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ウィザードブックシリーズ Vol.165

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テンプルトン卿の流儀
――伝説的バーゲンハンターの市場攻略戦略

2010年4月17日発売
ISBN 978-4-7759-7132-1 C2033
定価 本体2,800円+税
四六判 ハードカバー 318ページ

著者 ローレン・C・テンプルトン、スコット・フィリップス
訳者 鈴木敏昭


著者紹介 | 目次 | 読後の感想 | 関連書籍 | 読者のご意見
  ◆立ち読みコーナー まえがき ・ 第1章 バーゲンハンターの誕生 ・ 訳者あとがき(本テキストは再校時のものです)

バーゲンハンターの教科書!
「悲観の極み」が成功への第一歩!

 マネー誌が「20世紀最高のストックピッカー(銘柄選択者)」と称えた伝説的なファンドマネジャーのジョン・テンプルトン卿は、世界一流のバリュー投資家として尊敬され、グローバル投資を創始し、50年にわたって市場平均をアウトパフォームしたことで広く知られている。時代を超えたテンプルトン卿の原則と方法が、この本書によって初めて一般に紹介される。

 本書では、テンプルトン卿の実証済みの投資選択を貫く方法を概観したあと、最高の成績を上げたその歴史的事例を紹介するとともに、今日の投資家がテンプルトン卿の勝利につながるアプローチを自分のポートフォリオに取り入れる方法を説明する。そして、「悲観の極み」で投資するという最も有名な原則を詳しく述べたうえで、テンプルトン卿が「悲観の極み」の時点をとらえて成功につなげるために生涯を通じて用いてきたテクニックを解説する。

 本書ではテンプルトン卿の投資戦略の裏側が初めて明かされると同時に、次のことを学べる。

●ほかの投資家が悪材料に過剰反応しているときに冷静さを保つ方法を身につけること
●テンプルトン卿のような株式のバーゲンハンターになること、つまり、感情に突き動かされた投資家が投げ売りする株を買い、必死に買おうとする株を売ること
●世界に目を向け、幅広くバーゲン株を買えるようになること
●分散化を通じてポートフォリオを保護すること
●銘柄選択の際に定性的な根拠だけでなく定量的な根拠を基にすること
●どんな市場条件にも耐えられる実効性の高い投資戦略を採用すること


ジョン・テンプルトン卿の言葉は、今もウォール街の生きた格言として伝えられるものが多い。

「今回は違う」というワナ

欧州危機で世界の市場が荒れている。直接の原因は、市場にかかわる人々が繰り返す誤算だ。 (中略)

誤算の背景には人間の心理的な危うさがある。「4つの単語でできた言葉のなかで、もっとも高い代償を強いられるのは
This time is different(今回は違う)だ。
2年前に死去した米大物投資家、ジョン・テンプルトンの言葉は今、希望的な思い込みのツケを払っている。

住宅ブームの時は「今回はバブルと違う」と安心し、崩壊しても「今回は1990年代の日本とは違う」と楽観して、当局も投資家も痛手を被った。

日本経済新聞 2010/05/25「一目均衡」記事より一部抜粋

そのほかの掲載記事




原書『Investing the Templeton Way:
The Market-Beating Strategies of Value Investing's Legendary Bargain Hunter』


■著者紹介

・ローレン・C・テンプルトン(Lauren C. Templeton)
ローレン・テンプルトン・キャピタル・マネジメントLLCの単独所有者。サウスイースタン・ヘッジファンド・アソシエーション社の設立者兼会長。

・スコット・フィリップス(Scott Phillips)
ローレン・テンプルトン・グローバル・マキシマム・ペシミズム・ファンドの主任アナリスト兼ポートフォリオマネジャー。



■目次

まえがき

第1章 バーゲンハンターの誕生
第2章 悲観の極みのなかで最初の取引
第3章 グローバル投資の常識外の常識
第4章 日出ずる国に最初に注目
第5章 株式の死と強気相場の誕生?
第6章 バブルで空売りするには及ばない
第7章 危機はチャンス
第8章 歴史的押韻
第9章 債券が退屈でなくなるとき
第10章 眠れる龍の目覚め
おわりに

訳者あとがき

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■まえがき

 九五歳の誕生日を目前にして、私は今日ほど生きるのに良い時代はないと感じている。信じられないほどの繁栄の時代に生まれたことを私たちは深く感謝すべきである。私はこの年にしてなお、持てるものほぼすべてをテンプルトン財団に捧げている。財団は世界中の人々のために精神的富を築き上げることを目的としている。
 投資の助言を求め、グローバル経済を懸念する投資家の手紙が今でも届く。歴史を通じて、人々は投資でも生活全般でも困難から生じる好機というものにほとんど目を向けようとしていない。私が生きてきた時代は数え切れないくらいの目覚ましい偉業の恵みを受けてきた。二一世紀は素晴らしい希望と輝かしい約束にあふれており、恐らく好機に満ちた新黄金時代となるであろう。

 本書は私の投資の歴史を簡明にまとめたものである。そのなかで、兄の孫娘であるローレン・テンプルトンと夫のスコット・フィリップスがバーゲンハンターの投資精神を説明している。世の中にはたくさんの投資方法があるが、私は本質的価値に比べ非常に割安な株式を買うことで最大の成功を収めてきた。投資キャリアを通じて、その時点で最良のバーゲン株を世界に求めてきた。研究によれば、一国に限定された単純な分散ポートフォリオよりも、世界に投資する株式ポートフォリオのほうが長期的にはボラティリティが低く、リターンが大きいことが示されている。どんな投資計画でも分散化を基本としなければならない。
 キャリアを通じて用いてきたひとつの原則は、悲観の極みで投資するということである。言い換えれば、悲観の頂点でこそ最も楽観的になる必要がある。

 本書では、ひとつの銘柄、ひとつの業種、ひとつの国について悲観の極みを見いだすために私が生涯用いてきた方法が説明されている。
 日常生活のほぼあらゆる活動において、人は見通しが最も明るいところを目指す。将来有望な業界に職を求めるし、見通しが最良の地域に工場を建設しようとする。だが、上場された投資対象を選ぶ場合にはその反対を実行しなければならないと私は主張する。今、企業の価値に比べ最も割安な価格で株を買おうとしているとする。このとき、株式がバーゲン価格で提供される理由はひとつしかない。ほかの投資家が売っているということだ。それ以外の理由はない。バーゲン価格で買うには大衆が最も恐れ、最も悲観的になっているところを探さなければならない。将来の強力な収益力を割安な価格で買えたときは常に良い投資と言える。それを実現する方法は他人が売っているときに買う以外にない。投資家はなかなかこの考え方を実践に移せない。大勢の意見に逆らって行動することは容易ではない。私は投資キャリアを通じて次のモットーに従ってきた。

 他人が絶望して売っているときに買い、他人が貪欲に買っているときに売るには、最高の精神的強靭性が必要となるが、最終的には最高の報いが得られる

 読者が本書を読むことによって、安く買い高く売るために必要な技能と自信を自分のものとすることを希望する。多くの場合、その達成には人気の対象を避けることが必要になる。そのためには次の助言がお役に立つのではないかと思う。
 強気相場は悲観のなかで生まれ、懐疑のなかで育ち、楽観とともに成熟し、陶酔のなかで消えてゆく。悲観の極みは最高の買い時であり、楽観の極みは最高の売り時である。

   二〇〇七年九月
                         

ジョン・M・テンプルトン



■第1章 バーゲンハンターの誕生

「私が大学二年になったとき(一九三一年)、もうこれ以上教育費を出してやれないと父は申し訳なさそうに言った。そのときは悲劇のように思えたが、今となってみれば、起こり得る最高の出来事だった」――ジョン・テンプルトン卿

  人間の個性のほとんどは成長期に形作られる。私の大叔父に当たるジョン・テンプルトン卿(「ジョン叔父さん」と呼ぶ)の場合も、人生や投資、慈善についての考え方のほとんどが子供時代に根ざしていると言っていい。テネシー州ウィンチェスターの小さな町で育ったジョン叔父さんは、さまざまな価値観を両親のハーベイとベラから授かった。その価値観はどんなときもどんな状況でも行動指針の役目を果たした。青年時代のジョン叔父の主な資質といえば、倹約に努め、勤勉で、好奇心にあふれ、静かな自信に満ちていた。性格を一言で表せと言われたら「どこまでも楽観的」と私は答えたい。あとで説明するように、この資質は両親のユニークな自由放任主義と大恐慌の時期と重なる青年期の強烈な体験に基づくものだった。より重要ななのは、将来、世界最高の投資家のひとりと呼ばれるようになる人物の基礎が、そうした資質と社会的体験によって形作られたことだが、その過程をこれから探ってみたい。

 ジョン叔父さんは、投資スタイルの点でバリュー投資家として分類されるのが普通だ。「バリュー投資家」という言葉は、『証券分析』(パンローリング)を書いた大投資家ベンジャミン・グレアムのイメージを思い起こさせる。グレアムは、もうひとりの世界的に有名な投資家ウォーレン・バフェットの手本となり、その投資スタイルを形作ったとされている。端的に言って、ジョン叔父さんが投資アプローチとしてグレアムの初期の方法を用いたことは間違いない。だがジョン叔父さんは後になって、実際的方針として多用されるその有名な方法について解説を行っている。そこで、ひとまずはベンジャミン・グレアムの教えを脇に置いて、バリュー投資家の簡単な定義を試みることにしよう。バリュー投資家とは、自分が真の価値と考える価格以下で特定の資産や事物を取得しようとする人をいう。この定義では、資産や事物の価格が真の価額や価値と異なることがあり得るという単純だが本質的な前提が核心をなしている。

 ベンジャミン・グレアムの教えを信奉する大勢のバリュー投資家の例から推測して、ジョン叔父さんも『証券分析』を読んでその方法を応用したことがその後の歩みにつながったと考える人がいるかもしれない。だがそれは必ずしも完全に当たっているわけではない。ジョン叔父さんは1930年代の青年時代に投資顧問業を始めようとして『証券分析』を手に取るずっと前から、すでにバリュー投資家として目覚めていたのだ。

 ジョン叔父さんが子供のころ、父親(私の曾祖父)のハーベイ・シニアはウィンチェスターで弁護士をしていた。オフィスは町の広場に面しており、窓から郡裁判所を見下ろすことができた。一九二〇年代後半から大恐慌時代にかけて、ハーベイは弁護士業の副業で財を成す方法を何度も試みた。たとえば綿繰り機の稼働や、保険の販売、貸家、農場を中心とした不動産買付けなどを手掛けたりした。面白いことに、当時少年だったジョン叔父さんがバリュー投資の最初の教訓を教わったのは農場買い取りの仕事からだった。ジョン叔父さんの話では、一九二〇年代の農場経営の収益は平均年間二〇〇ドルほどとかなり低いのが普通で、破綻する例が後を絶たず、運が悪ければ差し押さえをくらった。たいていの場合、差し押さえられた農場はウィンチェスターの町広場で競りにかけられ、最高入札者に売却された。

 広場で農場の競りが行われるとき、ハーベイ・シニアは非常に有利な立場にあった。二階のオフィスの窓から競りの展開をつぶさに眺めることができたのだ。競り手が現れないと見るや、オフィスを出て階段を降り、広場に行って物件に値を付けた。そうすると、だいたい元の価値の数%で農場を手に入れられた。一九二〇年代半ばには保有物件の数は六件に増えていた。少年時代にそうした商いを目にしたことが、ジョン叔父さんの最も有名な投資アプローチの最初の源泉になったと想像される。そのアプローチとは彼自身が「悲観の頂点」での買い、あるいは「悲観の極みの原則」と名付けたものだ。読者が想像するとおり、実際の価値よりもずっと割安な価格で買った農場はやがて大きな富を生み出すようになった。ジョン叔父さんの兄のハーベイ・ジュニア(私の祖父)は数十年後にその物件を商業施設や住宅のデベロッパーに売却した。

 後になってみれば、農場に別の買い手がまったく現れなかった事実を意外に思うかもしれない。だが、数十年に及ぶ資産運用者としてのジョン叔父さんの偉大な投資歴を見ると分かるように、世界の株式市場ではまさにそうした状況が何度となく繰り返されてきたのだ。叔父さんが用いた投資哲学は、彼の父親が、ほかの買い手が現れないときに裁判所の階段まで駆けつけて本来の価値よりもずっと低い価格で農場を買った方法とたいして変わらない。競りのとき買い手がひとりしかいなかったら、好きな価格で(恐らくただ同然で)買えることは容易に分かるだろう。この関係をもう少し先に進めてみれば、株価が下落して「売り一色」になると買い手の数が減少するという状況につながる。この状況は株式市場の大きな皮肉のひとつと言っていい。逆に、株価がどんどん値上がりするときは人気にあおられて次々と買い手が現れる。幼いジョン叔父さんは、農場に価値があっても買い手がいなかったら本来の価値の数%で高価な農場が買えるのを目撃した。その印象が生涯を通して深く心に残ることになった。

 時には他人の成功を見てそれを真似ることで貴重な教訓が得られる。だが、もっと賢い人は失敗例を見て自分はそれを繰り返すことなく経験として身につける。つまり、賢い人は自分の失敗から学ぶが、もっと賢い人は他人の失敗から学ぶ。ジョン叔父さんの成長につながった次の教訓も父親から得たものだ。だが今度は幸運とはまったく逆の状況がきっかけだった。

 前に述べたように、ジョン叔父さんの父親はたくさんの冒険的事業に手を出した。彼が所有し経営する綿花工場と担保付き綿花倉庫は、テネシー州フランクリン郡に三つしかない事業所のひとつだった。当時その事業は比較的実入りが良かった。まだ紹介してなかったが、曾祖父には、一族のなかで彼をよく知る者が言うような「山師的」な面があり、いつも一山当てる機会を狙っていた。たとえば、そうした試みのひとつとして、ニューヨークとニューオリンズの綿花取引所で綿花先物に巨額の投資を行っていた。ジョン叔父さんや祖父からよく聞かされた話だが、ある日曾祖父は家に戻るなりこう言った。「子供たち、よく聞きなさい。わが家は金持ちになった。綿花先物市場でお前たちが想像もできないほどの大金を稼いだのだ。もうお前たちは一生働かなくてもすむ。お前たちだけじゃない、子供や孫だってそうなんだ」。少年たちは飛び上がって喜んだ。だがそのわずか数日後、家に戻ったハーベイ・シニアは子供を見てこう言った。「何もかも失った。破産だよ」

 息が詰まるほではないとしても感情を大きく揺さぶられる富から絶望へのこうした急変を目撃したことが、ジョン叔父さんにとって、リスク管理や金融市場で得た資産の危うさに関する最初の教訓に結び付いたに違いない。頂点と奈落を行き来するそのような出来事が曾祖父のビジネスライフの典型をなしていた。つまり、衝動的な事業取引と無貯蓄のせいでいつも経済的に不安定な状態に置かれていた。年老いてからは、ジョン叔父さんや祖父から借金してその習慣の資金に充てることさえあった。明らかに、若いころこうした出来事を目の当たりにしたせいで、ジョン叔父さんと祖父は倹約をとても大事にするようになった。成人した二人の子供は、お金を貯める創造的な方法を活用することで倹約を「芸術的」レベルにまで高めた。二人とも常に貯蓄から安心と安全が得られることを学んでいた。

 ジョン叔父さんがいつも語っていたことだが、最初の妻ジュディスとの結婚してすぐ投資事業を始めるためにニューヨークに引っ越したころ、収入の半分を貯蓄に回すのを習慣にしていた。一ドル稼ぐと五〇セントを投資に回したのだ。叔父さんによれば、この高率の貯蓄をやり通すため二人はそれを一種のゲームに変えた。最初、ニューヨークの家具なしアパートに引っ越したときは、新聞を隅々まで当たって家具のオークションや不動産の売り物を探した。そして最終的には五部屋のアパートの家具を二五ドル(興味ある読者のために付け加えるなら、二〇〇六年の水準に換算して約三五一ドルに相当)で取りそろえた。市内のレストランが出す素晴らしい特別料理コースを含め、狙ったバーゲンの獲得のために友人たちの協力を仰ぐことさえあった。ちなみにその料理コースの値段は五〇セント(今の水準で七・〇三ドル)だった。

 叔父さん夫婦は完璧なバーゲンハンターとなった。彼らのバーゲンハンティングは安い品を買うというよりも掘り出し物を見つけることに重点があった。ジョン叔父さんにとって自慢の取引のひとつは二〇〇ドルのソファベッドを五ドルで買ったことだった。当時はまだ大恐慌からのゆっくりとした回復の時期にあり、個人破産やほとんど買い手のいない競売をうまく利用することができた。数年後、最初の子供ジャックが生まれて二人はニュージャージー州エングルウッドに引っ越した。この時現金五〇〇〇ドルで買った新居は、五年後に一万七〇〇〇ドルで手放した。ちなみにその五年間のリターンは年複利約二八%に当たる。まだ叔父さんの株式投資の話をしていないこの段階では悪くない結果と言っていい。この例でもそうだが、彼が必ず守った根本原則は現金払いにすることだった。現金払いなら「常に利息の払い手ではなく受け手になれる」。この原則は生涯を通して大事に守られた。住宅ローンや自動車ローンを使うことは一度としてなく、厳しい時期でも現金で払うために常に十分な貯蓄を維持していた。

 ジョン叔父さんに関するこれだけの話でも分かるように、バーゲンハンティングは投資に限らない。むしろ、叔父さんにとっては現在に至るまでしっかりと続く強力な人生哲学だった。できるかぎり最良の取引を追求することは絶対的な基本姿勢だった。ジョン叔父さんとジュディスが掘り出し物を見つけるためにかけた手間は注目に値する。というのは、叔父さんがのちに世界のバーゲン株を発掘するために用いた集中的な探求プロセスとほとんど同じものだからだ。割安株を求めてバリューラインの株式レポートや企業の報告書などの資料をじっくり研究するのは、ある意味で、自分が想定する真の価値以下の売り物を買おうとする生まれつきの欲求の表れだった。叔父さんは対象が家具や家、食事、株式、債券のどれであろうと、ひたすら掘り出し物を探し求めたのだ。

 もうひとつ注目すべきことは、ジョン叔父さんのバーゲンの基準が普段の買い物にはっきり表れているということだ。その考え方は普通の人に比べてやや極端とも言える。実際の数字の見当を示すために言えば、想定される価値の八割引きで売られていなければ掘り出し物と言えないというのが叔父さんの口癖だ。つまり、価値の二〇%の価格で売られていなければ――さらに言い直せば一ドルのものが二〇セントになっていなければ――良いバーゲンとは言えないのだ。それだけの値引き品を見つけるのは容易でないだろう。だがこの割引率は有用な目標となる。

 ジョン叔父さんがなぜそれほど極端な倹約とバーゲンハンティングを習慣にしていたのかと不思議に思う人もいるに違いない。そこには十分な理由があった。自分の信条に従うということだけでなく、投資顧問業を始めるのに必要な資金を意識的に集中して貯めるためでもあった。最終的にその目標は達成された。ジョージ・タウンという年配者が経営していた投資顧問会社を買い取ったのだ。会社には八人の顧客があり、買収価格は五〇〇〇ドルだった。叔父さんは会社名をタウン・テンプルトン・アンド・ドブローと改めた。数年後、会社はバンス・ショパン・アンド・カンパニーと合併してテンプルトン・ドブロー・アンド・バンスに名称が変わった。経営を始めたばかりのころ、叔父さんは収益力の乏しい中小企業のスタート時期を乗り切るために自分の貯金に頼った。自分自身の給料さえ払えないこともしょっちゅうあった。

 若いころの貯蓄から出発したジョン叔父さんの事業がやがてテンプルトン・ファンドの経営へと発展していく過程で、最終的に何万人もの投資家が貯蓄によって富と安全を手に入れるのを手助けしたという事実は大変興味深い。指摘しておきたいのは、それが些末なことでも偶然の一致でもないということだ。むしろ貯蓄こそが、叔父さんが投資から得た大成功の根本的な原動力だった。叔父さんは倹約をとても重視し、美徳ととらえていた。この信条に従い、他人を援助したり、貯蓄に励む人に自分と同様に富と安全性の利益をもたらしたりすることが自己の仕事だと考えていた。自分のファンドで高いリターンを目指したのも、それ自体が目的なのではなかった。ファンドマネジャーとしての自分の成功度は、顧客が子供や孫を大学に行かせたり、退職後の資金を用意したりするのをどの程度手助けできたかによって測られると心から考えていた。この責任を非常に真剣に受け止めていた。

 実業界では、最大級の成功を収めた事業家の多くが、高潔な目的の追求を通してそれを達成している。金銭的利益を目的として成功を手にした事業家がいないわけではないが、愛他的な意図によって成功を得た例が数多くある。誤解されることが多いが、ウォルマートの創設者サム・ウォルトンの場合もアメリカ国民のために商品の値段を下げることを経営理念としていた。低価格によって可処分所得が増え、それによって生活が向上すると考えていたのだ。ヘンリー・フォードは、当時ほかの自動車会社が皆、金持ちだけを相手にしていたのに対して、一般大衆に自動車を買ってもらいたいと願った。ネブラスカ・ファーニチャー・マート(恐らくこれまでで最大の成功を収めた家具販売会社、現在はバークシャー・ハサウェイの子会社)の初代経営者ローズ・ブラムキンは、顧客の生活向上のために手ごろ価格で良質の家具を提供することが自分の目標だと常に語っていた。こうした「善行によって良い結果を得る」という考え方はベンジャミン・フランクリンが広めたもので、それ以降、事業で成功するための秘訣となっている。

 したがって、ジョン叔父さんが、倹約と節約に励んだ若いころの体験をもとにして、自分の才能を発揮して最高の割安株を発掘すること投資家の資金の増大に貢献したいと考えるに至ったのも自然の成り行きだった。叔父さんは母親のベラから「ニーズを見つけてそれに応えなさい」というアドバイスを受けた。その実行の手段として、まさに彼の倹約精神やバーゲンハンティングの能力、複利に対する選好が役に立った。叔父さんが発見したニーズとは、人々の富の創造を支援することを通じて生活向上の実現を図ることだった。そのニーズに応えるための能力は長い期間にわたって磨き上げられ、それが叔父さん自身の事業の開始につながった。ジョン叔父さんは事業を開始までの間に、周囲の人々への貢献方法をはっきりと決めており、その後、目覚めているときは常にその戦略の実行に努めたのだった。

 これまで、ジョン叔父さんが投資哲学と信条の点で父親から受けた影響について述べてきた。もちろん、母親から何の影響も受けていないというわけではない。それどころか彼女は、勤勉と奉仕精神の絶対的重視といった長老派教会と宗教団体ユニティ・スクールの多くの美徳によって叔父さんに深い影響を与えた。なかでも奉仕精神の重視はずっとのちまで続く影響を与えた。そのことは叔父さんの次のような言葉によく表れている。「自分が実際に人々に貢献している領域で努力すべきだ。そうすれば成功できるだろう。私は投資顧問業が気に入っている。また人々を支援したいと考えている。そうすることで、何千ドル費やしてもかなえられない満足感が得られる」

 ジョン叔父さんについてここまで読んだ人は起業の自由と自由意思に対する強い信念に気づいたにちがいない。その理想は母親のベラから直接譲り受けたものだった。ベラは当時にあって飛び抜けた自由精神をもつ事業家だった。そのことは、ジョン叔父さんと祖父が小さな子供だった一九二〇代に、広大なケネディ牧場で家庭教師として働くためにひとりでテキサスからウィンチェスターまではるばる旅したことにも表れている。また、一九〇〇年代初頭のテネシー州の農村部では高校と大学を卒業した経歴は異例だった。この学歴は当時として素晴らしいものだったが、それ以上に注目されるのは、甘辛適という中国人のキリスト教伝道師のために資金を集め、継続的な援助を行ったことだった。  若きジョン・テンプルトンにとって文化的、地理的な境界線は存在しなかった。この考え方はベラの直接の影響だった。ベラは高等教育を受け、独立心にあふれ、広く旅行し、進取に富んだ若い女性だった。彼女は一九〇〇年代初頭の因習的な南部にあって型破りの存在であり、枠に縛られることがなかった。ジョン叔父さんと祖父は両親から正式なしつけを受けなかったが、同じ気性を受け継いでいた。二人の子供は両親からノーという言葉をいっさい聞くことがなかった。人によってはそのことを、孤児院の孤児の扱いと同じで、子育ての放棄と受け止めるかもしれない。だが、二人がどんなことに着手しても必ず素晴らしい結果を生み出す、好奇心たっぷりの聡明な優秀児に育ったのも、曾祖母の自由放任主義の子育てのおかげだった。

 ジョン叔父さんからいつも聞かされたことだが、ものの仕組みや理由を母親に聞いても答えが全部返ってくることはまずなかった。しかし、一日か二日後に家のなかに入ってみると、質問した内容に関係する本がテーブルに置いてあり、それを読めば答が分かるようになっていた。少年たちの好奇心に関する面白い話として、兄弟がそれぞれ一一歳、一四歳のときに興味を抱いた電気のエピソードがある。母親は二人にお金を渡し、屋根裏部屋を空けておいたから実験のために自由に使っていいと告げた。祖父を先頭に二人は使えそうな本を全部書斎から持ち出し、大量の電気コイルやほかの装置を集めて電気を「実験室」に引き込もうとした。一時は小さなスペースに一万ボルトもの電流を流して使ったこともあるという得意げな話も聞かされた。どんなときも知識を実践に生かそうとしていた祖父は、電気の新しい知識を使って曾祖父の貸家の入居者のために配線工事を引き受けたこともあった。現代ではあり得ない話のように思われるだろうが、当時もそれは同じだった。しかし祖父とジョン叔父さんにとっては間違いなくそれが子供時代の一部をなしていた。

 少年たちの驚くべき創意能力を示す別の例を挙げれば、祖父はあり合わせの材料でラジオを作り上げてしまった。夕方には近所の農夫がたくさん集まり、「空から声を引き寄せる」小さな電気ボックスを不思議そうに見つめながら少年の自作ラジオに耳を傾けたという。

 好奇心と野心を思うままに発揮できたことで、祖父とジョン叔父の心には「やればできる」という気構えが形成されていった。電気の引き込みでも、ラジオ製作でも、自動車の分解修理でもほとんど好きなように事を進めた。二人の少年は学校に対しても同じ態度で臨んだ。高校時代のジョン叔父さんは大学進学のとき、母親に育てられた冒険心と自立心のおかげで故郷を離れることをいとわなかった。少し年上の祖父は最初ジョージア工科大学に通ったが、その後エール大学に転校していた。その影響でジョン叔父さんもアイビーリーグの大学に行きたいと思っていた。子供時代の祖父が年老いたウィンチェスターの農夫にアメリカ一の大学はどこかと尋ねた、という話を聞かされたことがある。農夫は一言「エール大学さ」とだけ答えたという。

 ジョン叔父さんは全科目でAをとっており、普通なら問題なくエール大学に行けるはずだった。だが高校一年のときに入試資料を調べてみるとウィンチェスター高校の生徒は入学許可をもらえそうもないことが分かった。問題は必須とされる四年間の数学教育を行っていないことにあった。これまで「ノー」という言葉で止められることなく目標達成にまい進してきたジョン叔父さんは校長にかけ合うことにした。叔父さんの苦境を聞いた校長は、四年生向けの数学の授業を行ってもかまわないと言った。ただそのための生徒も先生もいなかった。校長の説明によれば授業には最低八人の生徒ともちろん教える先生も必要だった。ジョン叔父さんはこう答えた。「問題ありません。私が先生になります」

 ジョン叔父さんは授業をとってもいいと言う友人を八人集め、校長を説得して自分が先生になることを認めさせた。叔父さんは数学を受講すると同時にその先生となり、校長が行った修了試験に見事合格した。このエピソードで叔父さんお得意の決まり文句は「教わった生徒も全員合格したんだ」というものだった。この試験に合格することでエール大学への進学が確定した。叔父さんは学年末ごとにナッシュビルのバンダービルト大学で行われた段階的な大学入学試験(現在の大学進学適性試験[SAT]のようなもの)に合格しており、卒業後の入学試験を受ける必要がなかったからだ。

 曾祖母が与えた本の知識と自己能力育成の考え方は子供の成長に大きな役割を果たしたが、もうひとつ重要で永続的な影響を与えたものがあった。それは旅行好きと新たな冒険を求める探求心だった。ジョン叔父さんが12歳、祖父が15歳になったとき、ベラはそろそろ旅行を始めてもよい時期だと考えた。その夏、彼らは車に荷物を詰め込んで二カ月の旅行に出かけた。アメリカ北西部を目的地に定め、ワシントンDC、フィラデルフィア、ニューヨークなどの都市を回った。旅行中、途中で何度もキャンプを張って自炊し、行きたい名所や博物館の一覧表を作った。その数年後、ベラはまた二カ月の夏期旅行に子供たちを連れ出したが、今回は国立公園や太平洋など、ミシシッピー川以西のあらゆる名所を訪ね回った。こうした冒険心と旅行好きは生涯ジョン叔父さんの心性となった。叔父さんは大人になったとき恩返しのような形で私の父のほか自分の子供と甥や姪を旅行に連れ出した。そのなかには欧州旅行も一回含まれている。叔父さんは子供たちにも役割を担わせ、旅行中のお金の保管と使いみちの記録、一日の移動の地図作り、ホテルの選定などたくさんの重要な仕事を任せた。旅行好きはいろいろな形でベラからずっと子孫に引き継がれ、私の知るテンプルトン家の人間はほとんどが世界のさまざまな場所を訪ねて冒険したいという気持ちを共有している。

 ジョン叔父さんはエール大学に通い、ローズ奨学金をもらってオクスフォード大学ベーリアル校に留学した。留学期間が終わったとき、ひとりの友人とオクスフォードを出発地として三五カ国を訪ねる世界旅行に出かけた。この旅行はテンプルトン家の家風に従い倹約予算で計画されていた。出発時の資金二〇〇ポンドのうちほぼ半分は叔父さんがオクスフォード大学在学中にポーカーで稼いで貯めたお金だった。彼は少ない予算で完璧な計画を立て、前もって旅程を全部決め、その区分に従って資金を小分けにした。それだけではなく、計算した予算額をあらかじめ目的地に郵送しておくことによって支出の厳格な規律を維持しようとした。旅行中、ジョン叔父さんはベルリンでナチスが一九三六年のオリンピックのために建設中だった施設を見学するなど、進行中の歴史を目撃することができた。旅行はヨーロッパから中東、アジアへと続き、インド、中国、日本にも立ち寄った。この旅行で一番お手本となるのは、好奇心やあらゆる場所を見ようとする積極性だけでなく、旅行中に実際にとった行動だった。叔父さんは何年も前の母親との旅行でとった行動パターンに従い、旅を集中的な勉強の場に変えた。訪問地とその歴史、土地の人々とその習慣、博物館などを熱心に調べた。実際それは貴重な教育経験だった。前もって現地と居住者について研究したうえで土地の文化のなかに飛び込むという方法によって、叔父さんは旅行を終えた時点で地理的知識のしっかりとした基盤を作り上げていた。

 以上の話は、ジョン叔父さんが投資家として成長した過程をたどるうえで重要な一こまとなっている。叔父さんがテンプルトン投資ファンドを設立する前、少なくとも二、三十年前までは、買うに値する株式は米国株だけだというのが投資家の受け止め方だった。もちろん叔父さんは広く旅に出て世界全体について豊富な知識をもっていたので、そうした米国投資家の通念をまったくバカげていると考えていた。だがどうしてそんな投資方法をとるのかを聞いてみると、人によってさまざまな理由が返ってきた。叔父さんのエール大学在学中、友人の学生は概して裕福で、個人的に株に投資している者も大勢いた。米国株だけを買う理由を聞いてみるとアメリカだけが重要な国だからというのがたいていの答えだった。

 ジョン叔父さんはそんな行動は傲慢で近視眼的だと常に語っていた。その後年月がたつうちに米国投資家のそうした傲慢さは少しずつ目立たないようになってきた。だが海外投資を避ける傾向は、昔ほどでないとしても今も残っている。最近では正当化の理由として、外国の会計基準を知らないとか、米国の多国籍企業に投資すれば外国へのエクスポージャーが得られるとかが挙げられる。要するに、ジョン叔父さんが活躍した数十年もの間、そうした偏った集団心理が多数派の論理となっていたのだ。叔父さんがそれを非常に気にしたというわけではない。断言するが、彼は株式市場で人の無知や無理解から利益を得る機会に出合うとためらうことはなかった。ジョン叔父さんにとって、他国の割安株に投資するのは常識にすぎなかった。本当に値打ちがあるかぎりどんな国かを問題にしないのは、二〇〇ドルのソファを五ドルで売りに出したニューヨークの隣人がどんな人か気にならないのと同じことだった。

 今日ではグローバル投資は当たり前のことになっており、投資信託業界には欧州、アジア、南米をはじめ地球上のどんな国の株式でも買いに動くマネジャーがあふれるほどいる。そういうファンドを調べてみると多くがテンプルトンの名が付いていることに気づくが、意外ではないだろう。なにせ、ほかにだれも外国株を買う者がいなかった二〇世紀前半の時期に、ジョン叔父さんは平気で他国に投資していたのだ。それは、時間をかけていろいろな知識を身につけていたため、偏見に惑わされなかったからだった。恐らく1960年代初めには日本株の調査は今よりもずっと困難で手間がかかったと思う。それを言うなら、テネシー州ウィンチェスターの出身者がバンダービルト大学など近くの有名校ではなくエール大学に行くのも今よりもずっと困難だったはずだ。

 叔父さんが外国に精通できたのは、限界など気に留めずに知識を追求することを子供時代に教わったからだ。根拠のない偏見や先入観は無知につながり、無知は生活のあらゆる場面で足かせとなる。叔父さんの場合、好奇心とそれを満たすための知識との間で相互作用が生じ、それによって生涯を通して学習が大きく進み、やがて生来の知恵を補うことになった。

 ジョン叔父さんの投資キャリアを貫く一本の糸があるとすれば、それは単に賢いだけでなく(事実、非常に賢い)、ゆったり構えて知恵に従って行動できるという資質だった。曾祖母の友人や知人は子供時代の叔父さんについて同じようなことを口にした。それは「生まれつきの大人」ということだった。周囲の人が当時の叔父さんに認めた特質は、ほとんど人生を経験していない者にはまれな常識と知恵の結合だった。そのおかげで市場でも冷静に行動できるのだ。叔父さんは生まれつき知恵と冷静さを備えていたので、普段から人に見えないものが見えた。ごく単純に聞こえるかもしれないが、実際には非常にまれな話なのだ。

 時々起きるように、感情やよくある勘違いのせいで株式市場が暴落したりバブルに沸いたりする時期には、買い手や売り手が市場で見せる集団的行動のなかに単純な知恵を見いだすことができない。だが、ほぼすべての人が合理的で客観的な見方ができるようになった時点で振り返ってみれば、単純な常識や知恵を用いるべきだったとすぐに分かる。多くの投資家は、株式市場で大量の投げ売りが起きるのを待って割安株を買いたいと言う。だがダウ平均が一日に二二・六%も下げたときの状況を見ると、事実はそうなっていないようだ。一九七九年にダウ平均構成銘柄のPER(株価収益率)が六・八倍になり、そうした低水準がその後数年続いたとき、情熱的な買い手たちはどこに姿を隠していたのか。答えとしてよく聞かされるのは、大多数の投資家にとって皆が手を出さないときは買いにくいということだ。ところが、それこそが割安株を手に入れる最高の方法であり、最終的に大きなリターンを獲得できるのだ。

 弱気相場をベア(熊)と呼ぶのは、熊が手を下にはたく動作からきているというのは俗説にすぎないが、ユーモアのためそのイメージを借りることにしよう(本当の語源は、ロンドンの仲買人が熊の毛皮を実際に入手する前に売った「空売り」に由来するようだ)。大半の投資家の場合、相手を叩きのめそうと手を振り上げた熊に立ち向かえると思ったら、まず錯覚にすぎないだろう。だがジョン叔父さんは手を上げた熊を、ハイタッチするつもりぐらいに考えていた。それは、株価が一段と下げれば買い手にとってはバーゲン株が増えるだけのことと分かっていたからだ。

 それはまったく視点の問題だった。ジョン叔父さんは単純に見えて実は非常にユニークな視点をもっていた。叔父さん自身の言葉を借りればその視点はこんなふうに表せる。「人はいつも見通しが明るい銘柄はどれかと私に聞く。だがその質問は間違っている。本当は、見通しが暗い銘柄はどれかと聞かなければならないのだ」。実際にこの考え方を実践に移した場合には群衆を避けることになる。ここで言う群衆とは株式市場の大半の買い手を指す。彼らはいつも見通しが最も明るい銘柄に群がる。見通しが最高に明るい状況を避けるのは、一般的な日常生活の振る舞い方の直感に反する。たとえば私たちは有望な分野の職を求めるし、晴れた日に外出する。奇妙なことにそういう行動は投資では成功しない。むしろ逆の行動が求められる。つまり見通しの暗い(しかし好転の可能性のある)ところを探ることが肝要なのだ。

 そうした行動は群衆から(時には物理的に)距離を置くことではじめて可能となる。ジョン叔父さんは当初、型どおりニューヨークで資金を運用していた。だが1968年にはバハマに引っ越し、その後しばらくして投資信託の運用者として最高の成績を上げるようになった。それは偶然ではなかった。バハマの首都ナッソーに移ってウォール街の人々と違った考え方が必要になったことが成績の向上につながったと叔父さんはいつも語っていた。そのころから、ウォール街のほかのアナリストと同じように企業のプレゼンテーションやイベントに参加することはなくなった。そういう環境から身を置くことによって自分自身の思考だけに従うようになり、そのことで状況が一変したのだ。読者のなかには、ウォーレン・バフェットがネブラスカ州オマハに住んでいることを思い出して、そうした物理的、心理的な距離の効能についてもっと考えてみたいと思った人もいるかもしれない。

 市場が時折犯す愚行や単純な考え違いにうまく乗じるジョン叔父さんの能力は少年時代から磨き上げられたもので、大学時代には特にポーカーテーブルで発揮された。若いころはポーカーに熟練し、少なくともウィンチェスターやのちのエール大学やオクスフォード大学時代の若者のなかではずば抜けた腕前だった。ポーカーを覚えたのは八歳くらいのころで、よく小銭を賭けてプレーした。エール大学で二年生に進級しようとしていた一九三一年、叔父さんは当時アメリカ全体を覆っていた暗い運命に直面させられた。大恐慌が始まっていたのだ。ちょうどその年、ひどい経済状態のせいでもう大学の学費を一ドルも出してやれないと父親から言い渡された。

 だが幸運なことに、伯父にあたるワトソン・テンプルトンがエール大学に戻る旅費と自力で大学を卒業するための援助資金として200ドルくれた。叔父さんは喜んでお金を受け取り、すぐに大学に出発した。必要なアルバイトとできれば奨学金を見つけるつもりだった。どちらも実際に実現できたが、学費をまかなうにはそれ以上の資金が必要だった。ときの時向かった先がポーカーテーブルだった。ポーカーではプレーされたカードを覚え、確率を計算し、相手の能力と戦略を見きわめる能力のおかげで大金を手にした。叔父さんの推定では学費の二五%もの部分をポーカーでまかなった。残りの七五%はアルバイトと成績優秀者に与えられる奨学金で得た資金だった。

 ポーカーの話は投資との関係でも特別な意味がある。ジョン叔父さんがポーカーの名手だった事実が興味深いのは、ポーカーでは確率やリスクテイキング、そしてたぶん一番重要なこととして心理に対する鋭い感覚が求められるという点だ。財務、会計、経済といった技術的側面に精通したプロの投資家に出会うのは珍しくない。それどころか世の中には、損益計算書や貸借対照表、キャッシュフロー計算書を分析し、競争戦略などのミクロ経済的側面を応用し、会計処理のからくりを見抜き、企業の本質的価値を見きわめられる賢い人があふれるほどいる。だが、単なる賢い人間から成功できる投資家に変身するためにはバカげた過ちを犯さない能力が欠かせない。

 簡単な話と思われるかもしれないが、けっしてそうではない。ポーカーの成功に必要な能力の多くは投資の成功にとっても欠かせない。たとえば、自分が目にする行動の背後にある動機や意図を理解する力が必要になる。いつも同じ仲間とポーカーをやり、そのひとりが一定の状況ではったりを行う癖があったとする。そのはったりを見抜けるようになっていれば、相手が自信たっぷりにレイズするのを待ち、たいていは掛金を全部さらう一番のチャンスにコールできる。確かに株式市場では相手の手を正確に読むのは不可能だ。だがある銘柄が将来の収益やキャッシュ・フローなどの尺度に照らして法外に高い価格で売買されていたとすれば、ポーカーの仲間と同じで、市場がその銘柄に対してやや入れ込みすぎていると判断できる。その場合、仲間がいずれシャツまで奪われるはめになると断言できるのと同様、高騰した株価も、投資家が実際はフルハウスではなく三のツーペアの手であることに気づくまで下落すると確信できる。ちなみに、はったりのポーカー仲間も見抜かれるまでは勝ち続けて皆の掛金をかっさらっていたことに注目してほしい。つまり、プレーヤーのなかで叔父さんだけがゲームの最初からはったりを見破り、相手が稼いだそのお金をいただく機会を忍耐強く待っていたのだ。これまで株式市場にも当てはまる仕組みの説明を行ってきたが、ここで最初のポイントをもう一度振り返ってみよう。

 株式市場にお金を投入する普通の賢い人から成功できる投資家に飛躍するためには少し特別なことが必要になる。それは正確な判断力だ。私の見たところ、ジョン叔父さんはほかの投資家との違いは自分の判断力にあると考えていた。アイビーリーグの学歴、ローズ奨学金、数学や論理の才能もさることながら、成功率が高い主な差別化要因のひとつは判断力にあることを確信していた。ところで叔父さんはラドヤード・キップリングの「もし」という詩が大好きだった。忘れた人のために言えば、その詩は「もしまわりの皆が冷静さを失いかけているときに、冷静さを保てるなら……」と始まる。実際、叔父さんは冷静さを保つ超人的な能力をもっていた。ついでに言えば、「もし」は私にとっても子供時代のお気に入りの詩だった。ジョン叔父さんの冷静さを示す好い例としてエール大学時代の出来事がある。叔父さんは学資を自力で稼いでいたため当座預金口座が必要だった。だが大恐慌時代の多くの人々と同じように、預金への打撃をまざまざと味わわされるはめになった。お金を預けた銀行が支払不能になり破産したのだった。けっして降参することのなかった叔父さんは学業をあきらめず、学校に残るためにアルバイト(とポーカー)に励んだ。今度の預金にあたってはニューヘブンで一番安全な銀行を選ぶために教授の助言を求めた。そして助言に従い、お金をもってその銀行に行って預金した。ところが数週間後その銀行の前を通りかかると、「安全」なはずの銀行からお金を取り戻そうとする人の長い行列が歩道にできていた。彼は冷静に列の人から話を聞き、その銀行で確かに取り付け騒ぎが起きていることを知った。そうこうしているうち、預金者は皆、当座預金の窓口に並んでおり、普通預金の窓口にはだれもいないことに気づいた。常に冷静でしっかりした判断力をもつ叔父さんは、普通預金の窓口に行き、当座預金から普通預金にお金を移したうえで預金を引き出した。

 ジョン叔父さんの投資判断に関するこれまでの説明から引き出せる主な教訓は、株式投資で成功を目指す人はそのような判断力をどうしても身につける必要があるということだ。実際、市場でだれもが怖じ気づき、見通しが非常に暗いと言って嘆いている時期に、単純で定評があり手数料も安い投資信託などの投資商品を買う知恵を備えているなら、すでに平均以上の成績を上げるための力をもっていることになる。ここで先に述べたことを思い出してほしい。私自身もプロの投資運用業者なのでこのことは認めたくないのだが、業界には投資家が虎の子の資金を任せられる優れたマネーマネジャーがたくさんいる(なかには安心できない業者もいるので、よく調べることが必要!)。競りによって本来の価値の数%の価格で農場を買う利点を理解できるなら、そして、そんな価格で買えるのは、だれも値段を競り上げないからだということを理解できるなら、株式市場のバーゲンハンティングの要領をつかんだことになる。逆に、もみ合いながら大声でどんどん値段を競り上げていく競り手が裁判所の階段にあふれているようなときは、まず間違いなく良い買い物はできない。覚えておく必要があるのは、人と同じように株や投資信託を買ったのでは、人と同程度のリターンしか期待できないということだ。だから「もしまわりの皆が冷静さを失いかけているときに、冷静さを保てるなら」、賢い投資への道を歩めるはずだ。ここで、ほかならぬジョン叔父さん自身の言った次の言葉をよく噛みしめてほしい。「他人が絶望して売っているときに買い、他人が貪欲に買っているときに売るには、最高の精神的強靭性が必要となるが、最終的には最高の報いが得られる」



■訳者あとがき

 本書はウォーレン・バフェットと並ぶ伝説的な長期投資家であるジョン・テンプルトン卿の投資哲学を分かりやすく解説している。著者の一人のローレンス・テンプルトンはその大姪(兄の孫娘)にあたり、投資スタッフとしてだけではなく、近親者としてもテンプルトン卿の実像に迫っている。

 「強気相場は悲観のなかで生まれ、懐疑のなかで育ち、楽観とともに成熟し、陶酔のなかで消えてゆく」というテンプルトン卿の格言をたいていの投資家が耳にしているだろう。簡単に言えば、皆が悲観しているときに買い、楽観しているときに売ることを投資の極意とする。こうした逆張りの投資法はずばり「バーゲンハンティング」という言葉で表せる。つまり、とことん安い値段で株を買って長期的な値上がりを狙うのだ。第二次大戦の勃発で株式市場が急落したとき、若きテンプルトンが一ドル以下の株だけを一〇〇銘柄以上買って四年で四倍にした話はよく知られている。

 デパートのバーゲンセールには買い物客が殺到する。ショッピングで安く買うのは当たり前のことだ。それが株になると、安く買うのがとたんに難しくなる。それはなぜか。株の場合、バーゲンに殺到するのは買い手でなく売り手だからだ。皆が一斉に恐怖に駆られて売ろうとするからこそ株価が急落する。その恐怖感や群衆の勢いに逆らうのは並大抵のことではない。

 今回の金融危機がまさにその好例だろう。二〇〇八年九月のリーマショックで世界の株式市場が急落し、日経平均は二〇〇九年三月に七〇五五円まで下げた。このとき「大恐慌」の文字がマスコミを飾り、皆が奈落の底をのぞき込んで恐怖に震えた。この大底でどれだけの人が大量のバーゲンを仕込めただろうか。  テンプルトン卿なら、数十年に一度と言われることもあるこの機会を間違いなくとらえたことだろうが、残念ながら、リーマンショック直前の七月に九五歳の生涯を閉じていた。彼はその生涯にわたり「どんなときも他人と異なる投資を追求」し、ファンドマネジャーとして大きな利益を上げてきた。本書には、その足跡と投資方法が詳しく説明されており、どんな投資家にとっても参考になる考え方が随所に散りばめられている。
   二〇一〇年三月
                         

鈴木敏昭


■本書への賛辞

「ジョン・テンプルトン卿の知恵は投資分野の枠を超えていた。ある女性が息子に与えるべき最良の投資アドバイスを尋ねたところ、『10分の1の税を納めること』との答えが返ってきた。私たちは、宇宙を支配する自然法則と同じくらいあらゆる点で絶対的な精神的真実を探し求めたのちに、それに従って行動する決意を固める勇気をテンプルトン卿から得た。テンプルトン卿は、その独創的な投資能力の点だけでなく生活全般の問題の理解という点でも巨人だった」
――フォスター・フリース(フリース・アソシエイツ社の設立者兼ファンドマネジャー)

「ジョン・テンプルトン卿はパッシブ投資家が歩むべき資産家への王道を知り尽くしている。すなわち、1つ目は価格に敏感になること、つまりバーゲン株を買うこと。2つ目は長期的見通しに焦点を合わせること。3つ目は、大半のバーゲン株が目先の見通しが暗いか不透明なときに生み出されることを踏まえ、短期見通しにひるまないことだ。本書は、テンプルトン卿に習って素晴らしい成功を手に入れる最良の方法を詳しく知りたい投資家にとって優れたロードマップを提供してくれる」
――マーティン・J・ホイットマン(サード・アベニュー・バリュー・ファンドのポートフォリオマネジャー)

「ジョン・テンプルトン卿は、われわれが若いころライフォード・ケイで受けた寛容なカウンセリングや、その賢明な投資、個人的な実践例などを通じて、このうえなく重要な原則をサウスイースタン・アセット・マネジメント社の社風に吹き込んでくれた。それと同じように、本書は、より優れた投資家になるための貴重なガイダンスを専門家だけでなく初心者にも示してくれる。本書は読むだけでなく消化すべきだ」
――メイソン・ホーキンス(サウスイースタン・アセット・マネジメント社会長兼最高経営責任者、ローングリーフ・パートナーズ・ファンズのアドバイザー)


読後の感想

バリュー投資家、角山 智 様より「バリュー投資家の血が騒ぐような良書」として
ご感想をいただきました。

 国際派のバリュー投資家として知られているジョン・テンプルトン卿は、2008年7月、95歳でこの世を去りました。 本書は、その直前の2008年1月に出版されたものの翻訳です。

本の中で、テンプルトンは「ジョン叔父さん」呼ばれています。親族が著者であることから、テンプルトンの投資について、かなり詳細に書かれています。

私自身、特に興味を持ったのは晩年の投資です。

●1997年後半、アジア金融危機で痛手を受けた韓国株に投資
●2000年、ITバブルにてハイテク株を空売り
●2001年、同時多発テロの直後、再開されたNY市場で航空会社株を買付

全体的には「投資家の課題は悲観論や恐怖、不安から生じる投資機会をつかむことにある」という流儀をベースとしている点が印象的でした。

投資について、真摯に取り組んでいる個人投資家にとっては、少なからずの「気づき」と「勇気」を得られることでしょう。

久々に、バリュー投資家の血が騒ぐような良書に巡りあい、興奮気味でこのコメントを書いています。

角山 智様)

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本書が紹介されました

2016年2月24日付の日本経済新聞朝刊「マネーこの一冊」で、『テンプルトン卿の流儀』が紹介されました。

米国だけでなく日中韓にもいち早く投資したことでも知られ、一国よりも世界に分散投資する方が長期的なリターンが大きいとの主張は説得力を持つ。


伝説の名投資家12人に学ぶ儲けの鉄則』 小泉秀希(著) ダイヤモンド社(刊)

”第7章 世界中を見渡して、割安な優良株に投資する”に、テンプルトン流投資術が紹介されています。



第10章 異色のバーゲンハンター『テンプルトン卿の流儀』P.229


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