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ウィザードブックシリーズ Vol.13

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新マーケットの魔術師
――米トップトレーダーたちが語る成功の秘密

著者 ジャック・D・シュワッガー

マーケットの魔術師5部作
マーケットの魔術師 マーケットの魔術師 株式編 続マーケットの魔術師 知られざるマーケットの魔術師

訳者 清水昭男
四六判 528ページ/定価 本体 2,800円+税
ISBN 4-939103-34-X

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目次 | インタビュー | 立ち読み | オーディオブック版
News
世界のヘッジファンドマネージャー報酬ランキングを更新しました (2012年7月)
プロが選ぶオススメの一冊で紹介されました。
金野秀樹様矢口新様益永研様
魔術師たちの関係が一目瞭然
マーケットの魔術師 相関図

知られざる“ソロス級トレーダー”たちが、率直に公開する成功へのノウハウとその秘訣!
高実績を残した者だけが持つ圧倒的な説得力と初級者から上級者までが必要とするヒントの宝庫!

■世界中で読まれているベストセラー


原書
『The New Market Wizards:
Conversations with America's Top Traders』

ドイツ語版
『Magin der Markete』

中国語版
『新金融怪傑(上)』
 
中国語版
『新金融怪傑(下)』


全米トップトレーダー、トニ・ターナー女史もオススメ!

『新マーケットの魔術師』は、世界のトップ・トレーダーたちのインタビュー集である。投資で成功するにはどうすればいいのかを中心に構成された本書は、けっして順序どおりに読み進む必要はない。自分の好きなトレーダー、関心のあるトレード手法から読み始めてかまわない。

17人のスーパー・トレーダーたちが洞察に富んだ示唆で、あなたの投資の手助けをしてくれることであろう。成功を願う投資家にとって、必読の書だ。



■目次

日本語版への序文──日本語版読者だけに贈る四三番目の金言
訳者まえがき
序文
謝辞
プロローグ

第一章 トレードの予測

    トレードでの不幸な出来事
    サダム・フセインの失敗したトレード

第二章 世界で最も大きなマーケット

    
ビル・リップシュッツ―――八年間負け知らずで五億ドルを稼いだ「通貨の帝王」

第三章 先物取引──バラエティに富んだマーケット

    先物──基本を理解するために
    ランディ・マッケイ―――毎年、前年以上の収益を達成し続けている「ベテラン・トレーダー」
    ウィリアム・エックハート―――驚異的な勝ち組「タートルズ」を生み、年間収益率六〇%を誇る「実践的数学者」
    沈黙するタートルズ―――養成されたスーパー・トレーダーたちの横顔
    モンロー・トラウト―――システムと相場観を調和して、最高のリターンを叩き出す「ポジション・トレーダー」
    アル・ウェイス―――四年をかけて一五〇年分のデータを分析し尽くした「チャートの生き字引」

第四章 ファンド・マネジャーと投信タイマー

    スタンレー・ドラッケンミラー―――ソロスの下で、柔軟さと多様性を身に付けた「売りの名人」
    リチャード・ドライハウス―――「高値で買い、さらに高い値で売る」極意で年率三〇%を誇る「買いの名人」
    ギル・ブレイク―――損失補填まで保証し、年利益率二〇%以下に落としたことがない「堅実性の覇者」
    ビクター・スペランディオ―――マーケットの年齢と確率を計算し、年平均七二%を一八年続ける「究極の職人」

第五章 マルチマーケットのプレーヤーたち

    トム・バッソ―――どんな事態にも冷静沈着に対応する精神を持つ「トレーダーのかがみ」
    リンダ・ブラッドフォード・ラシュキ―――音符を読むように価格変動を予測する「ナンバーワン短期トレーダー」

第六章 カネ儲けマシーン

    CTR―――機械のように淡々と稼ぐ頭脳的な「チーム・ワーク集団」
    マーク・リッチー―――膨大な収益をアマゾン・インディアン救済のために使う「ピットに降りてきた神様」
    ジョー・リッチー―――高等数学の行間を読み取り、世界一のトレディング・オペレーションを構築した「直感的な理論家」
    ブレアー・ハル―――有利なオプションを組み合わせて、六年半で一三七倍の収益を上げた「元ギャンブラー」
    ジェフ・ヤス―――相手の取引技術や知識によって自在に見方を変える「オプションの戦略家」

第七章 トレーディングの心理学

    匿名トレーダー―――「トレードしているのではなく、トレードさせられ」て稼ぎ続ける「直感トレーダー」
    チャールス・フォルクナー―――時間と経験を積んで、一つのシステムを極める者だけが成功する
    ロバート・クラウス―――「勝利に値する人間である」ことを潜在意識に認識させることが、成功への第一歩になる

第八章 クロージング・ベル

    魔術師たちの金言集四二カ条

書き終えて
付録──オプションの基礎を理解するために
用語集



≪本書インタビューで登場したトレーダー≫

■ビル・リップシュッツ(Bill Lipschutz)

 八年間勝ち続けて五億ドルも稼いだ「通貨の帝王」

 世界の通貨市場では、一日平均、およそ一兆ドルが取引されていると言われている。大部分の通貨取引は、取引所のような一定の場所で取引されるのではなく、インターバンク(銀行間)市場で取引されている。この市場は二四時間取引されていて、アメリカからオーストラリア、極東、そしてヨーロッパ、またアメリカへと、文字通り太陽を追いかけながら世界を回っている。市場は、通貨価値が変わることによって損益が発生する企業がその価格変動リスクをヘッジ(回避)するために存在するが、同時に市場予測に基づいて売買益を追求する投機家のためにも存在する。

 この大きなマーケットに何人かの大口プレーヤーがいた。皮肉にも、彼らは時として数十億ドルにも相当するポジション(そう、数十億ドルである!)を取るにもかかわらず、市場ではあまり知られていない。まして一般の人に知られることなど、まずない。ビル・リップシュッツはそんなトレーダーの一人である。 リップシュッツに対するインタビューは、長時間にわたるものを二日に分けて、彼の自宅で行われた。この邸宅には、いたるところにマーケット・モニターが置かれていた。もちろん、大きなテレビ・モニターもリビングに置いてあった。もっとも、映っていたのは実勢の通貨の取引価格であった。

 モニターは書斎にも、台所にも、寝返りを打ったときにも見られるように、ベッドの横にも置かれていた。実際、通貨市場が活発に動く時間帯は、米国の夜にあたることが多いので、リップシュッツは寝返りをしてマーケットをチェックすることがよくあった。

 モニターを見ないで用を足すこともできないような自宅であった。トイレの立ち位置に合わせた高さのところにも、モニターがあったからである。この男は、トレードに対して本当に真剣なのである。

ビル・リップシュッツが序文を寄稿
アンドリュー・ブッシュ著『イベントトレーディング入門』





■ランディ・マッケイ(Randy McKay)

 毎年、前年以上の収益を達成し続けている「ベテラン・トレーダー」

 数千ドルから始めて、数千万ドルにまで取引口座を育て上げる先物トレーダーは、ごくわずかである。そして、稼いだ取引収益を失うことなくトレードし続ける先物トレーダーは、もっと少ない。さらに、高い一定の収益を二〇年間出し続けているという条件を加えると、これに当てはまる先物トレーダーの数は、非常に少数である。ランディ・マッケイは、そんな先物トレーダーの一人である。

 マッケイがトレードを始めたのは、通貨先物が登場したのと同時期であった。通貨先物市場は、今でこそ活発に取引されているが、上場されたばかりのころは、瀕死の状態であった。当時、通貨先物の立ち会い場は静まりかえっていて、取引自体は、ここで行われる日々の活動、つまり新聞を読んだり、ボード・ゲームで遊んだりすることよりも、ずっと後回しにされていたほどなのである。通貨先物市場が根付くかどうかは怪しかった。しかし、マッケイがトレーダーとして成功することに、疑いはなかったのである。閑散な通貨先物の立ち会い場で、彼は、最初の二〇〇〇ドルから次々と巧みな取引を重ね、その年を七万ドルで終えることになる(実際には、七カ月の間の出来事であった)。

 マッケイは成功し続け、毎年、前年以上の収益を稼いだ。しかし、この「毎年、前年以上の収益」というパターンは、彼が、立ち会い場ではなく、自宅からトレーディングを始めた年に途切れることになる。彼はすぐ必要な調整を行い、ホーム・トレーディング二年目には、初の一〇〇万ドルを記録する。その後、マッケイは「毎年、前年以上の収益」パターンに戻る。そして、一九八六年、彼は初めての損失を経験することになる。そのときまで、彼は自分の口座に、一〇〇万ドル以上の収益を七年間続けて稼ぎ込んでいたのである。

 マッケイのトレーダーとしての経歴は二〇年。そして、彼はその中の一八年で収益を上げている。この間の彼の収益は、少なく見積もっても、数千万ドルになるだろう。同時に、マッケイは家族や友人のために、いくつかの他の口座も管理していた。そのうち最も古い二つ、これらは一九八二年に一万ドルでスタートした口座であるが、それぞれの通算収益は一〇〇万ドル超になっている。




■ウィリアム・エックハート(Willam Eckhardt)

 驚異的な勝ち組「タートルズ」を生み、年間収益率六〇%以上を誇る「実践的数学者」

 ウィリアム・エックハートは、金融界を語るのに重要な人物の一人である。しかし、彼のことは一般にはあまり知られていない。もし優秀なトレーダーの知名度が他の業界の有名人くらいに高ければ、エックハートはアメリカン・エキスプレスのコマーシャルに出演していたであろう(もっとも、このコマーシャルは大統領候補だったバリー・ゴールドウォーターの相棒で副大統領候補だった人物を起用したりしているので、有名度だけで選んでいるのではないようだが)。

 ウィリアム・エックハートとはだれなのか。彼は博士号を修得する直前に回り道をしてトレーディングの世界に入り、その後、少なくとも正式には、学問の道に戻らなかった数学者である。彼は当初、フロア・トレーダーとしてスタートした。最終的に彼がこの閉じこもりがちな取引の舞台から抜け出したことには驚くに値しない。それ以降、もっと分析的なアプローチをベースとしたシステム・トレーディングへと移行していく。最初の一〇年間、自分で作り上げたシステムと独自の市場判断で、エックハートは成功する。過去五年間、彼は幾つかの顧客口座も運用したが、年間平均収益率は六二%に達している。単年度の収益率レンジは、一九八九年のマイナス七%から一九八七年の二三四%である。総合すると、一九七八年以来、損失を出した一九八九年以外、常に年間六〇%以上の収益を稼ぎ出している。

 一般大衆に知られることなくトレードを続けた後、このインタビューの時点では、資産管理の仕事を拡大するため、エックハートには広く顧客にアピールする必要があった。しかし、なぜ、今になって資金を集めるためとはいえ、スポットライトを浴びる気になったのだろうか。なぜ、今まで通り、自分と幾つかの顧客口座のみを対象としてトレードを続けないのだろうか。「タートルズ」へ言及しながら、彼は素直に認めた。「嫌になったのさ、僕がそれなりの金額を扱っている一方で、教え子たちがとてつもなく莫大な金額を取り扱っているのを見るのが」。明らかに、エックハートはマーケットに対する貸しを回収する時が来た、と思ったのである。




■沈黙するタートルズ(The Silence of the Turtles)

 養成されたスーパー・トレーダーたちの横顔
「どんな人でも優秀なトレーダーに育てることができる」のか否か。数千ドルを二億ドルと推定される資産に育てた伝説上のトレーダー、←リチャード・デニスは、彼のパートナーであったウイリアム・エックハートと、そんな議論をしていた。エックハートは同意しなかったが、成功するトレーディングは教えることができる、とデニスは思っていた。

 この議論に結論を出すため、二人は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に広告を出し、トレーダーとして訓練されたい人々を探してみることにしたのである。書類審査や試験の結果を経て選ばれた人々に対して面接を行い、応募者一〇〇〇人を最終的に一三人に絞った。この幸運な一三人は、デニスとエックハートから、彼らの取引システムについての教授を受けることになった。二人は、隠すことなく、すべてについて具体的に教えた。研修が終了すると、デニスはこの一三人に資金を与え、トレーディングを開始させた。

 最初の一三人が初年度好成績を上げたので、デニスは、次の年、新しい一〇人に対して実験を繰り返した。この二つのグループのトレーダーたちは、後に、業界で「タートルズ」として知られるようになる。このタートルズという名前は、この時期、デニスが東洋を旅行したときに付けられたと言われている。この旅行中、亀の養殖場を訪れたデニスは、大きな桶の中で養殖されているたくさんの亀を見て、自分がトレーダーたちを育てているのと同じだと思った。「デニスのタートルズ」である。

 私がソースの一つとして使ったのが『マネイジド・アカウント・リポート』誌が発行する季刊報告書は、非常に多くのCTA(商品投資顧問業者)のパフォーマンスを業者ごとに一ページにまとめている。年間収益の平均、最大損益、収益率、収益を上げなかった月の割合、そして特定のCTAについては、五〇%、三〇%、二〇%の損失を出す可能性などについてである。客観的に調べるため、私は、CTAの名前を見ないで、飛び出してくるようなパフォーマンスを残しているページに印を付けながら、その数字だけを追いかけた。

 最終的に、私は一〇〇人超のCTAの中から一八人を選んだ。すると、この一八人の中の八人(四四%)はタートルズだったのである。驚くべきことである。リチャード・デニスは正しかった。




■マイケル・カー(Michael Carr)

 市場より自分が市場にどう反応するか考える

 大騒ぎや、時として非礼な対応の中でタートルズにインタビューを依頼していた私にとって、マイケル・カーの応対には安堵するものがあった。

 カーは、デニスが育て上げた最初のタートルズの一人である。一九八四年にトレードを始め、デニスの下で仕事をしていた最初の四年間、年間平均五七%の収益を稼いだ(一九八九年、独立したカーの収益率は多少下落することになる)。その後、カーは自分のCTA会社を設立する一九八九年八月まで取引を再開しなかった。このときから一九九一年までのカーの収益は、八九%となっている。

 ウィスコンシン州にあるカーの家で、インタビューは行われた。彼の家は、湖の中央にあり、陸までは長いドライブ・ウエーでつながっていた。嵐が来ようとしているときに到着した私は、四方に窓があり、湖面をすべての角度から見渡せるカーのオフィスで彼と会った。湖のパノラマと嵐は、背景としては最高であった。そして、不幸なことに、それはインタビューそのものよりも、ドラマチックだった。

 カーは友好的であったが、われわれの会話は、他のタートルズとのインタビューでもそうだったように、彼の用心深さに邪魔されることになった。




■ハワード・シドラー(Howard Seidler)

 マーケットに対する敬意と恐怖を忘れてはならない

 シドラーは、私がインタビューしたタートルズの中で、一番熱狂的なトレーダーだった。トレーディングの喜びを感情と言葉で語ってくれた。インタビューの中での彼のトレーディングに対する姿勢はとても積極的で、自然と私は彼が勝ち続けているものとばかり思っていた。驚いたことに、このインタビュー以前の半年間、シドラーのパフォーマンスはマイナス一六%と、彼としては二番目に最悪な数字を記録していたのである。シドラーは、最も幸福なタートルズである、と私は思う(パフォーマンスについては、一九八四年にトレーディングを始めて以来、年複利計算で年間平均三四%の記録を残している)。




■モンロー・トラウト(Monroe Trout)

 システムと相場観を調和させ、最高のリターンを叩き出す「ポジション・トレーダー」

 モンロー・トラウトに初めて会ったのは、数年前、私の会社のブローカーが彼を新規顧客として開拓していて、会社紹介を兼ね、トラウトを社に招待したときだった。彼が新米のCTA(商品投資顧問業者)であったことは知っていたが、それ以上はあまり知らなかった。その後、やり手の若いCTAの一人としてトラウトの名前を頻繁に聞くようになったが、この本の準備を始めるまで、どのくらいのやり手なのかは知らなかった。

 『マネイジド・アカウント・リポート』という季刊誌を調べていると、収益に対するリスクの割合で見たとき、一〇〇人以上のCTAがリストアップされている中で、トラウトは最高の数字を残していたのである。リストには、彼よりも年平均の収益率が高いCTAは数人いたが、ドローダウンの率が低いCTA(同時に、彼らの収益率はとても低かったが)はより少なかった。しかし、両方の割合という意味では、だれ一人としてトラウトに迫るCTAはいなかったのである。調べた五年間のパフォーマンスでは、彼の平均年間収益率は六七%、そして資金のドローダウンは、驚異的に低く、たったの八%あまりだったのである。

 また、彼のパフォーマンスの一貫性を示すもう一つの例として、彼はこの五年間を通して、八七%の月で利益を叩き出しているのである。さらに、伝説的で特別優れたトレーダーである←ポール・チューダー・ジョーンズでさえも、同時期のトラウト(彼は一九八六年に公的資金を運用するマネジャーになった)が残している収益率/リスクの実績には全く及ばないことを発見して、私は驚かされたのである。




■アル・ウェイス(Al Weiss)

 四年をかけて一五〇年分のデータを分析し尽くした「チャートの生き字引」

 収益とリスクの比率に関していうと、アル・ウェイスは、最高の成績を長期間保持しているCTA(商品投資顧問業者)ということになる。一九八二年にAZF社でトレーディングを始めてからの年間平均収益率は五二%である。一九八二年にウェイスに投資した一〇〇〇ドルは、一九九一年の終わりには四万三〇〇〇ドルになっている計算である。

 しかし、収益率はこの物語の半分に過ぎない。ウェイスの本当に驚くに値する要素となっているのは、この期間に発生した資産のドローダウンが実に取るに足らないものでしかなかったので、この高収益を実現できたということであろう。これまで、ウェイスが経験した最も大きなドローダウンは、一九八六年の一七%だった。過去四年間(一九八八〜九一年)、彼はリスク管理の標準を非常に厳しく設定し、この期間の最悪のドローダウンを四%にまで下げ、年間平均収益率を二九%超にまで高めた。一九九一年まで、彼はインタビューを断わり続けていた。「少なくとも一〇年間はこの優秀なパフォーマンスを維持できなければ、私の取引手法が実証されたことにはならないと思っていたから」と彼は説明している。

 彼の趣味の一つは、他のトレーダーに投資することである。月に一日か二日は、その趣味に時間を割く。彼自身の推測によると、ウェイスはこれまでに八〇〇人ほどのトレーダーのパフォーマンスを調べた。この中から二〇人くらいを選び、彼の個人資金を運用させている。彼の目標は、一人のスーパー・トレーダーを選ぶのではなく、何人かのトレーダーをグループとして組み合わせ、グループのパフォーマンスとして高い収益率と低いドローダウンを達成することである。




■スタンレー・ドラッケンミラー(Stanley Druckenmiller)

 ソロスの下で、柔軟さと多様性の極意を身に付けた「売りの名人」

 スタンレー・ドラッケンミラーは、ポートフォリオ総額数十億ドルを運用している、世界でも数少ないファンド・マネジャーの一人である。一億ドルのポートフォリオで四〇%の収益率を稼ぐのは立派なものである。そして、同じ収益率をドラッケンミラーの運用額で達成するのは驚異的である。彼が崇拝し、助言者でもあるジョージ・ソロスから三年前に受け継いだクォンタム・ファンドは、年平均で三八%強の収益率を記録している。そして、この間、ファンド総額は二〇〜三五億ドルで推移しているのである。

 大学院進学を捨てて実社会に飛び出してから、ドラッケンミラーは風のように業界の階段を上り詰めていく。ピッツバーグ・ナショナル銀行で証券アナリストを一年弱、すぐに証券調査部長。その後一年足らずで、重役が銀行を退職すると、ドラッケンミラーはその後釜に座る。その二年後の一九八〇年、うら若き二八歳の彼は、銀行を去り、自分の投信会社、デュークス・キャピタル・マネジメントを設立することになる。

 一九八六年、ドラッケンミラーはドレイファス社にファンド・マネジャーとして採用される。採用の条件として、運用していたデュークス・ファンドを、彼が引き続き運用していくことをドレイファス社は許可した。ドレイファス社に入社するころには、ドラッケンミラーの運用方法は、株をポートフォリオで抱えるスタイルのオーソドックスなものから、米国債や通貨や株を組み合わせて、売りからも買いからも入っていけるスタイルに変わっていた。この独自な運用スタイルに触発されたドレイファス社では、それを模倣する形でファンドを幾つかスタートさせている。この中で、最も有名なのがストラティジック・アグレッシブ・インベスティング・ファンドで、スタート(一九八七年三月)からドラッケンミラーがドレイファス社を去る一九八八年八月まで、業界最高の実績を上げたファンドである。

 そして、われわれの時代で最も偉大な投資家として彼が尊敬する、ソロスの下で仕事をしたいというドラッケンミラーの希望は、彼にドレイファス社を辞めさせ、ソロス・マネジメントに行く決意をさせることになる。ソロスの下に移ってしばらくすると、ソロス自身は東欧・旧ソ連の閉鎖された経済を変革するプロジェクトに専念するため、ファンドの運用をドラッケンミラーの手に委ねることになる。

 デュークス・ファンドがドラッケンミラーの長期的なパフォーマンスを計る材料になる訳であるが、一九八〇年のスタート以来、このファンドの平均年間収益率は三七%である。しかし、ドラッケンミラーは、現在の柔軟な運用スタイルの適用を始めた一九八六年中ごろまでのパフォーマンスは直接的な意味を持たない、と言う。そして、このファンドの彼が指摘した時点からのパフォーマンスは平均して年四五%である。

※映画「ウォール街」のマイケル・ダグラス扮するゴードン・ゲッコーの家は、元ムーア・キャピタルの伝説的株式トレーダーのスタンレー・ショップコーンのビーチハウス。
ショップコーンはムーア・キャピタルを辞めた後、ドラッケンミラーと組んだが、体調を崩して引退。
しかし、まもなく復帰との情報も。


スタンレー・ドラッケンミラー氏引退     2010.8.18 ブルームバーグ記事より抜粋
運用キャリア30年の凄腕スタンレー・ドラッケンミラー氏が、運用会社デュケーヌ・キャピタル・マネジメントを閉鎖。

同氏はヘッジファンド業界では長期投資で最高の実績を築いた1人であり、
またポンド売りを仕掛けジョージ・ソロス氏に10億ドルをもたらしたことで知られる。

ドラッケンミラー氏は、1986年以降で年平均30%というリターン(投資収益率)を
ここ3年間達成できていないことに不満を感じているとインタビューで語った。

デュケーヌ・キャピタル(運用資産120億ドル)の2010年の運用成績は5%のマイナス。
これまで成績がマイナスとなった年はなかった。「この30年間、私は顧客の資産運用を担当してきた。
それは喜びをもたらしたが、どこかの時点で先に進む必要がある。30年やれば十分だ」と語った。

ドラッケンミラー氏は、いち早くマクロ経済の材料を見抜き、大きく賭けに打って出ることで名声を築いた。
この投資手法は、ブルース・コブナー氏、マイケル・スタインハート氏、
またドラッケンミラー氏の元上司でもあるソロス氏のような著名投資家に共通して見られるものである。

ドラッケンミラー氏引退 2010.8.18 ブルームバーグ記事より抜粋



■リチャード・ドライハウス(Richard Driehaus)

 「高値で買い、さらに高い値で売る」極意で年率三〇%を誇る「買いの名人」

 リチャード・H・ドライハウスが株式相場に目覚めたのは、まだ幼いころであった。情熱を傾け続けた彼は、一〇代になったばかりで、経済コラムニストの言葉を鵜呑みにするのはバカげていることを悟ってしまう。そこで、地元の図書館で手当たり次第に株式関連のニュース・レターや経済誌を読みあさり、相場を独学する。後に、証券アナリストやポートフォリオ運用担当者として、彼が基本とする市場アプローチの核となる投資哲学の形成は、この子供時代に端を発しているのである。

 大学卒業後、マーケット関連の仕事に就きたいという希望を持っていたドライハウスは、リサーチ・アナリストの職を得る。仕事自体が嫌いな訳ではなかったが、自信を持って勧める銘柄が営業部門から見向きもされないことで、彼のフラストレーションは募っていくことになる。ドライハウスが初めて実際に資金運用の機会を得たのは一九七〇年、A・G・ベッカーの金融法人部門で働いていたときである。幸運にも、彼のトレード手法は自分が思っていた以上に実際の投資で効果を上げた。A・G・ベッカーのマネジャーとして働いた三年間、当時のファンド格付け会社としては最大級のベッカーズ・ファンド・エバリュエーション・サービスによって、彼はポートフォリオ運用担当者の格付けリストで上位一%にランクされるようになっていた。

 A・G・ベッカーを去った後、ミュラニー・ウェルズ・アンド・カンパニー、ジェサップ・アンド・ラモントでリサーチ・ディレクターを務め、一九八〇年、ドライハウスは自身の会社を設立する。その後の一二年間、彼の平均年間収益率(売買手数料とマネジメント・フィー控除後)は三〇%超を記録している。同期間、S&P五〇〇種指数の収益率は一六・七%で、彼のパフォーマンスの約半分でしかなかった。すなわち、一九八〇年に一ドルを投資した場合、一九九一年末時点でドライハウスのスモール・キャップ・ファンドでは二四ドル六五セントになっている計算である。

 ドライハウスは小型株投資を中心に行ってきたが、それ以外にも対象を拡大している。中でも、彼が特に気に入っているのがブル・アンド・ベア・パートナーシップ・ファンドで、このファンドは、運用を始めた最初の二年間(一九九〇年、一九九一年)、それぞれ六七%、六二%の年間収益率(二〇%の成功報酬控除前)を実現した。そして、この二四カ月の間に三カ月の損を出しているが、最大でもたったの四%に過ぎなかったのである。




■ギル・ブレイク(Gil Blake)

 損失補填まで保証し、年利益率二〇%以下に落としたことがない「堅実性の覇者」

 トゥエンティー・プラスとは、ギル・ブレイクの運用会社の名前である。彼の名刺やレターヘッドにはこのロゴが入っていて、図柄は二〇%以上の年間利益率を達成することが、標準偏差二つ分、平均の左側に分布していることを示している。統計学に詳しくない方々のために言い換えると、九五%の確率で年率二〇%以上の収益を実現しているのである。また。このロゴに示されている収益の確率分布曲線には、年率ゼロ%以下が存在しない。年間では決して損を出さない、というブレイクの自信のほどを見事に物語っているのである。

 ブレイクの自信は、また、証明されてもいる。トレードを始めてから一二年間、彼は年平均で四五%の収益を上げているのである。それ自体も素晴らしい数字であるが、ブレイクの本当の素晴らしさは、そのパフォーマンスの安定性である。ロゴにあるように、彼は決して利益率を年二〇%以下に落としたことがない。事実、一九八四年の二四%が彼の年間収益率としては最低の数字である。しかし、その最悪の年でさえ、しっかりとおまけがついている。一二カ月、すべての月で利益を上げているのである。

 ブレイクの安定性を正しく評価するためには、彼の月間パフォーマンスを見なければならない。驚くべきことに、一三九カ月中一三四カ月(九六%)で、彼はブレーク・イーブンか、利益を記録しているのである。さらに、継続して損失を出さなかった期間が六五カ月。

 取引手法への自信は、ブレイク独自の報酬システムにも現れている。年間収益の二五%が彼の報酬であるが、このシステムの独自性は、彼が顧客に対して損失の二五%を保証していることである。さらに、初めての顧客には、最初の一二カ月について損失の一〇〇%を保証しているのである。しかし、数字から明らかなように、これらの損失補填を行う必要が生じたことはない。

 ブレイクは、いわゆる投信のタイマーである。一般的に投信タイマーは、株や債券のファンドに発生する利回りを、その収益環境が悪化すると考えられるときはいつでも、MMF(マネー・マーケット・ファンド)に乗り換えることによって向上させようとする人たちである。




■ビクター・スペランデオ(Victor Sperandeo)

 マーケットの年齢と確率を計算し、年平均七二%を一八年間も続ける「究極の職人」

 一九六九年の弱気市場のなか、スペランデオはトレーディングの能力がもっと給料に反映されるチャンスを求めて転職する。前の会社での定額賃金体系とは異なり、今度の会社では、オプション売買で稼ぎ出した利益の一%が彼の報酬となった。弱気市場が続いており、この会社は用心深い経営方針を取っていたため、固定給を約束することはなかったのである。しかし、スペランデオは喜んでこの申し出を受け入れる。売買による稼ぎの一%の分け前を得ることで、彼には実質的に収入を増やせる自信があったからである。

 六カ月後、スペランデオの報酬は五万ドルになっていた。彼の上司は「君には固定給を払うことを決めたよ」と褒め称えた。しかし、それまでの歩合制賃金に代わる固定給は、なぜか二万ドルとボーナスに関するあいまいな約束。三週間後、スペランデオは転職した。不運なことに、彼は、この会社も前の会社と同じであることに気付くことになる。

 六カ月後、資金を提供してくれる共同経営者を見つけ、スぺランデオは自らの会社「ラグナー・オプションズ」を創業する。履行保証付きのオプション価格を顧客に対して提示する、という方針を取った結果、六カ月でラグナー社は世界最大の店頭オプション・ディーラーになったという。

 最終的に、ラグナー社はウォール街のある会社と合併する。スペランデオは合併後もこの新会社にしばらく残ったが、一九七八年、インターステート・セキュリティーズ社に転職することになる。ここで、自己勘定と幾つかの個人口座を運用する。報酬は会社と(収益も損失も)折半、という契約であった。得意な手法を好きなマーケットで使える完全な独立性、資金的な裏付け、利益(と損失)の正当な分け前、遂にスぺランデオは求める職場を得たのである。しかし、この理想的な状況は、インターステートが株を公開した一九八六年に終焉を迎えることになる。トレーディング部門を閉じることになったからである。その後、一年余り、スペランデオは自己資金でトレードしていたが、自分の運用会社「ランド・マネジメント・コーポレーション」を創業することになる。  トレーディングに関して彼は、大きな利益を上げることよりも損失を避けることに重点を置いてきた。実際、一九九〇年に最初の損失を記録するまで、継続的に、一八年間連続して勝ち続けたのである。

 この間、平均年間収益率は七二%、最低は一九九〇年のマイナス三五%、最高年間利益率三桁を記録した年が五年もあったのである。

れわれは読書室でインタビューを開始し、その後、グランド・セントラル駅を見晴らせる、日光がさんさんと射し込むレストランのテーブルに場所を移し、数時間にわたって話は続いた。

スペランデオのトレード実践講座







◎ビクタースペランデオとポーカー⇒ http://www.tradersshop.com/topics/theme/casino/sperandeo.html


フィル・ゴードンのポーカー攻略法 入門編

フィル・ゴードンのポーカー攻略法 実践編

賭けの考え方

オンラインポーカーで稼ぐ技術 (上)




■トム・バッソ(Tom Basso)

 どんな事態にも冷静沈着に対応する精神を持つ「トレーダーのかがみ」

 トム・バッソはある重要な意味において、私がインタビューした中で、たぶん最も成功したトレーダーと言える。もし「成功」とは「大金を稼ぐこと」なのであれば、彼を「成功」者とは呼べないかもしれない。しかし、「成功」とは「十分に稼ぎ、素晴らしい人生を送ること」であるとすれば、そういう意味において、トム・バッソほど「成功」者と言える人はいないだろう。

 初めてトム・バッソに会ってすぐ、私は彼のトレードに対する信じられないほどの落ち着いた態度に強い印象を受けた。バッソはトレードでの損失を、理性だけではなく、感情のレベルでも受け入れることを習得していたのである。さらに、トレードに対しての(また、同様に人生に対しての)喜びに、彼は満ち満ちていたのである。バッソは、完全な精神的安定を維持し、素晴らしい喜びを重ねながら、利益を上げるトレーダーとしてやってきたのである。その意味で、バッソ以上のトレーダーはいないのである。

 バッソは、社会人としての第一歩をモンサント社のエンジニアとして歩み出した。しかし、この仕事は彼を完全燃焼させてはくれなかったため、道楽がてら、投資の分野に手を出し始める。金融分野での最初の試みは、彼の先物取引口座で行われたが、すぐに悲惨な結果に終わる。バッソが先物で利益を出せるようになるまでには長い年月がかかったが、成功するまで、彼はトレードを続けたのである。

 ある投資クラブの関係で、一九八〇年から、彼は顧客資金の運用を手掛けることになる。そして一九八四年、運用対象を先物にまで拡大することになった。こういった小さなサイズの先物口座(二万五〇〇〇ドル足らずの場合もある)は、収益が乱高下するのが常である。適度な分散効果を維持しながら、程よいレベルで収益率を安定させるためには、最低預かり資産額を思い切って引き上げる必要があることを、バッソは悟る。

 一九八七年、最低預かり資産額を一〇〇万ドルに引き上げ、それ以下の預かり資産は返還することにした。現在、彼は株式と先物の両方で、顧客口座を運用し続けている。

『トム・バッソの禅トレード』





■リンダ・ブラッドフォード・ラシュキ(Linda Bradford Raschke)

 「音符を読むように価格変動を予測する「ナンバーワン短期トレーダー」

 トレーディングに対して真剣なリンダ・ブラッドフォード・ラシュキは、出産の当日もトレーディングをしていた。「出産の最中には、さすがに、トレードはできなかったでしょう?」と、私が冗談半分で尋ねると、「できませんでした」と彼女は答えたが、続けて「でも、朝の四時でしたから、マーケットは開いていませんでした。ただ、娘を出産した三時間後にはトレードをしていました。その日が最終取引日になっていた通貨のマーケットで売り持ちを抱えていましたし、いいポジションだったので、次の限月にこのポジションを移したかったものですから」。このように、リンダ・ラシュキはトレーディングに対して真剣なのである。

 早い時期から、ラシュキはマーケットにかかわりたいという希望を持っていた。大学を卒業した後、思った通りに株式ブローカーの職に就けなかったとき、当時の仕事場へ出社する前に、彼女はパシフィック・コースト証券取引所の取引フロアに立ち寄るのを日課にしていた。マーケットに魅せられていたことがこの日課の動機であったが、これによって彼女はトレーダーになる機会を得ることになる。日課を通じて取引所のローカルズの一人と友人になったラシュキは、彼からオプション取引の基礎を学ぶことになる。彼女が熱心であり、理解が早いのに感心して、このトレーダーは彼女にトレーダーへの道を開く。

 最初にパシィフィック・コースト証券取引所、次にフィラデルフィア証券取引所、都合六年間、ラシュキはフロア・トレーダーとしての経験を積む。初期に一度ひどく負けた以外、彼女はフロア・トレーダーとして着実に利益をものにしていた。

 一九八六年の暮れ、乗馬事故で負傷したことからフロア・トレーディングが困難になり、オフィスからトレードしなくてはならなくなると、この取引環境が自分に合っていることに気が付き、その後、オフィスから自宅にトレードの場を移した。オフィス・トレーディングに移ろうとするフロア・トレーダーの多くは、トレードの場をオフィスに移した最初の年度に大きな困難にぶつかることがあるが、ラシュキの場合、フロアを離れた初年度、自己最高収益を記録することになる。そして、その後も、彼女は継続的に収益を上げている。


魔術師リンダ・ラリー
の短期売買入門

リンダ推薦
『板情報トレード』
旧『ワイコフの相場成功指南』

リンダ推薦
『スイング売買の心得』
旧『ストックマーケット テクニック 』

リンダ推薦
『相場勝者の考え方ド』
旧『ワイコフの相場大学』

[オーディオブック]
ワイコフの
相場成功指南




■マーク・リッチー(Mark Ritchie)

 膨大な利益をアマゾン・インディアン救済のために使う「ピットに降りてきた神様」

 このサブタイトル(ゴッド・イン・ザ・ピッツ=原書のサブタイトル)は、マークの精神を垣間見せ、刺激的経験に富み、そしてトレーディングの話もある、リッチーの自伝のタイトルである。しかし、決して彼が神のようなトレーディングの腕前を持っていることを示唆するものではない。反対に、このタイトルは、その人生を通じて彼が確信した神の存在のことを指しているのである。

 トレーディングから、これほども程遠い教育を受けたトレーダーもいないであろう。マークは、神学校に通っていたのである(負けポジションのことを神に祈ったとしても、それが役に立つことはない)。神学校に通っている間、マークは経済的に窮していた。刑務所の監視員(夜間勤務)、トラック運転手などのパートをこなしていたが、トラックの燃料も払えないときがあったほどである。こんなマークが最初にトレーディングに魅せられたのは、兄のジョーに連れられて世界最大の先物・オプション取引所、CBOTを訪れたときであった。

 大豆製品のトレードを専門として、マークはそのキャリアのほとんどをCBOTの立ち会い場で送ることになる。立ち会い場でのマークは優秀なトレーダーであったが、五年前、トレードの場所を立ち会い場からオフィスに移すことを決断した。

 このトレード環境の変化に対応するため、マークは多くの取引戦略を、時間をかけて検討する。オフィスでの一年目、経験不足からいくつもの不用意な状況を経験し、マークにとっては厳しい年となった。にもかかわらず、立ち会い場を離れてトレードするという決断が、最終的には正しかったことを彼は証明することになる。一九八七年に一〇〇万ドルで始めたマークの取引口座は、次の四年間、平均年間収益率五〇%を記録しているのである。

 マークの興味は広く、トレーディングの世界を大きく超えている。最近は、アマゾンで原始的な生活を送る部族を救済するための慈善事業に夢中になっている。


『財産を失っても、自殺しないですむ方法
マーク・リッチーのトレーディングバイブル』


■ジョー・リッチー(Joe Ritchie)

 高等数学の行間を読み取り、世界一のトレーディング・オペレーションを構築した「直感的な理論家」

 ジョー・リッチーはCRT(シカゴ・リサーチ・アンド・トレーディング)の設立者であり、その原動力となっている人物である。彼のアイデア、コンセプト、理論こそがCRTの複雑な根源をなしているのである。高等数学を習得している訳ではないが、多くの人が彼を生まれながらの数学の天才と考えている。CRTで使われる数学的に複雑なトレーディング・モデルのことを考えると、彼がその分野で天才的であるのは間違いない。数学は感覚的、直観的に理解するもの、とジョーは言っている。

 CRTは単独で成功したのではない、というのを強調したのはジョーが初めてだった。会社が成功するために必要不可欠だった人物がたくさんいる、ということであった。このインタビューでも、ジョーは私にCRTの他の人たちとも話すように提案した。社員の一人は、リッチーの哲学を「ジョーは、社員に権限を与える人です。彼は社員を信じているのです。CRTが利益を上げられる理由の一つは、私たちが彼の自己資金を危険にさらすことに違和感を持たないように、ジョーが気を配っているからです」と言った。

 世界で最も成功したトレーディング・オペレーションを構築した男らしく、ジョー・リッチーは大胆で、精力的で、優秀な男である。仕事は、彼にとっての楽しみなのだ。それは、終わることのない挑戦であり、変化し続けていくパズルなのである。しかし、仕事にはジョーを歓喜させる別の重要な側面がある。人である。「仕事をしに会社に来るのが大好きなのさ」と、彼は臆面もなく公言する。本気でそう思っているのである。仕事を愛し、CRTを家族の延長と思っているからなのだ。ジョーの、社員に対する深い愛情を感じる。




■ブレアー・ハル(Blair Hull)

 有利なオプションを組み合わせて、六年半で一三七倍の収益を上げた「元ギャンブラー」

 ブレアー・ハルはトレーダーになる前、ブラックジャックのプレーヤーだった。奇妙に思えるかもしれないが、決してそうでもない。現実に、この二つはとても似ているからだ。しかし、ポイントは、トレーディングで勝つことはギャンブルでの運に似ているということではない。むしろトレーディングとギャンブルの両方で勝ち続けるのは、戦略と訓練の成果であり、運ではないということである。運は、不利な状況をなんとか切る抜けるための短い間しか、その役割を果たさない。

 カジノがハルのブラックジャック・チームに目を付け始めたため、彼は確率論でカネ儲けができる別の道を探していたのである。そして、この確率論の一般的な原則が、価格設定を誤ったオプション取引に応用できることに気が付いた。一九七六年に二万五〇〇〇ドルで始めた彼の資産は、一九七九年の初めにはその二〇倍になっていた。彼はその後も着実に利益を重ね、(彼がトレードを休んだ年を除いて)年間平均で一〇〇%の収益率を出し続けた。

 一九八五年、ハルは彼のトレーディング戦略の場を拡大するため、ハル・トレーディング・カンパニー(HTC)を設立した。ハルの会社は複雑な戦略を練り、一時的な価格設定の間違いから利益を得るために、互いに相関関係のある広い範囲のオプションを組み合わせて取引していた。そして同時に、そのためのリスクは最低の水準に維持していたのである。HTCは、CBOE、CME、アメリカン証券取引所、ニューヨーク証券取引所、そしてさまざまな外国の取引所など、多くの取引所でマーケット・メーカーをしている。彼らが自らマーケット・メイクで取引するオプションの量は、出来高全体の一〇%以上を占めている。

 HTCの収益グラフは、トレード・システムの広告で使われる収益シミュレーションのグラフにそっくりである。異っているのは、HTCのグラフは現実のものであること、だけである。一九八五年の当初資金一〇〇万ドルは、一九九一年の半ばまでに、経費を差し引いても、九〇〇〇万ドルになっている(この期間の総収益は、約一億三七〇〇万ドルとかなり大きい)。しかし、驚くべきなのは、この膨大な利益実績にもかかわらず、HTCが限定的なリスクしか取っていないということである。設立されて以来、HTCは六九カ月の中の五八カ月で収益(経費差し引き後)を稼いでいる。そして、事実上、取引損失を記録したのは、たったの五カ月のみである。




◎ブレアーハルとブラックジャック」⇒
http://www.tradersshop.com/topics/theme/casino/hull.html


カードカウンティング入門

ディーラーをやっつけろ!




■ジェフ・ヤス(Jeff Yass)

 相手の取引技術や知識によって自在に見方を変える「オプションの戦略家」

 ジェフ・ヤスがフィラデルフィア証券取引所のフロアで、オプション・トレーダーとしてスタートしたのは一九八一年のことだった。彼は、大学の友人をこの取引に誘ったりするほど、オプション取引の可能性に心を奪われていた。そして、実際に、彼は一九八〇年代初頭、六人の友人をトレーダーとして訓練したりした。一九八七年にヤスと友人たちはサスケハンナ投資グループを設立。この会社は急成長を遂げ、今や九〇人のトレーダーを含む、総勢一七五人の大所帯になっている。今日、サスケハンナは世界でも有数のオプション取引会社であり、またプログラム・トレーディングの会社でもある。

 ヤスは、標準モデルをベースに複雑なオプション価格調整をした独自のモデルによって、マーケットの不完全さを探り当てる。しかし、彼のアプローチは、オプション・モデルの違いではなく、勝利を最大限にするために用いられる数学的なゲーム理論である。ヤスにとってマーケットは、巨大なポーカー・ゲームのようなもので、相手の取引技術のレベルに注意しなくてはならないところなのである。彼は、たとえ話として次のように言っている。

 「私が世界第六位のポーカー・プレーヤーで、一位から五位のプレーヤーと一緒にゲームをしたら、ほとんど勝ち目はない。ところが、もし私が極めて平均的なプレーヤーだったとしても、相手が平均以下なら、勝つことができる」

 ヤスは、相手の技術と知識のレベルを想定し、それを計算に入れ、取引戦略を調節する。また、彼は自分より情報に精通しているトレーダーの行動によって、彼自身のマーケットに対する見方を全く変えてしまうことや部分的に変えてしまうことを躊躇しない。ヤスは頭の回転が速く、また早口でもある。


ジェフ・ヤス氏が代表を務めるオプション・株式トレーディング会社、「サスケハナ・インターナショナル・グループ」では、新人トレーダーの教育にポーカーを導入しており、社内トーナメントも実施している。「わが社ではでは、オプションのトレーダーを訓練するとき、実際にポーカーの戦略を使うんです。オプション取引と、ポーカー・ゲームは非常に関連性が深い、と考えているからです。ポーカーに対する正しいアプローチを教えることができれば、本当の意味でのオプション取引も教えることができると思います。」(本書411ページ)

・SUSQUEHANNA のサイト ⇒ http://www.sig.com/

『ギャンブルトレーダ−』の著者、でAQRキャピタル・マネジメントのアーロン・ブラウン氏は「ポーカープレーヤーとして成功した人間は、そのほかの人に比べ優れたトレーダーになる可能性が高い」としており、「彼らは有利なときには打って出ることができるし、破滅を回避する方法も知っている。この2つの能力を兼ね備えるのは珍しいことだ」と語っている。

・AQR Capital Management (アーロン・ブラウンの所属する会社) ⇒ http://www.aqrcapital.com/


◎ジェフヤスとポーカー⇒ http://www.tradersshop.com/topics/theme/casino/yass.html


フィル・ゴードンのポーカー攻略法 入門編

フィル・ゴードンのポーカー攻略法 実践編

賭けの考え方

オンラインポーカーで稼ぐ技術 (上)




■チャールズ・フォルクナー(Charles Faulkner)

 時間と経験を積んで、一つのシステムを極める者だけが成功する

 ノースウエスタン大学の大学院で言語心理学を学んでいたチャールズ・フォルクナーは、NLP(神経言語学プログラム)の設立者であるリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーによって書かれた初期の二冊の本に夢中になり、大学院での研究を放棄することになった。一九八一年、フォルクナーはグリンダーと研究を始め、その後、バンドラーや他のNLP開発者たちとの研究に従事し、一九八七年に公式のNLPトレーナーになった。フォルクナーの研究の焦点は、人間の優秀さをモデル化することだった。この研究のため、彼が手掛けたプロジェクトは、高速学習、医療意思決定、先物取引であった。フォルクナーは、コンサルタント、NLPセミナー・リーダー、メディア番組制作者であり、またNLPテクニックを使った教育テープも出版している。

 私がチャールズ・フォルクナーに会ったのは、ある先物業界のシンポジウムで講演したときのことであった。その講演で、私は、何度か執筆中だったこの本について触れた。フォルクナーは、トレーダーとして成功するための精神的な構造について、調査・コンサルティングした経験があると言った。私は、彼の話に興味を覚えたし、執筆中の本で取り上げられるかもしれないと思った。しかし、その時点では彼にインタビューしている時間がなかった。箱に入ったカセット・テープのセットを私に手渡して、フォルクナーは感想を聞かせてくれと言った。

 そのテープは、NLPのテクニックを、いろいろな目的を達成するために応用することを扱ったものだった。ちょっと同意できない要素もあったが、部分的には目標に対する集中力と動機を強化することに役立ちそうなものがあった。全体的にはなかなか良くできたテープで、私は彼にインタビューすることを決め、シカゴへもう一度行くことにした。

 NLPの一部は、人が言動で示唆するものを研究していた。仕種、目の動き、言葉、声の強弱などである。フォルクナーは、明らかにそれらを解釈する技術を身に付けていた。そして、私には彼の強い感受性が印象的だった。

NLPならコチラ↓
エイドリアン・ラリス・トグライ著『NLPトレーディング』





■ロバート・クラウス(Robert Krausz)

 「勝利に値する人間である」ことを潜在意識に認識させることが、成功への第一歩になる

 初めてロバート・クラウスを知ったのは、トレーディングに興味を持つ寄稿者によって大部分が構成されている出版物であるCLUB三〇〇〇というマーケット・レターに掲載されていた一通の手紙を通じてである。英国催眠術師協会の会員でもあるクラウスの潜在意識開発テープで、この手紙の主がいかに自分のトレーディングを大きく向上させたかについて報告されていた。非常に興味をそそられる内容であった。

 「並み以上の生活ができるくらい稼いでいた」と言う以外、クラウスはトレーダーとして上げた具体的な成果については話さない。職業としてのトレーディングを議論するときに、クラウスは生き生きとしていた。そして、それは「世界で最高のビジネス」であると力強く言った。「これほど黒と白がはっきりする職業はない。正しいか、間違っているか、そのどちらかだ」(そう言ったとき、彼が黒のスラックスと白のシャツ姿であることに私は気付いた)。「トレーディングには魅せられます。トレーディングは、すべて、自分自身の才能と能力の結果だからです」。

 フォート・ローダーデールの彼の家で、私はクラウスに会った。開放的で友好的な男性だった。自ら空港に私を迎えに来ると申し出、邸宅の隣にある客用のコテージに泊まっていくよう熱心に勧めてくれた。

 オフィスの作業台を覆っているクラウス手書きの三×二フィートのチャートを見るまでもなく、彼がとても真剣なチャート分析家であることは分かっていた。取引日や時間に対応して縦の棒線を使う古典的なチャートでなく、クラウスのチャートは、価格と時間の関係を棒線の長さと幅で表すシメトリクスと言われるものであった。これは、W・D・ギャンの最初の弟子の一人であるジョー・ロンディノーネによって開発されたと言われる手法である。

 インタビューは、時間をかけた夕食で中断したりした。しかし、トレーダーとしてのクラウスが、ハンガリー料理のコックとしての腕前と同じくらい素晴らしいものであるなら、彼は莫大なカネを残すに違いない。

ギャン 神秘のスイングトレード





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■日本語版への序文──日本語版への読者に贈る四三番目の金言

 金融市場の改革を含む大胆な規制緩和政策を日本政府が推進している今、この本が日本語訳されることはまさにタイムリーである。より自由なマーケットはより効率的なマーケットであり、より効率的なマーケットは国民経済的に有益だからである。

 この本は、多様な金融市場で素晴らしい成功を収めた人たちについて書かれたものである。そして、彼らの成功から学ぶことのできるマーケットについての洞察や教訓は、時間を超越したものである。その意味で、書かれた当時と同様、この本の内容は今日でも生きている。実際、インタビューから導かれたポイントをまとめ、私の個人的な経験を加えて最終章に「魔術師たちの金言集」として掲げた四二の教訓を見ると、そのすべてがいまだに適切なものである。

 この本を出版してからずっと、私はこの四二の他に加えるべき教訓はないかと思いを巡らせてきた。あった、一つだけ。 偉大なトレーダーに師事したいという人たちから、私はよく電話や手紙をいただく。この人たちが理解していないのは、偉大なトレーダーは自分の力で成功を築いたのだ、ということである。トレード上の秘訣を、懇切丁寧に解き明かしてもらったから成功した訳ではない。そこで四三番目の教訓として、「マーケットの魔術師を探すことではなく、自らがマーケットの魔術師となるべく、エネルギーを集中しろ」を、この機会に加えることにする。

 一九九八年一一月
            ジャック・シュワッガー


■序文

 私の信条とは、

 一 マーケットは、予測不能(ランダム)ではない。効率的な市場を前提に論じた学者を並べたら、地球と月を往復する距離になったとしても、である。彼らは、単に、間違った前提で論じているに過ぎない。

 二 マーケットは、予測不能ではない。なぜなら、マーケットは人間の行動を反映するものだからである。そして、人間の、特に集団としての人間の行動は、過去、また未来においても、決して予測不能ではないから。

 三 マーケットには神秘性や、一般的な秘密というようなものは存在しない。しかし、収益に結び付く多くのパターンは存在する。

 四 マーケットには、儲ける方法が数多くある。皮肉なのは、それらの方法を発見することが非常に難しいことである。

 五 マーケットは、常に、変化しながらも不変である。

 六 マーケットで成功する秘訣は、他人が思いも付かなかった指標や、凝った理論による手法を発見することにあるのではなく、成功した人々、その一人一人の内にある。

 七 トレーディングで人より優るためには、才能と、(驚くべきことではあるが!)努力の組み合わせが必要である。これは、どの分野でも同じことである。ディ―リングで成功するために、最新の極秘情報や、三〇〇ドル、または、その一〇倍のカネを払って購入したトレーディング・ソフトに従う人たちは、決してこのことが理解できないであろう。彼らは、問題が何なのかを理解していないからである。

 八 トーディングでの成功は、価値のある目標である。しかし、それが人生の幸福を伴っていなければ、何の意味もない(ここでの「成功」とは、金額的な意味とは無関係である)。

 この本、そして前著『マーケットの魔術師』のインタビューを通じて、私は、マーケットで勝つために必要なのは幸運などではなく、技術や自分を管理する方法であることを知らされた。 私がインタビューした人々の勝ち幅とその確率は、偶然などではない。 前著『マーケットの魔術師』は、マーケットで勝つためにはどうあらねばならないか、を示したと信じている。一瞬にして富を築こう、と思っている人は失望することになるはずである。 この『新マーケットの魔術師』で、私は二種類の読者に語りかけるように努力した。まず、マーケットでのトレーディングを職業としている人々、または、それを研究の対象としている人々。そして、金融市場に興味があり、多くの人々が損をする中にあって、勝ち続けている人々に興味を持っている人々である。 普通の人々にもこの本が読めるように、いたずらに高尚な話題は避けたつもりだし、必要と思われる部分には解説を加えた。すべての基本的な考え方を押さえつつ、マーケットを理解している人々のために、意味深い情報も取りこぼすことのないように配慮したつもりである。したがって、普通の人にもプロのトレーダーにも、この本は意義深いものであると確信している。なぜなら、ディーリングで成功を収めるための要素は、ほとんどすべての分野で成功すること、つまり意味のあるゴールを達成するための要素と同じだからである。



■謝辞

 まず、この本のために快くインタビューに応じ、自身の考えや経験を自由奔放に語り、また、最終稿のチェックで、その内容をいささかも変更しなかった方々に感謝の意を表したい(すべての方々がそうだった訳ではなく、内容を変更したインタビューは収録しなかった)。
 多くの場合、トレーダーたちはこのインタビューによって金銭的に得るものは何もなかった。彼らの運用するファンドは公募をしていないし、追加投資の予定もないからである。彼らの協力に、特に感謝する。 そして、妻のジョアンに。オリジナル原稿を読み、適切な提案をしてくれた。彼女の提案はすべて、採用した。また、「本書きの未亡人」として一年間耐えてくれ、徹夜で執筆した翌朝などは、子供たちを静かにさせていてくれた。お陰で、そんな朝も眠ることができたのである。  私の三人の子供たちにも感謝しなければならない。ダニエル、ザッカリーとサマンサの子供たちは、この本の執筆やそれ以前の取材で、私たちが一緒に過ごす時間が潰れてしまったことついて、八歳、七歳、三歳の子供たちに期待できないほどの理解を示してくれた。
 最後に、インタビューをすべきトレーダーたちに関して、アドバイスや提案をしてくれた友人たち、ノーム・サデー、オードリー・ゲイル、ダグラス・メイクピース、スタンレー・アングリスト、トニー・サリバ、そしてジェフ・グレーベルに深く感謝の意を表しておきたい。

プロローグ

 ある冬の寒い日に、雪道を五マイルも歩いてやって来た若者が、ひすい細工職人の家のドアを叩いた。 ほうきを持った職人がドアを開いて、
 「何の用だ」
 若者は、「ひすいのことを学びたいのです」
  「よろしい。寒いだろう、中に入りなさい」
 二人は暖炉のそばに座り、熱いお茶を飲んだ。
 そして、職人は緑色の石を若者の手に強く押し当てると、カエルのことを話し始めた。若者は、すぐに口をはさんで、 「失礼ですが、カエルではなく、私はひすいのことを学びたいのです」
 職人は緑色の石を若者の手から取り、一週間後また来るよう、彼に告げた。
 次の週、若者は再びやって来た。ひすい細工職人は、前とは違う緑色の石を若者の手に当て、カエルの話の続きを始めた。若者はまた口をはさむ。そして、職人は再び彼を帰らせる。
 何週間も過ぎた。若者は、次第に口をはさまなくなる。そして、お茶を入れ、台所をかたずけ、床を掃除するようになる。 春になった。
 ある日、緑色の石を見つめて、若者はつぶやく。
 「これは、本物のひすいではない」
 私は椅子に深く座り、この物語をしている。すると、学生の一人が口をはさむ。 「分かりました。いい話です。しかし、マーケットで勝つこととどんな関係があるのですか。私は、マーケットのことを学びに先生のところに来たのです。マーケットの強気/弱気、商品、株式、債券、それにオプションなんかですよ。私は大儲けがしたいのに、ひすいの空物語とは……、どういうことですか?」
 「ここまでにしておこう。価格チャートをテーブルの上に置いておくこと。また来週」
 何カ月も過ぎた。学生はしだいに口をはさまなくなり、私は「トレーダーの窓」の物語を続けた。
                『トレーダーの窓』より、エド・スィコータ

トレードでの不幸な出来事

 前著(『
マーケットの魔術師』)を書き終えて講演旅行をしていたとき、いくつかの疑問が定期的に私の中に沸いてきた。その一つは、「世界で最高のトレーダーを何人もインタビューしたのだから、それによって、私のトレーディングは向上したのだろうか?」と言う疑問だった。私のトレーディングは向上する余地が多くあったが、この疑問に対する私の答えは及び腰であった。

 「どうだろう。今はトレードしていないしなぁ」
『マーケットの魔術師』の著者がトレードしていないのは何か妙ではあったが、私には正当な理由があった。トレーディングに関して基本的なルールがあるとすれば、その一つは「損を出せないときは、トレードしてはいけない」というルールである(べきだ)。損をしてはいけない資金でのトレードは、勝つことよりも負けることの方が多い。資金が重要すぎると、いくつかの決定的な間違いを犯すことになりやすい。最高の取引機会は、リスクもまた高いことから、これを逃すことになりやすい。また、完全に良好なポジションを作っていながら、市場がちょっと反対に動き始めると、最終的にマーケットが自分の思っていた方向に動き出す前に、つまり時期尚早な段階で、手仕舞いしてしまったりする。
 マーケットに貴重な資金を持って行かれてしまうのを怖がるあまりに、最初にちょっとでも含み益が発生すると、すぐにポジションを閉じてしまう。皮肉にも、損をすることに対する過剰な配慮は、その恐怖心が決断能力を低下させ、車のヘッドライトに驚いて動けなくなってしまう鹿のように、損を出しているポジションに適応することができず、必要以上に持ち続けることになる。

要するに、「怖がりなカネ」でトレードすることは、決断力を低下させ、必ず失敗させる方向へと人を導くのである。
 前書の完成は、私が家を建てたのと同時期だった。この国のどこかには、最初に自分が予想したとおりの金額で家を建てた人がいるのかもしれない。しかし、私にはそれが疑わしく思える。家の見積もりを作っているとき、何度も言うフレーズがある。「たかがもう二〇〇〇ドル」。ここで二〇〇〇ドル、ここでも二〇〇〇ドル、そしてもっと大きな金額が最終的に加算されてくる。わが家の贅沢の一つは、屋内プールだった。このプールのために、私は取引口座を閉じたのである。このとき、私はマーケット・リスクにさらすことのできるそれなりの資金ができるまで、トレードはしないつもりでいた。そして、終わりのない周辺工事などで、トレードを再開する日はどんどん先に追いやられて行った。また、フルタイムの仕事を持ち、同時に本を出版するのは、なかなか骨の折れる作業であった。トレーディングにはエネルギーが必要だし、私としては、負担を増すことなく疲れを癒す時間が必要だった。
 チャートを見ていて、英ポンドが下落寸前なのを確信したのは、そんなある日の午後だった。その前の二週間、ポンドは調整もなく直線的に下落していた。  そして直前の一週間、ポンドは狭い値幅の中を神経質に上下しているだけだった。私の経験からすると、この一連の価格の動きは、多くの場合、再び価格が下落することを示していた。多くのマーケットは、多くのトレーダーたちを惑わせる行動を示す。この英ポンドの場合、買い持ちであったトレーダーたちは、最初の戻りを待って、英ポンドを損切りたいと思っている。反対に、売りたかったトレーダーたちは、トレンドに乗り遅れたと思っている。そして、どんな戻りであろうと、そこで新たに売り建てる機会を狙っている。簡単に言えば、価格が大きく下落した後は特に、トレーダーたちは直前の安値で売ることに耐えられないでいるのである。そして結果的には、皆が最初の戻りで売ろうと狙っているとき、マーケットが戻ることはないのである。

 いずれにせよ、チャートを一目見て、私は、英ポンドの価格が頭をもたげることなく値下がりする状況であることを確信した。強く確信すればするほど、売ってみたい衝動にかられた。しかし、トレーディングを再開する時ではない、とも感じていた。 時計を見ると、マーケットの終了までに一〇分あった。そして、ぐずぐずしている間に、マーケットは終了してしまった。 その夜、オフィスを出るとき、私は間違っていた、と思った。 たとえトレードを再開したくなかったとしても、価格が下がることを確信していたのなら、売るべきだったのではないかと思ったのだ。そこで、夜間取引デスクへ行き、英ポンドの売り注文を出したのである。次の朝、英ポンドは、寄り付きで前日終値比二〇〇ポイント以上、下落していた。
 私は少額の資金を取引口座に入金し、同時に、私の売り値レベルでストップ・オーダーを入れておいた。含み益で取引しているのであり、マーケットが私の売り値に戻れば手仕舞うのだから、損を出せない資金ではトレードをしないという考えには反していない、というように気持ちの整理をしていた。いずれにしろ、気持ちに反して、私はトレードを再開していた。 この英ポンドの取引は、前著に書いたトレード上の原則の一つを示すいい例である。成功するためには忍耐が大切な要素であることを、何人ものスーパー・トレーダーたちが力説していた。ジム・ロジャースは、その中でも、このことを最もはっきり語ったトレーダーであった。
 「そこにカネがたまるまで、私は単に待ちます。その後、そこまで行って拾い上げるだけです。それまでは、何もしないことですね」 要するに、トレードをしなかったことにより、私は待つことを学習していたのであり、やり過ごすことのできない状況まで待つことによって、私がそのトレードで勝つ可能性は非常に向上したのである。 次の数カ月間、トレードに関する私の決断は当たり続けた。私はトレードを続け、取引口座の資産も少しずつ増えていった。
 口座残高は、ゼロから(最初に二〇〇〇ドル入金したが、含み益が証拠金以上に発生した段階でそれも引き出した)、二万五〇〇〇ドル超までになっていた。節目は、このときに起ったのである。私は出張中であった。そしてほとんどすべてのポジションが、同時に損失を出し始めたのだ。会議の合間に、急いで決断したトレードのすべてが間違っていたのである。一週間で三分の一の資金を失った。 通常ある一定の損失を出したとき、私はブレーキをかけることにしている。トレードを必要最小限に押さえるとか、全く止めてしまうとかである。本能的に、この原則に従っていたのかもしれない。私はポジションを最小限に押さえた。
 こんなとき、友人のハービー(仮名)から電話をもらった。彼はエリオット波動に基づいたトレードをしている男だった。ハービーは、よく私の意見を求めて電話をしてきた。しかし、同時に、自分自身の意見も言わずにはいられないようだった。個別のトレードについて、人の意見を聞くのは間違いだと私は思っていたが、ハービーが幾つものいい決断をしたことがあるのも知っていた。そして、その日に限って、私は彼の意見を求めてしまったのである。

 「ジャック、ポンドを売らなきゃだめだよ」と、ハービー。 このとき、英ポンドは四カ月間直線的に買われ続けていて、一年半ぶりの高値に近づいていた。 「私としてはね、マーケットは最高値から数セントというレベルだと思うんだけど、こんな一時的な買い上げでは売れないと思うんだ。高値を達成した、というサインがあるまではね」 ハービーは言い返してきた。 「そんなサインは出ていないね。いいかい、これは第五波の五波なんだよ」(これはエリオティシャンが言うところの価格波の構造についての話で、エリオット波動に関して詳しくない読者には、説明することによって難解になってしまうので解説を割愛する。私を信じていただきたい) 「マーケットは、ここで最後の息継ぎをしているのさ。月曜日の寄り付きは今日の終値よりもずっと安くなるね。それからは、振り返ることのない直滑降さ」 この会話は、その週の高値圏で英ポンドが推移していた金曜の午後のことだった。
 「絶対。自信があるんだ」と、ハービー。 私は考えていた。損を出していたし、ハービーの市場分析はいつもなかなかのものだった。そして、今回の英ポンドの件について、彼は特に自信があるようだった。彼の話に乗ってみようか。もしハービーが正しければ、私は損失を取り戻すことができる。
 そして、私は(今でも思い出すと身をすくめてしまうが)、 「分かったよ、ハービー。そうしてみよう。人の意見でトレードするのは悲惨な結果になることが多いから、このポジションの処理は君に従うことにするよ。君が反対売買を行うとき、私もポジションを閉じる。もし君のマーケットに対する意見が変わったら、必ず、連絡してくれ」 ハービーは同意し、マーケット終了の三〇分前に私は売り持ちになり、その週の高値でマーケットが引けるまで、英ポンドが少しずつ値を上げていくのを見つめていた。
 次の月曜日、英ポンドは先週末より二二〇ポイント高値で取引を始めた。私のルールの一つに、建ててすぐに窓を開けて逆行するポジションを持ってはいけない、というのがある(窓とは、寄り付きが直近の終値からかけ放れている状態のこと)。
 金曜日に建てたポジションは、間違っているように思えた。本能的に、反対売買を行い、損を出し、ポジションを手仕舞うべきだ、と私には思えた。しかし、ポジションはハービーの市場分析に基づくものであり、それに矛盾しないことが重要に思えた。 ハービーに電話した。
 「ポンドの売りポジションはどうも良くないようだけど、市場分析をミックスするのは良くないから、反対取引については君に従うつもりでいるんだけど、どうかな?」 彼は、言った。 「思っていたよりも高値になっているね。だけど、これは、まあ、波の延長なんだよ。ストップするまでもうすぐだと思う。このまま売り持ちだな」 その週、マーケットは少しずつだが上がり続けた。金曜日、英ポンドにとって売り材料になるニュースが発表され、午前中に少し値を下げたが、午後になると高値近辺に戻ってしまった。マーケットがニュースに反応しなかったことに、私は警戒を感じていた。再び、本能的に反対売買をして、ポジションを手仕舞いたかった。しかし、同時に、この段階でゲーム・プランを変えたくはなかった。 私は再度、ハービーに電話をした。思ったとおり、波はまだ延長されていて、ハービーは今まで以上にマーケットに対して弱気であった。私は、売りのままでいた。 次の週の月曜日、マーケットが数百ポイント上にあったことは、それほど驚くに値しなかった。次の日、マーケットはまだ少しずつ値を上げていた。そして、ハービーから電話があった。彼の自信は揺らぐことなく、勝利に満ちていた。
 「いい知らせだ。分析をやり直してみたんだ。トップに近いよ」 私は感情を押し殺した。まだ起きていないことに対する彼のこの自信に、私はなぜか不吉なものを感じていた。同時に、この売りポジションに対する私の自信は、反比例して乏しいものになっていた。 思い出したくもない細部の話は別にして、一週間後、ハービーがどうしようと、私はポジションを閉じることにした。そして、マーケットは、その七カ月後も高値を更新していた。
 トレード上の一つの間違いが、次々に他の間違いにつながっていくのは驚くばかりである。人のトレードに従って、簡単に損を取り戻したいという欲から始まった話である。このとき私が取った行動は、他人のマーケット動向に対する意見に左右されるのは愚かなことある、という私が強く信じている信条に反していた。 このトレードで犯した間違いは、ポジションを閉じるのを促した幾つかのマーケットからの強烈なサインを、私に無視させることになった。最終的な決断を他人任せにしてしまった私には、ポジションのリスクを調整する方法がなかった。

 言いたいのは、他人の当たらないアドバイスでトレードをして損をした、ということではない。そうではなくて、マーケットは、間違いを犯した者に対して無慈悲であり、必ず相当の罰金を科してくるということである。損をした責任は、ハービーにではなく、私にある(もちろん、多くのトレーダーに有効的に利用されているエリオット波動のせいでもない)。
 その後、軽くトレードしていたが、一カ月後、私の取引口座の残高が以前の損を取り戻したとき、取引を止めてしまった。 短期間で儲けたり、損をしたりしたが、最終的には、マーケットでの経験以外、特に得たものはなかった。
 数カ月後、講演することがほとんどないエド・スィコータが出演することになっているセミナーで、私も講演する機会があった。エドは、私が前著でインタビューした偉大な先物トレーダーの一人であった。彼のマーケットに対する見解は、科学的分析、心理学、そしてユーモアがミックスされた特殊なものだった。

 エドの講演は、会場から観客を一人ステージに迎えることから始まった。彼が用意していた数枚のチャートと雑誌の表紙に記載された特集記事を、エドはその観客にマッチさせたのである。 最初に、一九八〇年代初頭の特集記事「金利は二〇%になるのか?」、そしてこの記事が掲載されていた雑誌の発行日と、債券市場が底値を付けていた時期は呼応していた。
 エドが取り上げた次の雑誌の表紙は、焼け付く太陽の下で枯れてひび割れている畑の不吉な写真であった。この雑誌の発行日は、一九八八年の日照りで穀物市場が高値を付けた時期と呼応していた。それから彼は、最近の雑誌から「オイル価格はどこまで行くか?」と書かれた記事を取り上げた。この記事はイラクのクウェート侵攻以来数カ月、高値を続けていた原油についての特集だった。 「価格は、おそらく最高値を付けてしまった、と私は思います」 と、彼は言い、またそれは正しかった。 「皆さんも、市場の推移に関する重要な情報を、ニュースや経済雑誌からいかに収集するかということが、お分かりになったと思います。記事の内容はどうでもいいのです。表紙を見ましょう」 典型的なエド・スィコータの講演だった。 私は自分のトレードに関する経験を、彼に話したくて仕方がなかった。そうすることによって、エドの洞察にあふれる言葉の一部にでも接したかったのである。不幸にも、セミナーの休憩時間には、私も彼も観客に囲まれてしまった。
 ただ、われわれはサンフランシスコの小さな同じホテルに宿泊していたので、ホテルに帰った後、私は、どこか静かに話せるところに行かないかと、彼を誘ってみた。エドは疲れていたようだったが、同意してくれた。 静かに話せるバーかカフェを探して歩き始めてはみたものの、この小さなホテルの周りには、大きなホテルしかなく、結局、仕方なくその一つに入ることにした。
 そのホテルのラウンジでは、大音響のバンドをバックに最悪な歌手がなんと「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌い上げていた(もし私たちがニューヨークにいたとしたら、「霧のサンフランシスコ」を歌ってくれたに違いない)。 私の助言者になってくれるかもしれない人物と静かな会話をするには、このラウンジは適切とはいえなかった。 BGMが問題ではあったが、私たちはそのホテルのロビーに座ることにした。最悪の環境だった。
 腹を割った話がしたい、という私の希望はかなえられそうにもなかった。意思に反してトレードを始めてしまったこと、何年も前に悟ったと思われる過ちの数々を例の英ポンドのトレードで犯してしまったこと。そして、皮肉なことに、英ポンドのトレードをする前、私の取引口座は二万ドルの収益を上げており、その金額に相当する新車を物色していたことなど。家の建築でカネを使い果たしてしまった私は、新車を買うために取引口座を閉じようとしていたのである。 魅力的なアイデアだった。新車は数カ月の間に収益をもたらしてくれたトレードに対する物理的な証だったし、そのために私自身の資金を使ってはいなかったのである。
 「ではなぜ口座を閉じなかったんだ」 エドが聞いた。 「だって、できなかったんだよ」 私は答えるしかなかった。 幾度か数千ドルを一〇万ドルにまでしたことがあったが、その時点でいつも私はその先に進むことができなかった。私には、このレベルを超えて、もっと大きな資金に育てていくことができなかったのである。 もし勝ちカネで何かを買ったとしたら、そのときトレードの目的を達したのだ、と私は思うのだろうか。もちろん、後から考えれば、収益を確定してしまった方がはるかに良かった。しかし、私は、トレードの機会を見逃すことができなかったのである。こんなようなことを、私はエドに極力、理性的に説明した。
 「言ってみれば、君は損をしなければトレードを止められない、そういうことかな?」 もうそれ以上、彼は何も言う必要がなかった。私は、前著でのエドのインタビューを思い出していた。もっとも印象に残った彼の言葉は、「すべての人が、マーケットから、それぞれ欲しているものを得る」であった。 私はトレードをしたくなかったのだし、まさに、トレードをしなくなったのである。
 ここでの教訓は、常にトレードをしていなくてもいいのであり、どんな理由にしろ気分が乗らないときはトレードをするべきではない、ということである。 マーケットで勝つためには、自信と同じくらいトレードする意欲が必要なのである。
 この二つは、優秀なトレーダーであったとしても、ごくまれにしか同時に訪れることがない。 私の場合、当初、トレードに対しての自信はあった、しかし、意欲がなかった。そして最終的には、そのいずれも残らなかった。次に、トレードを再開するときには、両方を持っていたいと思っている。

サダム・フセインの失敗したトレード

 トレードに関する正しい決断、間違った決断の要素は、多くの点で一般的な決断と非常によく似ている。この本の仕事を始めたのは、湾岸戦争に発展する直前の出来事が発生したのと同じ時期だった。私は、イラクのサダム・フセインの行動(もっと正確に言うと、彼が行動を起こさなかったこと)と、自滅してしまいそうな初心者のトレーダーの反応との間に、ある共通点を見出していた。

 フセインのトレードとは、クウェートへの侵攻のことである。このトレードに関して、明確で原理主義的な理由をフセインは当初持っていた(もちろん原理主義者としての理由は、後にフセインが、便宜上、宗教上の理由を持ち出したことによって発生したのである)。 クウェートへ侵攻することによって、フセインはOPEC(石油輸出国機構)の枠を超えて原油を生産していた国を排除し、市場を混乱させ、原油価格をイラクのために高値誘導することができた。そして、彼には、クウェートにある一部、またはすべての油田を獲得し、ペルシャ湾への陸路を確保できる可能性もあった。そして、侵攻は、フセインの誇大妄想狂的な野心を満足させる絶好の機会だった。 この「収益」の可能性に対して、フセインが甘受したリスクは限られたものだった。多くの人は、アメリカが最終的に示した強い決断の陰で忘れてしまったが、イラクによるクウェート侵攻を示唆した宣言や行動に対して、米国務省の最初の反応は端的に言って、「アメリカにはかかわりがない」というものだったのである。 フセインとの交渉で、このような主体性のないアメリカのスタンスは、イラク軍戦車のために赤い絨毯を敷いてやるに等しいものだった。 したがって、フセインのクウェート侵攻は、最初は大きな可能性と限られたリスクに裏打ちされた、「賢いトレード」だったのである。
 しかし、よくそういうことが起こるように、マーケットは変わってしまった。

 ブッシュ米大統領は、サウジアラビアを守るために軍を派遣し、クウェートからフセインを撤退させるため、国連決議採択に尽力し始める。この時点で、フセインは素早く「含み益」を現実のものとすることができた。クウェートから撤退する代わりに、領土問題で優位に立つことや、港湾権について交渉することができたのである。しかし、ポジションが悪化しているのに、フセインは何もしなかった。 次にブッシュは、派遣された国連軍の数を倍の四〇万人にして、フセインに強いシグナルを送った。これは、アメリカがサウジアラビアを守るためだけではなく、武力によってクウェートを解放できるに足る能力を用意していることを示す行為だった。マーケットは、明らかに変わったのである。それでも、フセインはマーケットからのサインを無視して、何もしなかった。
 ブッシュ大統領は次に、国連決議に基づくイラクのクウェートからの撤退を一月一五日とした。フセインのポジションは、さらに悪化したのである。この時点で、このトレードでの収益の可能性は失われた、と考えていい。しかし、まだフセインは、クウェートから撤退し、トレードをブレーク・イーブンにすることはできた。しかし、またしても彼はポジションを放置して何もしなかった。 一月一五日の期限が過ぎて、アメリカと連合軍がイラクに対する空爆を開始した時点で、フセインのポジションは損失の領域に入ったと考えていい。そして、マーケットは大きく下がり続け、決断を一日延ばすごとに、イラクはさらに破壊されていった。しかしこんな大損をした後で、フセインにあきらめがつくはずがなかった。まるで、悪化しているポジションに捕まってうろたえているトレーダーのようなものである。フセインは起死回生の大穴に賭けるしかなかった。「待っていれば、多分、死者の数がアメリカを恐れさせ、やつらは譲歩する」と。
 トレンドはポジションをさらに悪化させ、アメリカは別の期限付き最後通牒を迫ってきた。今度はイラクに対する陸上戦である。この段階で、フセインはソ連の和平提案の条件に同意する用意があった。しかし、それも以前は満足できる内容であったかもしれないが、この時点では不満の残る内容であった。

 フセインの行動は、下落を続けるマーケットで買いのポジションを持っているトレーダーにそっくりで、「買い値に戻ったら、ポジションを閉じよう」と思っている間に、この買い持ちポジションに対するマーケットの環境はさらに悪化し、「直近の高値になったら損切ろう」と思っていると、時間とともに直近の高値はどんどん下落していく。最終的に、陸上戦は始まってしまい、軍のほとんどを失ってフセインは降伏した。取引口座が破壊されるまで、損を出しているポジションを抱え続け、絶望的な状況で、「反対売買をしてくれ。値段はいくらでもいい。早く解放してくれ」と、ブローカーに叫んでいるトレーダーに、フセインは似ている。

<教訓>
 小さな損をすることができなければ、遅かれ早かれ、丸損を経験することになる。



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