し体得した数々の実践談が掲載されていて、時を経た今でも新鮮で面白い。特に、「信為万事本」(信は万事のもとをなす)という信念こそ、一生を通じて自分のものになっていたように思う。
さて本書の中で、父が四十歳のときにかなり重い病気にかかって入院し「病気という先生に教えられた」と書き記している。そしてそのとき「万が一の場合には財産のことをどうするか、と遠回しに妻に話すと『私には子供達の教育費の分だけ残して下さい。あとは仕事のために、会社に……』と答えた。この時ほど家内が心強く思われたことはなかった」とある。たしかに父は、家庭を母に任せきっていた。
また、格言として大事に大事にしていたのは、「成名毎在窮苦日、敗事多因得意時」(名を成すはつねに窮苦の日にあり、敗れること多くは得意の時による)という対句である。これは、澁澤栄一翁が書かれた額皿で、終生、大きなよりどころとしていた。
しかし、一生の思い出は何といっても「空襲」のときのことである。
昭和二十年三月十日午前二時頃、米艦載機の焼夷弾を麹町三番町の自宅に直撃され、すぐに二階の屋根から火が吹いた。私も弟も、当時軍人教育の府立四中生として学校で教わったとおりに、池の水を頭からかぶって火消しにかかった。
ところが父は、台所の冷蔵庫からせっせと食料品を地下防空壕に運んでいる。さらに、われわれ息子に「止めろ! 自分の家だけ助かっても風が起きて類焼でやられてしまう!」と叫ぶのだ。そのときは、弟と二人で「親父は国賊だ」と叫んでケンカ腰となった。しかし、これがあとになって大間違いだと分かる。
その晩、麹町一帯は焼け野原と化した。その惨劇を目にしてようやく、大正十二年の関東大震災を経験してきた父の凄さに頭が下がる思いをしたものだ。
まだまだ父の思い出は尽きない。
初版から三十年もたってこの度、復刊のお話がきた。どうか、じっくりとお読みいただければ、「なるほど」という実感がわき出てくるものと思う。もうわずか数冊、家に残っているだけで、父の苦労話も風化してしまうところだったので、再出版されることは大変ありがたいと思っている。